船形山 普門寺(ふもんじ)高野山真言宗 愛知県豊橋市




船形山 普門寺(ふもんじ)高野山真言宗

高野山真言宗 普門寺 H.P
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神石山を中心に湖西連峰を巡り

新所原駅方面へと下山、麓の普門寺へ

仁王門は寛文八年(1668)に建立され

普門寺の中でも最も古い建物だそうです。

古さを感じさせないモダンな作りに感じます。

船形山 普門寺

普門寺の開山
奈良時代 神亀4年(727年)に行基によって開山されたと伝わっている。
天文3年(1534年)成立の『普門寺縁起』には、次のような伝承が記されている。
関東に向かう途中で当山に登った行基が、この山の地景を奇特に感じ、
寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、
観音が姿を現して「山の形にちなんで山号は「船形山」、
観音様にちなんで寺号は『普門寺』と名付けよ」とお告げがあった。
行基はその観音の姿を自ら彫り、このお告げの内容を聖武天皇に報告をしたところ、
堂塔建立が命じられて普門寺が開創されることになった。
普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、
観世音菩薩を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と
雨応峯(雨応山)から見渡せる範囲を寺領としたという。
豊橋市教育委員会によって平成16年(2004年)から行われた学術調査によれば、
裏山の船形山山腹にある「元々堂址」の本堂跡からは10世紀半ばの遺物が出土しており、
また本尊聖観音菩薩像が11世紀、菩薩形立像が10~11世紀の彫刻であることが判明しており、
普門寺の成立が古代に遡ることは確実視されている。

中世普門寺の中興
『普門寺縁起』によれば、古代の普門寺は3000余りの坊舎を抱えて繁栄したが、
嘉応年中(1169~1171年)に比叡山に攻められ焼失し、
次いで養和年間(1181~1182年)に源頼朝叔父の化積によって中興されたという。
今日残されている国指定重要文化財などからも、
平安時代後期に普門寺が大きく生まれ変わったことは疑いないとみられる。
久寿3年(1156年)には僧・勝意によって経塚が造営され、
平治2年(1160年)には高松院(二条天皇の后)より下賜された梵鐘が、
地域の人びとから奉納された銅を加えて再鋳造されて奉納された。
永暦2年(1161年)には僧・永意によって新しい普門寺の発起文ともいえる
「起請」が定められた。
平安時代後期、普門寺は新しい村々を形成した地域の住人たちによって、
地域社会の自立と結集の拠点として再生された。
鎌倉時代には山麓の雲谷、岩崎を中心に、
一部は遠江に及ぶ広大な寺領を有しており、
とりわけ雲谷などは普門寺の「境内」とも認識されるなど、
中世の普門寺は山麓の地域社会と密接な関係をもって存立した。
一方、『普門寺縁起』では源頼朝が平家追討の祈祷をして、
頼朝と等身大の不動明王像(現在は客殿に安置)を造ったとの記述がある。
平家滅亡後、頼朝が上洛する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進し、
寺門興隆し三河七御堂の随一と言ったとの伝もある。
実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚い保護を受けていたことを窺わせる記録もある。
船形山山腹には200か所以上の人工の平坦地があり、
多くの堂舎や坊院を抱えていたと考えられ、当時の隆盛を偲ばせる。
とくに大きな平坦地である「元々堂址」「元堂址」はともに
平安時代後期に大がかりな整備が行われ、現在も本堂跡の基壇が残されている。
それぞれかつての普門寺を構成した船形寺(西谷、本尊聖観音菩薩)と
梧桐岡院(東谷、本尊五大明王)に相当すると考えられている。

戦国・江戸時代の普門寺
このように隆盛を誇った普門寺であったが、戦国時代になると、
今川氏や戸田氏、牧野氏ら近隣の武士の争いに巻き込まれ、
永正14年(1517年)には裏山に築かれた船形山城をめぐって
今川氏と戸田氏が争った(船形山合戦)。
そして天文2年(1533年)には兵火のため全山がことごとく焼失したという。
しかし戦国時代から江戸時代前期にかけて、かつての隆盛をとり戻すべく復興が行われた。
1540年ころには、普門寺復興と地域社会の再結集を祈念して、
船形山合戦などの一連の戦乱の戦死者を含む
大規模な共同供養(三界万霊供養)が行われている。
東三河・西遠江の広い範囲の地域から奉加者・供養者が集まり、
地域社会の結集拠点として普門寺の再生が目指された。
その後も今川氏や徳川家康、池田輝政(照政)など代々の領主の保護を受け、
少しずつ復興が進められた。慶長8年(1603年)には再中興の住持・龍祐のときに
寺領朱印地100石が徳川家康より与えられた。
そして17世紀後半の住持日誉・昶深のときに、仁王門、本堂など大規模な造営も行われて、
ようやく今日につながる基本的な寺観が整えられた。
以来、観音霊場、源頼朝公所縁の地として、また江戸時代には桜の名所として、
多くの参詣客を集め、厚く信仰された。

普門寺の将来
二度にわたって大きな火災に遭ったにもかかわらず、普門寺には仏像、
工芸品、古文書など貴重な文化財が多く伝えられ、船形山の旧境内遺跡と合わせて、
中世山寺の代表的な遺跡の一つとして学術的にも注目を集めている。
今日、紅葉の名所として知られる普門寺では、
こうした豊かな歴史文化と自然環境を継承し、観音霊場としての信仰を守りながら、
地域文化の拠点として新たな一歩を踏み出している。

普門寺の文化財

国指定重要文化財

木造阿弥陀如来坐像  (平安時代後期)
木造釈迦如来坐像   (平安時代後期)
木造四天王立像    (平安時代後期)
銅経筒・久寿三年銘  (附:銅鏡 鴛鴦花唐草文様)

愛知県指定文化財
木造不動明王・二童子各立像

豊橋市指定文化財
木造阿弥陀如来坐像
普門寺の大杉(市天然記念物)


本堂

湖西連峰 神石山 山頂で知り合った

Iさんが車で送って下さるとのことだったのであまり長居出来ませんでしたが

紅葉も有名らしく、また別の季節に訪れたいです。

湖西連峰 船形山 山頂にある船形山城址です。

古来はこの辺に寺院が広がっていました。

また、戦国の世には三河と遠江の境目の城として重要な拠点だったそうです。

船形山城址

三河と遠江の国境にある、境目の城」です。
この城は監視施設の役割を担ったため、軍事上重要な場所として攻められ、
その際に普門寺も全山焼失の憂き目にあっています。

歴史】明応年間(1492~1501年)、標高276m、
比高200mの山頂に築かれ、今川氏親の武将多米又三郎の居城とされる。

望寺岩

この岩は、船形山山頂の鞍部に位置し、元堂址の真上にあたります。
岩の中央は鋭く尖っています。
自然の岩で、目印であると同時に、人々の畏敬の対象だったのでしょう。
まさに寺を望む場所ですが、名の由来は境内の境界を示す
中世のことば「膀示」と考えられます。


御朱印

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