「おんな城主 直虎」ゆかりの地 「女城主 井伊直虎」平成29年 大河ドラマ まとめ17選




「おんな城主 直虎」平成29年 大河ドラマ ゆかりの地 まとめ47選

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井伊直虎サイト|平成29年 大河ドラマ放送決定|「おんな城主 直虎」
http://hamamatsu-daisuki.net/naotora/

2017年NHK大河ドラマは「おんな城主直虎」

主演 柴咲コウ、脚本は「天皇の料理番」などを手掛けた森下佳子さんによります。

舞台は静岡県 浜松市の引佐町井伊谷。

近くに住む私がお勧めする井伊家や井伊直虎にまつわる「観光スポット」を

実際に行って記事にまとめてみました。

1 龍潭寺

龍潭寺

井伊氏歴代を祀る 龍潭寺―。
寺伝によれば、その歴史は古く、奈良時代に行基によって開創され、
平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされています。
戦国時代には、井伊直平に帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎え、
永禄3年(1560)桶狭間で戦死した井伊直盛の戒名から寺号を「龍潭寺」に変えたといわれています。
また、龍潭寺第二世住職 南渓和尚は直平の子という説もあり、
井伊直虎を“女城主”として立てるなど、井伊氏再興の陰の立役者として知られる人物です。
井伊氏ゆかりの足跡は境内の至るところに点在し、
直盛、直虎、直政をはじめとする井伊氏歴代の墓をはじめ、赤地に「井」の記が描かれた籠など、
井伊氏拝領の品も見ることができます。
また、龍潭寺山門を出て南に進むと、井伊氏初代 共保が生まれたとされる
「共保公出生の井戸」が残っています。
その他、江戸初期に造られた国指定名勝「龍潭寺庭園(池泉鑑賞式庭園)」、
国指定重要文化財「宋版錦繍萬花谷」、県指定重要文化財「遊楽之図」など
貴重な文化財が所蔵されています。
悠久なる「井の国」の歴史とともに、井伊氏の起源と繁栄を見守り続けてきた龍潭寺。
井伊氏を知る上で欠かすことのできない名所です。

2 井伊谷宮

井伊谷宮は宗良親王を祀った神社です。

南北朝時代に井伊家が南朝に味方し、宗良親王を井伊谷城に迎えていました。

龍潭寺からも直接行くことができるので龍潭寺を停めたままでもOK

水につけると字が浮き上がる「水みくじ」も珍しいので是非どうぞ。

3 共保公出生の井

共保公出生の井 (ともやすこうしゅっせいのい) の記事

龍潭寺から10分程歩いた所に、共保(ともやす)公出生の井があります。

龍潭寺からは案内板も各所に出ているので解りやすいと思います。

本当に田んぼの中、駐車場などないので龍潭寺とセットで歩いて行くことをお勧めします。

井伊氏祖 共保公出生の井 

この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。
一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、
元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。

たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、
俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。

後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し
当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、
名門井伊氏の基を開いたと謂われます。

又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、
醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、
それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。

三宅の家紋は橘であります。
(引佐町教育委員会)

4 妙雲寺

妙雲寺(みょううんじ) の記事

龍潭寺から北へ、井伊谷川を渡り、井伊谷ガーデンクリニック横の

交差点を左折、行きあたった所に妙雲寺があります。

ここ妙雲寺は龍潭寺と並び井伊直虎の菩提寺でもあります。

なんと井伊直虎と、直虎を支えた南渓瑞聞(なんけいずいもん)和尚の位牌が

最近見つかったと言います。

住職が居るようだったら拝観も可能なよう。

ぜひこちらも押さえておきたいところです!

妙雲寺

現在は臨済宗 妙心寺派に属する寺院で、もともとは自耕庵とよばれていました。

戦国時代、井伊氏の苦難を支えた次郎法師(井伊直虎)の場菩提寺であり
寺号は次郎法師の法名、妙雲院殿にちなみます

次郎法師は井伊氏当主であった井伊直盛の娘で、
幼い頃の井伊直政(虎松)の後見人となりました。
没年は大正10年(1582)です。

現在、妙雲寺がある場所とその周辺には北神宮寺遺跡という
井伊谷でも最大級の遺跡の所在地です。

土地区画整理事業に先立ち、2003年から2007年にかけて発掘調査を行い、
縄文時代から江戸時代にかけて、人々がこの地に住み続けていたことが明らかになりました。

戦国時代についても、大型の建物が確認され、鍋がまとまって出土した一画があり、
井伊氏を支えていた有力者の住まいがあったと考えられます。
平成28年3月 北区まちづくり推進課

5 渭伊神社

渭伊神社(いいじんじゃ)の記事

妙雲寺からさらに西へ向かうと40m程の薬師山の麓に渭伊神社があります。

数台は停めることの出来る無料駐車場、

天白磐座遺跡と神宮寺川が流れる境内は神聖な雰囲気です。

もともと龍潭寺に境内にあり南北兵乱の時に移動されたそう、

直虎の時代にはこの地にあったことになります。

渭伊神社

引佐町井伊谷字天白にあり境内二千五百三十 五坪老杉古桧鬱蒼として繁茂し
北西南の三 方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう) 其風致最も秀拔なり

由緒創立の年代由緒詳ならざれども 三代実録に貞観八年十二月二十六日授遠江 国正六位上蟾渭神
風土記に延喜式神名帳遠江国引佐郡渭 伊神社とあり又江州彦根城主井伊家祖先
備中守共保寛弘七年其神井より出生以 来産土神として信仰厚し

渭伊神社は往昔今の龍潭寺境内にあり しも南北兵乱の時今の地に移せりという
往昔より渭伊二十七郷の大産土神なり旧地頭近藤氏の崇敬厚し

-境内案内より-

6 天白磐座遺跡

天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)の記事

縄文時代後期から信仰の対象とされてきた天白磐座遺跡

高いもので5mの巨石群には圧倒されます。

古代から聖域とされてきた場所だけに直虎も訪れたのでは!

