鳥羽山城跡 鳥羽山(108m)・浜松市天竜区二俣町二俣




鳥羽山城跡 鳥羽山(108m)・浜松市天竜区二俣町二俣

二俣城 – Wikipedia

浜松市天竜区二俣町にある鳥羽山城鳥羽山(本城山)108m

地元では鳥羽山公園と呼ばれ、春には桜の名所として大勢の花見客でにぎわいます。

眼下に天竜川を見おろし、遠く遠州平野の雄大な広がりを望める景勝地で、

現在は曲輪、虎口、枡形門大手道などの遺構が残されています。

天正3年(1575)6月、徳川家康が二俣城攻めのとき本陣を構えたところとして有名

2017年には「二俣城跡及び鳥羽山城跡」として国指定史跡に登録されました。

元亀3年(1572)から天正3年(1575)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名。徳川家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城として知られています。

鳥羽山城跡(とばやまじょうあと)

【鳥羽山城跡の概要】
鳥羽山城は、東西500m以上におよぶ標高108mの独立丘陵を巧みに加工して築城されています。本丸をめぐる土塁や石垣が良好な状態で残されているほか、本丸の内部では、発掘調査によって礎石建物や庭園が確認されています。また、本丸に至る大手道は石垣で荘厳化されており、幅6m超える破格の規模を誇ります。こうした特徴から、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の居館だったと推定できます。一方、隣接する二俣城では、天守が築かれ、瓦葺の門が建てられるなど、軍事的な機能に優れた本格的な城郭が整備されます。このように、鳥羽山城と二俣城はその性格が対照的であり、「別郭一城」と呼ばれる一連の城であることが、二つの城の特徴から読み取ることが出来ます。

【鳥羽山城の歴史】
鳥羽山城と二俣城は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いを契機に今川氏によって築かれたと考えられています。永禄11年(1568)今川氏の滅亡により、両城は徳川家康が領有することになりますが、三方ヶ原の戦いがあった元亀3年(1572)には武田信玄によって攻略されました。長篠の戦いがあった天正3年(1575)まで、徳川方と武田方によって両城をめぐる激しい攻防戦が展開され、武田方の二俣城を攻める際には鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれました。その後、天正18年(1590)まで鳥羽山城と二俣城は徳川方が領有しましたが、家康の関東移封に伴い豊臣系の大名である堀尾氏が遠州に入ると、浜松城主堀尾吉晴の弟宗光が二俣城主となります。この頃に鳥羽山・二俣両城は石垣が築かれるなど現在みられる姿に整備され、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の生活の場となったとみられます。こうして整備が進められた鳥羽山城と二俣城でしたが、関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)以降は、戦略拠点としての重要性は薄れ、廃城となりました。

大手道

東門跡

東門跡には排水のために設けられた暗渠が残っています。

東門跡(ひがしもんあと)

東門跡は外枡形の構造をしており、南側の大手門跡、北側の搦手門跡と比べると間口が半分程度の小さな出入り口です。門跡周辺の石垣の上部は、後世の改変を大きく受けていますが、下部では河原石の間詰を用いた野面積みの石垣を確認することができます。また、門跡の北脇の石垣基部には、排水のために設けられた暗渠が確認されており、本丸の外側にのびる排水溝に蓋も残っています。規模や位置などから、通用門として使われていたと推測されます。

本丸展望台

展望台より望む浜松市街

本丸

浜松市指定史跡

鳥羽山城跡(とばやまじょうあと)

鳥羽山城は、東西500m以上におよぶ標高108mの独立丘陵を巧みに加工して築城されています。土塁や石垣が良好な状態で残され、本丸内部では礎石建物や庭園が確認されています、また、大手道は幅6mを超える破格の規模を誇ります。こうした特徴から、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の居館だったと推定できます。一方、隣接する二俣城(ふたまたじょう)では、天守が築かれ、軍事的な機能にすぐれた城郭が整備されます。両城はその性格が対照的であり、「別郭一城」であると考えられます。
徳川方と武田方による攻防の際には、武田方の二俣城を攻めるために鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれました。その後、家康の関東移封に伴い堀尾氏が遠江に入ると鳥羽山・二俣両城は石垣が築かれるなど現在の姿に整備されていきました。

枯山水庭園跡

枯山水庭園跡

昭和49・50年(1974・75)の発掘調査で発見された庭園遺構です。
滝や池のある風景を、水を使わずに表現する枯山水という手法でつくられた庭園で、石組と築山がみつかりました。立石を組むことで滝の水の流れを表現しており、作風が京都の庭園と共通しています。
また、庭園奥の土塁の石垣は、他の石垣とは異なり、小ぶりな丸石を使うことで趣を出しています。この庭園は、建物の小間から近距離で眺める坪庭のような空間だったようです。
山城の本丸に庭園をもうけた例は少なく、鳥羽山城が迎賓機能を備えた居館であったことを示すものとして注目されます。

笹曲輪

笹曲輪の展望台より、三岳山・霧山・観音山・城山・鳶ノ巣山

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