横須賀城跡・静岡県掛川市西大渕




横須賀城跡・静岡県掛川市西大渕

静岡県掛川市西大渕にある横須賀城跡です。

横須賀城は戦国時代末期、天正6年~8年(1578-1580)にかけて、

徳川家康の家臣大須賀康高によって築かれた城で、

当初は約6km東に存在する武田方の高天神城を攻めるための

軍事拠点として使用されました。

天正9年に高天神城が落城すると、

江戸時代にかけては近隣支配の拠点となりました。

国史跡 横須賀城跡
横須賀城は戦国時代末期、天正6年から8年(1578~1580)にかけて、徳川家康の家臣・大須賀康高によって築かれた城であり、当初は約6km東に存在する武田方の高天神城を攻めるための軍事拠点として使用された。
天正9年に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて、城は近隣支配の拠点となった。城主は築城者・大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2年(1682)からは西尾氏8代が城主となった。
明治2年(1869)の廃城後は、城に関する土地や建物等が民間に払い下げられ、横須賀城はその姿を消したが、昭和56年(1981)5月8日、国の史跡に指定された。
横須賀城の特徴は、中世城郭と近世城郭の2つの構造を持っている平山城であること、
大手門が2箇所あること。宝永地震(1707)までは城内に船着場があったこと、河原石だけ
の石垣がみられることなどがあげられる。  

横須賀城の城跡には、

狭い範囲内に紅梅と白梅が約80本の梅が植えられています。

横須賀城の特徴的は、この「玉石垣」と呼ばれる石垣

天竜川の河原の石を野面積みにした大変珍しい石垣です。

1996年に復元されました。

また横須賀城(別称松尾城)は、
山城から平城に移る中間期の特徴を備えた平山城の特徴があげられ、
中世城郭と近世城郭のふたつの顔を併せ持っているといえます。
また、一般的には一つしかない大手門が
東西にあり『両頭の城』とも呼ばれています

この囲まれた場所には嘗て建屋があり、

黒色の玉砂利が引き詰められた箇所は土間ではないかと考えられるそうです。

三日月池北側中段の遺構

横須賀城 天守の建て坪は40坪余 4層の建物と記録されています。

礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で

碁盤目状に27箇所検出されており、これが天守跡と考えられています。

天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープ

建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁があった。

天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、

西側からは鯱瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土している。

横須賀城跡

天守台の遺構

本丸南斜面中段の遺構

横須賀城の歴史

戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていた。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちた。

天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ、約6キロメートル東に存在する武田方の高天神城を奪還するための軍事拠点として横須賀城を築かせた。
天正9年(1581)に高天神城が落城すると、江戸時代にかけて、城は近隣支配の拠点となった。城主は築城者大須賀氏の後、渡瀬氏、有馬氏、松平氏、井上氏、本多氏と続き、天和2年(1682)からは、西尾氏8代が城主となった(城主は8家20代)。
明治2年(1869)の廃城後は、城に関する土地や建物等が民間に払い下げられ、横須賀城はその姿を消した。昭和56年(1981)5月8日、国の史跡に指定される。

横須賀城の特徴

横須賀城は、小笠山から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれ東西に長い形をしている。築城当時、山城として築かれた本丸・松尾山に近世以降の拡張工事によって、二の丸郭、三の丸郭の平城部分が付け加わり、平城と山城の特徴を兼ね備えていることから、平山城といわれている。また普通一か所しかない大手が、東西二か所にあることや、玉石積みの石垣、宝永大地震までは城内に船着場があったことなどがあげられる。

横須賀湊と横須賀城

江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘(復原模型の中土居道下側)から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていた。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていた。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていた。
小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられる。
城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来した。

明治維新の廃城・移築現存門

明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達(いえさと)の領地となって静岡藩に含まれた。明治2年8月には横須賀城も廃城となり、明治6年には城内の土地、建物、石垣、立木まで民間に払い下げられて、町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失った。

歴代城主
初代城主・大須賀康高(1580年1588年)
2代・大須賀忠政(1588年1590年)
3代・渡瀬繁詮(1590年1595年)
4代・有馬豊氏(1595年1600年)
5代・大須賀忠政(1601年1607年)
6代・大須賀忠次(1607年1615年)
7代・徳川頼宣(1615年1619年)
8代・松平重勝(1619年1620年)
9代・松平重忠(1621年1622年)
10代・井上正就(1622年1628年)
11代・井上正利(1628年1645年)
12代・本多利長(1645年1682年)
13代・西尾忠成(1682年1713年)
14代・西尾忠尚(1713年1760年)
15代・西尾忠需(1760年1782年)
16代・西尾忠移(1782年1801年)
17代・西尾忠善(1801年1829年)
18代・西尾忠固(1829年1843年)
19代・西尾忠受(1843年1861年)
20代・西尾忠篤(1861年1868年)

お姫様 祠

天守台東下平坦面の遺構

北の丸跡

数棟の建物が建っていた所で、武器倉跡といわれています。

また城主の側室が住んでいた時期もあったことが記録に残っている。

現在はゲートボール場になっています。

通称 松尾城・両頭城
城郭構造 平城
天守構造 不明、3重4階
築城主 大須賀康高
築城年 天正6年(1578年)
主な城主 大須賀氏、渡瀬繁詮、大須賀氏、西尾氏他
廃城年 明治元年(1868年)
遺構 石垣、曲輪、水堀、移築櫓他
指定文化財 国の史跡
位置 北緯34度41分8.46秒
東経137度58分17.64秒

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