天白磐座遺跡

県指定史跡[平成四年三月十七日]

『延喜式』にその名を載せる渭伊 神社本殿の背後にある薬師山の頂上 に位置し、
約四〇メートル四方にわたって 群在する巨石群を神の依代[磐座] として
我国屈指の規模をもつ古代祭 祀遺跡です。

平成元年[一九九七]夏に実施さ れた発掘調査により四世紀後葉[古 墳時代前期]から
平安時代に至る長 期間、連綿と続いた祭祀場であった ことが明らかとなりました。

とくに高さ七メートルにおよぶ最大の磐 座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場 として限定され、
多量の手こね土器 や鉄鉾や滑石製勾玉などの祭祀に用 いられた遺物が出土しました。

また、十二世紀末には末法思想に よる埋経のための経塚が巨岩群の中 央に営まれ、
渥美製の経筒外容器が 和鏡と共に出土しています。

この遺跡は渭伊神社の創祀が古墳 時代前期までさかのぼることを語る とともに、
古代人の精神や宗教観を 解明するうえに重要な文化財です。
-案内板より-

7 井伊谷城

井伊谷城跡(城山公園)の記事

井伊谷城跡(城山公園)

井伊谷城はこの地の領主である井伊氏が築いた山城です。
標高約115mの山に、単郭式の曲輪が築かれています。
山頂の半北半分は自然の地形を残し、南半分は平に均されています。
曲輪の周りには土塁がめぐり、南側と西側に出入り口をもちます。
南側の出入り口は大手に西側の出入り口は搦め手に相当します。
大手口の両側には土塁が高く築かれており、防御を固めています。
井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にあった城館に加え、
最終的な詰め城である三岳城(井伊谷城の北東2kmに所在)で構成されていました。
江戸時代の記録によると、井伊谷城は「御所の丸」と呼ばれていました。
南北朝の動乱期(1336~1392)に、南朝方の拠点として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)
を擁した場所と関連づけられていたことがうかがえます。
平成28年3月 北区まちずくり推進課

8 二宮神社

二宮神社(にのみやじんじゃ)の記事

二宮神社

南北朝の時代、井伊家は南朝方について、当地域の北朝勢力と争いました。
後醍醐天皇の皇子 宗良親王は、伊勢の大湊より船で当地に向かう途中、
嵐に逢い遭難してしまいました。
しかし、親王が乗った船は幸運にも「しろわの湊」に漂着し、
無事に当地の井伊家を訪れ、三岳城を拠点として戦いました。
しかしながらこの地の南朝方勢力は北朝方に一掃され、親王も信州に逃れ、
井伊家もいったんこの地の拠点を失いました。
二宮神社は井伊家にかかわる多道間守(橘の家紋)とともに
「二宮」と呼ばれた宗良親王を合祀しています。
平成28年3月 北区まちずくり推進課

9 足切観音

足切観音堂(あしきりかんのんどう)の記事

足切観世音の由来

慈は心も遠江、井伊谷の里の円通寺、本尊足切観音・・・
と念仏和讃で有名なこの寺の菩薩は弘法大師の御作で、
南北朝の争乱に二宮宗良親王の御信仰せられた霊仏であります。

時は延元4年(1339年)この辺りは井伊道政を擁し、南北両軍攻防の鎬をけづっておりました。
そんなある日、宗良親王は戦乱に中、敵の流れ矢を受け落馬しました。
馳せ付けた従者がお介抱を申し上げたところ。魔か不思議や傷は消え跡もありませんでした。

親王はその夜、観音さまの夢を見たので是は日頃正しく信心する観世音の効力によるものとして、
翌朝起きると早速参拝し、厨子の扉を開けて見れるならば、
どうしたことか観音さまの片足は鮮血に染まり痛々しいお姿でしたので、
是は私の身代わりとなって立っておられると、
涙を流し益々の信仰を高め終生の守り本尊として祈願なされたと伝わります。

この御持仏堂を護持するために、草創されたのが二宮円通寺なのであります。

-追記-

宗良親王の去られた後、この二宮御所跡には城主井伊直宗公の御舎弟直満らの舘が設けられておりましたが、
直満公の不慮の失陥後は堂を残し荒廃し、武田軍の侵攻による戦火で本尊を残し焼失してしまいました。

龍潭寺十代独兒黙念(どくじもくねん)和尚は之を興し、
慶安2年(1649年)観音堂を再建し中興の祖とされております。

円通寺は昭和31年(1956年)、住職不在の為、隣の明円寺と合併し晋光寺となりました。
毎年10月18日を開帳縁日とし、遠近より善男女の参詣で賑わっております。

平成元年(1989年)11月吉日 歴史と文化を守る会 引佐支部有志一同案内板より

10 晋光寺

晋光寺(しんこうじ)の記事

晋光寺
宗派 臨済宗妙心寺派
所在地 431-2212 静岡県 引佐郡引佐町井伊谷599
TEL 053-542-0752

11 井殿の塚

井殿の塚の記事

井殿の塚

井伊直政の祖父、井伊直満とその弟 直義を祀った塚です。

直満と直義は、天文13年(1544)、今川義元と内通していた井伊家の家老小野泉守政直の
讒言により謀反の疑いをかけられ駿府で殺害されました。

事件後井伊氏居館の一画に供養のための塚を築きました。

塚の上には砂岩制の宝篋塔が残っています。塔身などの江戸時代以降の補修がみられますが、
本体は16世紀の特徴がうかがえます。

* 塚を覆う大樹はタブノキです。

12 井伊家居館跡

井伊家居館跡(いいけきょかんあと)の記事

井伊氏居館跡

江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、
引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。

