京丸の里「京丸藤原本家」京丸牡丹(遠州七不思議)




京丸の里「京丸藤原本家」京丸牡丹(遠州七不思議)

京丸 Wikipedia

遠州七不思議京丸牡丹」が伝えられている地です。

南北朝時代の落人がこの地に隠れ住んだのが起源とも伝わり、

享保年間に発見されるまでは存在を知られることのなかった隠れ里です。

遠州七不思議(えんしゅうななふしぎ)とは、静岡県の遠州地方に伝わる七つの不思議な物語のことです。遠州七不思議といっても組み合わせには諸説あり、合わせると7つ以上存在します。地域によって話が違っていたり、一定したものではないようです。

石切ゲート

石切川沿いの林道をバンガローを経て、

未舗装の道を数キロ進んだ先、石切ゲートまでが通行可能。

さらに片道1時間半 程度林道を歩いた先にあります。

(画像右側の林道を進み、里に通じる曲がり角を登ります)

牡丹谷と高塚山

遠州七不思議「京丸牡丹」

昔、春野町気田から数十キロの山奥に京丸という村があり、そこに一人の若い旅人が迷い込んできた。彼は長い山道に疲れ果て、更に空腹だったため、まるで病人のようであった。

旅人が村の村長の家を訪ねると、彼の事情を聞いた村長は親切にいたわり、食と宿を与えた。また、村長には若く美しい娘がおり、彼女もまた旅人を優しくいたわった。

幾日か経つと、旅人は元のように元気になったが、旅人はこの村から出ようとはせず、村人と一緒に炭焼きや農耕の手伝いをしていた。そして、彼はいつの間にか村長の娘と恋仲になっていた。

旅人と娘が恋仲になっているのを村長は知り、困っていた。娘の恋を成就させたいと願う一方、村には他村の者を村人にすることや他村の者と結婚することを禁止する厳しい掟があった。村長は旅人に村の掟を話し、村から出て行って欲しいと頼むと、旅人は承知し、次の日の朝には若い二人の姿が村から消えていた。

それから数ヵ月後の夕暮れ、村長の家の裏に村を出たはずの若い二人がみすぼらしい姿で立っていた。二人はこの数ヶ月、いろいろな地を回ったが、どこにも安住の地を求めることができず、村に戻ってきてしまったのである。

しかし、村長は掟だからと言い、二人は再び家を出て行った。二人はその足で村の前の気田川に身を投げ、死んでしまった。

その後、命日になると行き場のない2人の魂が大きな牡丹となって気田川のふちを彩っている。

京丸藤原本家と牡丹谷

遠く南北朝時代の頃か藤原左衛門佐が乱を避けてこの地に住したと伝えられている。ここ京丸は古くから秘境として世間に知られていた。この藤原本家は由緒ある家柄の子孫とも伝えられ代々「葉菊」が家紋として用いられて来ている。又古文書「慶長四年九月二日の検地帳」(太閤検地)によれば当時京丸は二十件余りのムラをなしていた。

医者の薬丸と京丸牡丹 取りにやいかれず咲き(先)次第

江戸俚謠にうたわれた京丸牡丹谷は深い沢を隔てて藤原本家と相対している。

有名な京丸牡丹は、傘大の白い花で谷の中腹に六十年毎に一回咲くとも天変地異の前兆として開花するとも伝えらた。貴なる美しい伝説として広くいい◯かれて来た。国文学者 歌人として名声の高い釈迢空 折口 信夫博士も大正九年七月二十二日入山一泊している。 昭和六十年十一月吉日 春野町教育委員会

歌集「海やまのあひだ」より

山のうへに かそけく人は住みにけり 道くだりくる心はなごめり 迢空

山神の祠

築110年、集落最後の住人が住んでいた「藤原本家

現在の建物は、江戸時代末期に火災に遭って以降、

明治に入って建てられたものだそうです。

藤原本家

藤原家の古文書類はその際の火災ですべて焼失したが、

代々口伝で伝わる話によると

遠く南北朝の時代、後醍醐天皇が謀反した足利尊氏に追われ、

信州に逃げのびて戦いを続けた際、

供奉した藤原左衛門佐らは、天皇が信州浪合(現 長野県下伊奈郡阿智村浪合)で

崩御されたので御遺体はそこに、御首級を奉持して高塚山に葬り

自分たちは京丸に住みついて塚を守って来たと伝わるそうです。

左上の鬼瓦に家紋の「葉菊」、屋根瓦には丸京の印が残る

正史には後醍醐天皇が信州に来たという記録はなく、

高塚山に奉納されているのは後醍醐天皇の孫にあたる

尹良親王ではないかというのが最近の定説だそうです。

藤原家阿弥陀堂

藤原家 阿弥陀堂にはこの地に訪れたとも云われる

伝 親鸞上人筆と称される画像が残る

阿弥陀堂 裏の石垣

石慶長4年の検地の際には20件余り家があったそうです。

著名な民俗学者 折口信夫氏は京丸の里に興味を持ち、

まだ道も整備されていない頃に入山し、藤原本家に1泊したそうです。

牡丹谷

18代目当主藤原忠教氏(昭和55年没)は縁先から対岸の牡丹谷に

唐傘ほどの大きさの白い牡丹の花を見たといいます。

シロヤシオの群落とも言われますが、

600年もの間この隠れ里で塚を守ってきた藤原家の暮らしと

京丸牡丹の伝説に思いを馳せます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加