纒向遺跡(邪馬台国 候補地)・奈良県桜井市穴師




纒向遺跡(邪馬台国 候補地)・奈良県桜井市穴師

天理市観光協会 HP
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纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、

弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡で国の史跡に指定されています。

3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。

邪馬台国の中心地に比定する説があり、

卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。

纒向遺跡

纒向遺跡は、初期ヤマト王権発祥の地として、
あるいは邪馬台国(3世紀ごろ)の東の候補地として全国的
にも著名な遺跡であり、遺跡の範囲は古代からの信仰の山、三輪山を背にして、
このあたりの山麗から西方を望む地域一帯に広がっています。
この遺跡は、広大な面積を有することや、九州から関東にいたるまでの
さまざまな地域の土器が全体の15%前後も出土していること箸墓古墳を代表として
纒向石塚古墳、ホケノ山古墳など6墓の発生期の前方後円墳が集中して築かれていること、
農耕具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことなど
他の一般的な集落とは異なる特徴を多くもっています。
また、附近には、景行天皇の纒向日代宮跡や垂仁天皇の纒向珠城宮跡の伝承地もあり、
このことから纒向遺跡は、わが国最初の『都市』、
あるいは初期ヤマト政権の『都宮』とも目されています。
纒向遺跡が栄えていたころの古代の都市を再現し、イメージ図にしてみました。
現在の風景を眺めながら当時の様子を思い浮かべていただいてはいかがでしょうか。

向日代宮伝承地

纏向日代宮は、第十二代景行天皇が営んだ宮です。
記紀によりますと景行天皇の時、皇子の小碓尊(オウスノミコト)別名、
倭建命(ヤマトタケルノミコト)が活躍したとされています。
倭建命は、天皇の命を受けて大和に従わない九州の熊襲(クマソ)や出雲の国へ、
一度帰朝してまた東の国々へと遠征を重ね、
次々に服従させていったという古代の英雄です。
「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」
※は、命が遠征の帰途、病を得て亡くなる時に
ふるさと大和への思いを詠まれた歌の一節とされています。
※日本言?には,景行天皇が九州の日向の国で詠まれた歌とされています。

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