井伊氏の元祖共保公は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、
共資が一條天皇の正暦年中、遠江の廳に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉い、
寛弘7年正月篤茂の館に於いて生誕したと謂われております。

以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、
後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、
激烈な戦火を繰り広げました。

以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、
永禄5年には幼主直政公も此處を立退き、遂に主無き館となりました。

嘉永5年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、
境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられています。

平成元年8月吉日 引佐町歴史と文化を守る会 引佐支部有志一同

13 三嶽神社(みたけじんじゃ)三岳神社

三嶽神社(みたけじんじゃ)三岳神社の記事

井伊谷城から東へ国道257を越え、

さらに三岳城跡地へ進んだ道沿いにあります。

神社の鳥居前には2台・本殿近くに10台程の駐車スペースがあります。

なお、三嶽神社の境内は三の城跡です。

三嶽神社(みたけじんじゃ)

式内社 遠江國引佐郡 大神社 旧村社

御祭神 勾大兄広国押武金日尊
配祀 大國主命 少彦名命
合祀 表津綿津見神 中津綿津見神 底津綿津見神
表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命

14 三岳城(三嶽城)

三岳城跡(みたけじょうあと)三嶽城跡の記事

三岳城跡へは三嶽神社から山道を30分程度登った所にあります。

車でのアクセスはここまで、後は山道を行くことになります。

本格的な山道なのでトレッキングシューズやポール等の装備をして向かいましょう。

山頂からの眺めは素晴らしく、天気が良ければ浜名湖や富士山までもが眺望出来ます。

1時間程度で楽しめるのでハイキングにも最適です。

三岳城

尾根伝いに細長く一の城、二の城、三の城と別れ、深い谷や急な斜面など
自然の地形を巧みに利用した連郭式山城であって、中世城郭の典型的な形態。
現在も三岳神社脇から標高466.3mの山頂へ徒歩30分ほどで登ることができ
(運動靴着用のこと)、山頂からの眺めは絶景。
天気のよい日には、浜名湖や遠くアクトタワーを見ることができる。
浜松情報BOOKより

15 井伊直親公の墓(いいなおちかこうのはか)

伊直親公の墓(いいなおちかこうのはか)の記事

井伊直親は徳川四天王で有名な井伊直政の父親です。

『井伊直親公の墓』は国道257号線(通称・金指街道)

新祝田橋北岸の堤防道路を西へ300メートルほど行った堤防の下にあります。

堤防の上からは細い道が整備されていますが

ゆっくり行かないと見過ごしてしまいそうな所です。

土盛の上に小さな石碑があり、その手前に嘉永4年(1851)子孫の井伊直弼が墓参に訪れたおり

寄進された灯籠が一対ありました。

16 蜂前神社(はちさきじんじゃ)

蜂前神社(はちさきじんじゃ)の記事

蜂前神社

神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。
井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、
直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元年(1555)に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村(ほうだ)に
住みました。
桶狭間で主君・義元とともし直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、
今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。
存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9年(1566)、
今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(貸借関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。
蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。
平成28年3月 非宅まちづくり推進課

17 三方ヶ原古戦場跡(みかたがはらこせんじょうあと)

三方ヶ原古戦場跡(みかたがはらこせんじょうあと)の記事

三方ヶ原古戦場跡

上洛を目指した武田信玄は元亀3年(1572)10月3日に
2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる
三方原に進出してきた。
徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川軍8000と織田信長の援軍3000)
の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍に迫った。
徳川軍はいつでの攻撃出来るような鶴翼の形をとり、
家康の陣形の確認した武田信玄は魚鱗の陣形をとった。
戦いは日暮れに近いころ、ここ三方原の根洗付近で開始されたが、
徳川軍は武田軍の前に惨敗、総崩れとなって浜松城に退却した。
この戦いで敗れた家康は多くの教訓を得た。
「浜松市史」ではこれをつぎのように記している。
「この敗戦によって弾力のある積極性の重要さを身をもって体験した。
また、野戦のかけひき、短時間で勝敗を決するという哲学を学びとったのである。
家康が野戦の名将となったのは、三方原の敗戦によってえた経験が大きく作用している。」

18 井伊直平公の墓(いいなおひらこうのはか)

井伊直平公の墓(いいなおひらこうのはか)の記事

直虎の曽祖父。

川名の渓雲寺で弔われてこの地に葬られた。

なお、現在の墓所は江戸時代に再建されたもの。

19 渓雲寺(けいうんじ)

19 渓雲寺(けいうんじ)の記事

渓雲寺

永禄6年(1563)、今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めに行く途中に
急死した直虎の曽祖父・直平を祀る菩提寺。
家臣の大石が渓雲寺に埋葬したと伝えられる。

20 福満寺薬師堂(ふくまんじやくしどう)「川名ひよんどり」

福満寺薬師堂(ふくまんじやくしどう)「川名ひよんどり」の記事

福満寺薬師堂

福満寺は、現在薬師堂だけが残されていますが、
かつては12の塔頭をかかえる大寺院だったと伝わります。
応永のころ焼失し、渋川井伊氏の直貞が応年33年(1426)に再建されました。
近隣の東福寺も現在は小さなお堂が残るのみですが、
元は坊の一つだったと考えられます。
当地域周辺には多くの伝統芸能があり、当堂においても毎年一月四日には、
国指定重要無形民俗文化財「川名のひよんどり」がとりおこなわれます。
なお、かつては八日堂と呼ばれたように、一月八日に行われた祭礼です。

三日堂 寺野 宝蔵寺 観音堂
四日堂 渋川 万福寺 薬師堂
五日堂 懐山 新福寺 阿弥陀堂
五日堂 神沢 万福寺 阿弥陀堂
六日堂 黒沢 峯福寺 阿弥陀堂
七日堂 滝沢 安楽寺 大日堂
八日堂 川名 福満寺 薬師堂

21 如意院(にょいいん)

如意院(にょいいん)の記事

如意院

直虎の祖父である直宗の正室・浄心院が、天文11年(1542)、
三河の田原城攻めで戦死した直宗の菩提を弔うために建立した。
浄心院のお世話をした村人は、隠居免といわれる年貢の免除を受けたといわれる。

22 寺野六所神社(てらのろくしょじんじゃ)

寺野六所神社(てらのろくしょじんじゃ)の記事

六所神社

14等級    無資格
鎮座地 浜松市北区引佐町渋川823番地
ご祭神 天照皇大神・須佐男之命・八刀賣之命
表筒男之命・中筒男之命・底筒男之命
天之子屋根命・建御名方之命・建御賀豆智命

由緒  往古建立の時代詳かでないが文献棟札等により天慶年間と云う。
(1060~1070)
後承久年間に至りこの土地は三河国及び信濃国に通ずる要衝にして、
寺野村と称し氏神を中心とし七十四戸となり農耕を業す。
生活民度相当に高く其証據には住宅建坪大きく又抹茶を挽く
茶臼昔は各戸に在りえを使い茶の湯を嗜好したり又刀剣類の保存しあるは、
其開拓の先哲が想當の由緒ある一族と思われる。
其後建武中興の時代に至り、領主たりし伊井遠江守道政、
井伊谷城に宗良親王を迎へ奉り官軍に従テ王事に盡す。
宗良親王に於かれては常に信濃の国の同志義運に連絡を計り賜り、
信濃へ御越し遊被る為屢々當地を御通過の砌り当六所神社に参籠遊せ
三七、二十一日の御祈願遊され武運長久、王政復古を願掛けられたり、
其の満願の当日に神社へ寶物として横笛一本を寄進せられたり。
此を青葉の笛と称し當神社の寶物として氏子畏敬し
毎年一回旧九月十九日(中節句)祭典を行う。
古説に曰く青葉の笛とは昔宮廷に於て青葉の木(当地にてはミツバの木と云う)
一本にて三個の笛を作り往古より三本より無しと云う。
現に歴史上有名なる中国、須摩寺にある平敦盛が一の谷で
吹奏したる笛と同と云う。
氏子一同信迎の中心にして村民多く舞楽の技を好み、男子は六七才に至り
横笛の吹奏が出来名手出すことあり。
遠近各地より諸芸人古来参詣する者多かりけり。
明治七年勅令に依り當神社も渋川郷社に合併廃止となる。
其當時の寺野六所神社は實に廣大なる神域にして鬱蒼たる森に社殿も
整ひ廃止時き神社の御坂石の切石の如きは他の神社に持運び
神社の巻石となしたりと云う。
大正十一年六月には部落全域に腸チフスに罹り
患者六十余名中十三名死亡者ありたり、
誰云うとなく氏神の祟りならむと云う者出て、御嶽行者の祈祷を依頼したり、
然る所氏神様が元の鎮座地に戻り度き為め、氏神の祟りと云う、
人皆半信半疑なりしも、衆議一決し氏神遷宮を実行しするため
社格を付度き要望を二千六百年記念事業として時の内務大臣閣下、
知事小浜八弥閣下の副申を得て出願した処、当神社の承認賜り現在に至る。
毎年正月三日寺野観音堂で火踊りの芸能が行はれている。
引佐神社誌

23 寺野宝蔵寺観音堂「寺野ひよんどり」寺野三日堂

寺野宝蔵寺観音堂「寺野ひよんどり」寺野三日堂の記事

国指定重要無形民族文化財
寺野三日堂祭礼ひよんどり
国指定 平成六年十二月十三日
公演月日 例年一月三日
場所 直笛山宝蔵寺
保護団体名 寺野伝承保存会

解説文 この芸能は、静岡県引佐郡引佐町渋川寺野の寺野観音堂の祭のおり(1月3日)に
演じられる一種の田楽能ともいえるもので、その本旨は田遊びとして行なわれ、
別におこないなどとも呼ばれる。
また、ひよんどりの名は、演目中の鬼の舞で松明の火を乱打するところを火踊とも呼び、
その転訛したものであろうともいわれる。
芸能は、まず神下しにはじまり、御神楽と万歳楽・三ッ舞・片剣舞ともどきなど
十三番の曲で進行し、舞は正面二回の五方に舞うことを基本とする。
もとは万歳・松影・田農などふくめて計二十番が徹宵して行なわれたという。
また現行曲のなかに復演出のもどき芸のふくまれている点などは、
中世芸能史の資料として貴重なものである。
文化庁 国指定文化財等データーベースより

24 東光院(とうこういん)

東光院(とうこういん)の記事

東光院(とうこういん)

井伊直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)が一時、
身を寄せていた寺院です。臨済宗方廣寺派 に属します。
天文13年(1544)、亀之丞の父である井伊直満とその弟の井伊直義が
謀反の疑いをかけられ、今川義元によって駿府で殺害されました。
事件の後、直満の息子である亀之丞の命も狙われたため、
家臣の今村藤七郎に背負われて領内の黒田山中からこの寺に逃げ込んで
かくまわれますが、追っ手がさらに迫ったため、信州の松源寺に移りました。
天文14年(1545)正月の3日の夜、亀之丞が松源寺へ向けて出発した直後、
渋川大平にて右近次郎に弓矢にて追撃をうけるも、
危うくその場を脱出することができました。
亀之丞が井伊谷に戻るのは事件の11年後、弘治元年(1555)のことです。

25 渋川井伊家墓所(しぶかわいいけぼしょ)

渋川井伊家墓所(しぶかわいいけぼしょ)の記事

諸説あるそうだが、同地にある渋川城は井伊家八代目の井伊泰直の子

井伊直助が(上野左衛門次郎)を名乗って分家し

直助の子直貞が(渋川太郎二郎)を名乗りこの地に移り住んことに始まるそう。

井伊直之、直貞、直秀、直幸、直親など

井伊家の名前が残っています。

そばにある菩提樹は樹齢推定300年で、

お墓をここへ移した時に移植されたそうです。

26 渋川六所神社(岩谷)

渋川六所神社(岩谷)の記事

六所神社 九等級 旧郷社

浜松市北区引佐町渋川3795番地

ご祭神  表津海見神 中津海見神 底津海見神
表筒男之命 中筒男之命 底筒男之命
由緒概要 康安二壬寅年二月六日渋川字寛之脇に鎮座し
明治七年九月一日現在の岩谷に遷座せられしものなり
昭和43年5月に不審火により拝殿一部残し全焼するも、
氏子の奇特にてご神体は無事持ち出した。
即刻氏子信者による復興の企により新築された。
引佐神社誌より

27 井平氏居館跡(いだいらしきょかんあと)

井平氏居館跡(いだいらしきょかんあと)の記事

井平氏居館跡

この場所は井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井平直時は処に居館を構え、
この先北方の300mの山麓に城を築き、この場所は井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井平氏の祖となりました。
それから約330年の間、この場所は井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井平氏は井伊氏を支える有力な家系となり、
井伊直虎の曾祖父や祖母(井伊直平の妻や井伊直宗の妻)はこの地で誕生しております。
元亀3年(1572)武田信玄軍が侵攻したこの場所は井平氏の居館跡と伝えられております。
寛元3年(1245)井伊家から分家した井平城(仏坂)の戦いで当時の城主、
伊平直成は88名の家臣と共に討死にしました。
城郭、居館は焼き討ちに遭い、伊平氏は一時途絶えました。
その後、天正元年(1573)井伊直平の末子、井伊直種が伊平氏の当主となり、
殿村に居館を築きました。天正18年(1590)直種の嫡男の弥三朗は、
井伊直政の家臣として小田原攻めに参戦し、18才の若さで討死、
伊平氏は断絶しました。近くには直種夫婦、弥三朗の墓所があり、
位牌は長興寺に、御霊は林森神社に祀られております。
平成28年11月 北区まちづくり推進課

28 井平城跡(いだいらじょうあと)

井平城跡(いだいらじょうあと)の記事

 井平城跡(城山)

井平氏は井伊家七代井伊弥直(みつなお)の時代に分家、
井平四郎左衛門直時が井平氏の祖となり、井平・花平の領主で
この下に居館を構えていた。
南北朝期井伊家の技城が記されている浜名古城記に
「北は井平の川東、今城山と云う処に砦を築き井平四郎左衛門二郎重時
其の子掃部(かもん)左衛門直勝之を守る」とある。
天文十三年十二月(一五四四)井伊谷城主井伊次郎に招かれた
連歌師の宗牧は井平村を通過した折その道中記東国紀行に
「片岡かけたる古城かり之も井伊家一家の人」
と井平城のたたずまいを詠じている。
又細江町の式内社蜂前神社の古文書には井伊直平公の嫡男で
井伊家十四代井伊宮内少輔直宗の井平村御在城が記録されている。
井平城は旧鳳来寺街道上の要所に在り戦国時代小屋と呼称されていた。
元亀三年十月(一五七一)武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の率いる
一族の侵攻を受け落城している。
この付近には帯郭(おびくるわ)・土塁・土豪・井戸跡等と目される遺構が
現在槿かに昔日の面影を留めている。
井平ふるさと会 井平観光協会

29 仏坂古戦場(ほとけざかこせんじょう) 「ふろんぼ様」

仏坂古戦場(ほとけざかこせんじょう) 「ふろんぼ様」の記事

ふろんぼ様

ふろんぼは古坊か古い墓の訛ったものか、
古来からふろんぼと呼ばれてきた。
元亀三年十月二十二日武田信玄が遠江に侵攻した折 山県三郎兵江昌景の率いる
一隊は東三河から山吉田鈴木岩見守重好を攻めたが満光寺朝堂玄賀和尚の和議で
岩見守は柿本城(山吉田城)を開き一族と共に三遠国境を越え
井平の鈴木出雲守の守る小屋の砦(井平城)に引退いたがこれを追って来た
山県勢と仏坂で激戦を交えている。
この戦いで井伊飛騨守直成(井平領主)は鉄砲に的り戦死、
岩見守一族 鈴木権蔵重俊も頬当の下菱縫に鉄砲を受け討死した(享年二十二才)
この戦で討死した井伊飛騨守や鈴木権蔵重俊を始めとして
多くの戦国の武将の菩提をこの地に葬ったものと伝えている。
井平観光協会 井平ふるさと会

30 亀之丞の隠岩(かめのじょうのかくれいわ)

亀之丞の隠岩(かめのじょうのかくれいわ)の記事

亀之丞の隠岩

永正14年(1545)直虎の許嫁、亀之丞(直親)○才の時に家老、
小野和泉守の陰謀から身の危険を感じ、家来の今村藤七郎が背負う
カマスに隠れて井伊谷を脱出、信州市田の松源寺で10年間の逃亡生活をした。
逃亡の途中、追手から身を隠す為に一夜明かした場所。

31 刑部城跡(おさかべじょうあと)・金山神社

刑部城跡(おさかべじょうあと)・金山神社の記事

刑部城址(おかべじょうし)

阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれました。
戦国時代の永禄11年(1568)12月、この地の人々がここに城柵を築いて立てこもり、
徳川家康の軍と戦い敗れました。
現在、県道の北側に位置する城址には、今までも当時の犬走りや井戸が残っています。
姫街道の位置は現在とは異なり、この城の東側を通って落合川の渡し場へ通じていました。
細江町教育委員会

32 伝堀川城跡(堀川城の戦い)

伝堀川城跡(堀川城の戦い)の記事

伝堀川城跡

永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった
井伊谷三人衆、近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、
鈴木重時(しげとき)らを調略し、彼らの本領を安堵しました。
これにより、家康は井伊谷から刑部城(おさがべじょう)、引間城へと軍を進め、
遠江に前線を得ました。
しかし今川配下に土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。
翌、永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城跡です。
当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったとおもわれます。
形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して
気賀の獄門畷にさらし首にしています。
城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、
堀江城は家康との和睦を選択します。
同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、
やがてそれぞれ独立していきました。
平成28年3月 北区まちづくり推進課

33 気賀関所(きがせきしょ)

気賀関所(きがせきしょ)の記事

気賀関所

江戸時代細江町を東から西に横切っていた街道を
東海道本坂越又は本坂道姫街道などと呼んでいました。
慶長6年(1601)、姫街道の要衝であった気賀の地に徳川家康は関所を設けて、
入鉄砲と出女の監視を中心に通行する人や荷物の取調べを行った。
その後箱根にも関所が設けられ、気賀関所は箱根関所、
今切(新居)関所とともに東海道三大関所といわれ、明治2年(1869)まで続いた。

34 金地院(こんちいん)

金地院(こんちいん)の記事

金地院(こんちいん

三郷は定光山(じょうこうさん)。宗派は臨済宗妙心寺派。
開山は紀州興国寺法燈国師(ほっとうこくし)の法孫早巌和尚(とうがん)。
建武年間(1334~6)の創建と伝えられています。
南北朝の時代、井伊家は南朝方について、当地域の北朝方の勢力と争いました。
後醍醐天皇の皇子、宗良親王は、当時の井伊家を訪れ、三岳城を拠点として戦いました。
しかしながら、当地域の南朝勢力は北朝方に一掃され、親王も信州に逃れ、
井伊家もいったこの地域の拠点を失いました。
延元3年(1338)3月、親王が出陣のため井伊谷を出立された際、
妃の駿河姫(井伊直政の娘)も見送りのため同行されました。
しかし、この地に到って姫が急逝されたため、その葬送を金地院に仰せつけ以後、
姫を寺の開基として祀っています。
寺には「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」という位牌があります。
山門の西の果樹園の中に「岩神」という石碑があり、
その周辺に姫は葬られたと伝わっています。
江戸時代の朱印高三石。また、、南の姫街道沿いにある二宮神社は、
姫の他界の地に創建され、姫を祭神とし、伝記が伝えられています。
安政6年(1859)勤皇の書家、永知楽(えいちらく)が当山にて自刃、
墓とその書があります。
明治9年(1876)の火災により観音堂(享保14年1729)と
山門(天明8年1788建立)を残して焼失、荒廃しました。
明治43年(1910)大圭和尚が住職として入り、
枇杷の葉治療によって多くの難治の病者を救済し子弟育成、
蜜柑栽培などの刻苦勤勉の結果、本堂を薬師如来に改めました。
その頃、元妙心寺派管長、山田無文老師が当山にて出家されました。
昭和55年(1980)、鐘楼を再建、平成20年(2008)、位牌堂等を再建。
北区まちづくり推進課

35 細江神社(ほそえじんじゃ)

細江神社(ほそえじんじゃ)の記事

細江神社
細江神社社叢・楠
昭和49年5月1日指定

明応7年(1498)の大地震による大津波で浜名湖の湖口を守る神として、
荒井(新居)の里に祭られていた、角避比古神社の御神体の素盞嗚尊が、
気賀上村の赤池の地に漂着したといわれる。

人々は初め赤池の北90m程のところに仮屋を建て祭っていたが、
永正7年(1510)この地に社殿を建てて祀った。
社叢には、この時以来数百年の年輪を重ねた、根回り18mもある楠が林立し、
歴史の変遷を静かに見守っている。
また天台烏薬、亜熱帯性植物など多数の珍種植物が群生している。
昭和63年3月20日 細江町教育委員会

36 姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館

姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館の記事

東海道の脇街道である姫街道を紹介。

引佐という群名を示す墨書土器などが展示されている。

37 東林寺(とうりんじ)

臨済宗方広寺派 東林寺(とうりんじ)の記事

気賀宿の避難場所 細江の人々と共に苦難の寺史を乗り越えた寺

東林寺がいつ頃開かれたのかは明確ではないが、行基が地方巡錫の時、
この地に構えた草庵が開創の始まりとされているが、
開創千二百有余年の道のりは平坦なものではなかった。

室町時代、当時今川氏に属していた細江の人々は三河から攻め込んできた
徳川家康に強く抵抗し、堀川城にたてこもり激しい戦いとなった。
結果的に地侍をはじめ多くの細江の住民が殺害され、東林寺にも火が放たれた。
この時、往古の寺史が記された古記録や古文書が焼失し、
現在でも正確な開創時期は不明である。
その後数年で臨済宗無文派の陽国禅師によって再興されたが、
徳川家に背いた過去は消えず、幕府からは冷遇され続けたという。
本堂西側の庚申堂は元禄の頃に建てられたもので、領主近藤氏の崇敬を受けていたといい、
今でも開運厄除、願望成就にご利益があるといい、訪れる人も少なくない。
また東林寺は本陣(江戸時代以降の宿場。ここでは気賀宿を指す)で変事が起きた際の
避難場所である『御退場寺』に指定されていたという歴史もある。
また寺の東側には当時、地元の農民たちが関所を通らずに野良仕事に行くためにつくった
犬くぐり道と呼ばれる抜け道が復元されている。

38 鳳来寺(ほうらいじ)

鳳来寺(ほうらいじ)の記事

鳳来寺山

真言宗五智教団の本山。古来峯の薬師と呼ばれ、
薬師信仰と山岳修験の山として信仰を集めた
1300年前開祖は利修仙人。文武天皇の病気を治し鳳来寺に伽藍を建立することを許された。
鎌倉時代には源頼朝が宿坊などを再建した。
徳川家光によって慶安4(1651)年に建立された仁王門は国の重要文化財です。

麓から1425段の石段が続く長い鳳来寺の参道には、樹齢800年、
現存するものとしては日本一となる高さ60mを誇る傘杉などの見どころがあり、
石段を上るごとに広がりを見せる奥三河の自然の風景は癒し効果絶大。
また、紅葉の名所として名高い「鳳来寺山」は、“声の仏法僧”とも呼ばれる
愛知県の県鳥コノハズクが棲息していることでも知られています。
山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている自然の宝庫。

39 鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)

鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)の記事

由緒

慶安元年4月、徳川三代将軍家光公は、日光山東照宮へ御参拝の折、
「東照社の縁起」を御覧になられました。

東照(家康公)神君のお父君であられる贈大納言廣忠卿が子どものないことを憂いて、
お母君であられる北の方傳通院と御一緒に鳳来寺峯薬師へ御参籠され御祈願をなされたら、
その証があって、ある夜、北の方傳通院殿(於代の方)は、
『東 の方より老翁が来て、金珠を与えられる』という夢を見られました。
それから間もなく北の方傳通院殿が身ごもられ、12ケ月過ぎ、
天文11年壬寅年(1542)12月26日に御出産遊ばされたのが東照神君でした。」

三代将軍家光公は改めて東照神君への思いを新たにされ、その恩返しとして、
鳳来寺薬師堂をはじめ数多くの堂坊を再建され、
また、東照宮を新設することを思い立たれました。
慶安元年4月に御造営の旨を命じられ、四代将軍家綱の代、
慶安4年辛卯年(1651)9月17日に落成創祀されました。

その後、16回程修理が施され、平成の大修理(平成15年・第17回修理)により
創建当時(約360年前)の美しさを彷彿されます。
鳳来山東照宮H.Pより

40 大福寺(だいふくじ)

高野山 真言宗 大福寺(だいふくじ)の記事

大福寺は、元々 富幕山山頂にあった名刹

寺院は井伊家の加護を受けており所々に家紋が見られます。

また宝物殿には井伊家ゆかりの籠などゆかりの品々も

室町時代から大福寺に伝わる大福寺納豆は徳川家康公が好んだという特製納豆。

大福寺

貞観17年(857)に名僧教待上人が開創、承元元年(1207)に現在地に移設された。
宝物殿「聚古館」には、国指定重要文化財、南北朝時代の古文書・瑠璃山年録残編を所蔵。
浜納豆の元祖といわれる寺製の大福寺納豆も有名。

41 摩訶耶寺(まかやじ)

大乗山宝池院 摩訶耶寺(まかやじ) 高野山真言宗の記事

摩訶耶寺

摩訶耶寺は、神亀3年(726) 行基によって新達寺として開創されました。

富幕山に開創された新達寺は平安時代に千頭ヶ峯の観音岩と呼ばれる場所に移り名を真萱寺へと変え、
やがてマカヤ寺と呼ばれるようになり、平安時代末期に一条天皇の勅願により今の場所へと移りました。

御本尊の厄除正観世音菩薩(秘仏)は奈良時代から今日まで、
度重なる兵火・天災から僧たちによって守られ、受け継がれています。

摩訶耶寺は古くから厄除けの寺として知られ、袋井の法多山、
祝田の善明寺の観音様と三姉妹観音で、その長女が摩訶耶寺の御本尊なのです。

庭園は平安末期から鎌倉初期の日本の中世庭園を代表するもので、座視鑑賞式池泉庭です。

不動明王像(平安時代末期の作)と千手観音像(藤原時代初期の作)は国の重要文化財に指定され、
また阿弥陀如来像(平安時代末期の作)は県の重要文化財に指定されています。

42 方広寺(ほうこうじ)奥山半僧坊

臨済宗方広寺派大本山 方広寺(ほうこうじ)奥山半僧坊の記事

大本山 方広寺

井伊家の一族奥山朝藤が後醍醐天皇の皇子・無文元選を招いて開創した
禅宗臨済宗方広寺派の大本山。井伊直政の実母は奥山家の出身。

43 初山 宝林寺(しょさんほうりんじ)

初山 宝林寺(しょさんほうりんじ)の記事

初山 宝林寺

江戸時代の初期、黄檗宗(おおばく)の開祖隠元禅師に従って明の国から
来朝した独湛禅師(どくたん)は寛文四年(壱六六四)金指近藤家二代目当主、
近藤登之助貞用の招きに応じ、初山 宝林寺を開創した、
以来当寺は金指、気賀両近藤家の菩提寺として栄え、遠州地方の
黄檗文化の中心となった。

宝林寺仏殿・方丈(重要文化財)

仏殿
仏殿は本堂ともいい、正面に釈迦如来座像及両脇遅侍像(県指定彫刻)
を祀り左右の厨子に達磨大師座像・伝武帝倚像(共に県指定彫刻)、
両側の壇上には二十四善神立像(県指定彫刻)が配されている。
桁行五間、梁間六間、入母野造の柿葺き黄檗宗が日本に伝えられた
当時の建築様式を現代に伝える貴重な建築物である。

方丈(ほうじょう)
方丈は歴代住職の起居胴として、また、修行僧との問答の場として、
正徳六年(一七一八)に建築された。
桁行九間、梁間六間半、茅葺きで、現在は中央仏間に独湛禅師の
等身大の木造肖像彫刻を祀る。

宝林寺の文化財

建造物では仏殿・方丈のほが、山門(県指定建造物)、
報恩堂(市指定建造物)、龍文堂が現存し、伽藍配置をなしている。
美術工芸品では、仏殿内諸像のほか、独湛禅師像・近藤貞用(語石)
夫婦像(共に県指定絵画)、法源禅師像(市指定絵画)、歴代住職画像、
独湛禅師の書画など、が図多くの文化財を所有する。
また境内には、エンコウスギ(市指定天然記念物)の大木はじめ、
阿弥陀三尊、五如来、金鳴石「初山焼」と呼ばれる陶器を焼いた古壷などの
文化遺産が所在するほか、駐車場東側斜面地の近藤家墓所には歴代当主・
妻子の墓塔(石塔)が立ち並んでいる。
平成二十七年三月 浜松市教育委員会

44 千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)

千頭峯城跡(せんとうがみねじょうあと)の記事

千頭峯城について

この城山は、大福寺の古記録瑠璃山年録残篇に記されている千頭峯城で、
この城は南北朝の昔宗良親王を奉じて奮戦した
井伊氏の西方における南北朝最大の拠点、千頭峯本城の跡である。
守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、
大江氏を始め勤王の将士数百騎で籠城した。
北朝方の武将、高師兼は大軍を率いて三ヶ月間の攻撃を加え
暦応二年(1339)十月三十日落城した。
本城は昭和十五年に専門家の合同調査により鶴翼型の典型的な山城で、
規模も大きく、当時の塹壕塁段砦井戸などはっきりと残っており、
山城跡としては、全国的にも代表的なものといわれる。
三ヶ日教育委員会,千頭峯城史蹟保存会

45 二俣城跡(ふたまたじょうあと)

二俣城跡(ふたまたじょうあと)の記事

浜松市指定史跡
二俣城址

二俣城の構造
標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)
本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。
天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、
北虎口は喰(く)い違い虎口である。
本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。
本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。
二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には
それぞれ堀切(ほりきり)がある。

歴代二俣城主
二俣には現在、城跡が三か所ある。
この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、
そしてこの城山の「二俣城」である。
これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、
当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。
このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えても
どの城を指すのか確定するのは難しい。
ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)
までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から
元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。

二俣城をめぐる攻防
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、
二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。
二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、
しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、
遠州平野の「扇の要」であったからである。

<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、
信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。
武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。
徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で
天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。
こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。

<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、
武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。
鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に
砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。
武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。
そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する
天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。

徳川信康自刃事件
大久保忠世が在城中に起こった事件として、
有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、
織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。
この事件は戦国哀史として広く知られている。
平成8年11月1日 浜松市教育委員会

46 信康山 清瀧寺(せいりゅうじ)

信康山 清瀧寺(せいりゅうじ) 徳川信康公霊廟の記事

清瀧寺(せいりゅうじ)

家康公の嫡男で井伊家の血をひく信康が、
謀反の疑いをかけられ自害した信康を供養するため、家康により建立・命名された寺
本堂内陣には、徳川家康の木像や信康の位牌、徳川家歴代将軍の位牌が安置されている

47 奥山氏居館跡(おくやましきょかんあと)

奥山氏居館跡(おくやましきょかんあと)の記事

奥山氏居館跡(おくやましきょかんあと)

井伊家の分家である奥山氏の居館跡がこの地に想定されています。
奥山氏は分家とはいうものの、嫡流家に匹敵する力を持っていました。
南北朝時代の当主、奥山六郎次郎朝藤は、後醍醐天皇の皇子、
無文元選を招き、方広寺を開いています。
また、奥山氏一族は、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元に従い、
多くの戦死者を出したといわれています。
井伊直政の実母(奥山因幡守朝利の娘)も奥山氏の出身です。

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