淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)・兵庫県淡路市多賀




淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)・兵庫県淡路市多賀

淡路島にある淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)です。

「古事記」・「日本書紀」に創祀の記載がある中では日本最古の神社で、

伊弉諾大神の幽宮跡とされる場所に鎮座する神社です。

国生み神話ゆかりの地であり、「おのころ島」の伝承地とされます。

御祭神は、「伊弉諾尊(イザナギ)伊弉冉尊(イザナミ)

日本神話「国生み」に登場する二神です。

淡路島は、国生み神話で最初に誕生した島とされています。

日本に現存する最古の書物「古事記」と「日本書紀」では

「国生み神話」について以下のような内容の記述があります。

「神代七代の最後に登場する伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト

の男女二柱の神が、最初に「淤能碁呂島(おのごろじま)」に降り立ち、ここから淡路島、

四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡および大倭豊秋津島(本州)を生みました」

つまり、日本列島の最初に正式に誕生した島が淡路島ということになります。

また「伊弉諾神宮」について以下のような内容の記述があります。

「伊弉諾大神は国生みの大業に始まる神功を終えられて、御子神なる天照大神に

国家の統治の大業を委譲されて、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に

「幽宮(かくりのみや)」を構えて、余生を過ごされました」

つまり、伊弉諾大神は国生みの大業を終えると

淡路島の多賀に住まわれて隠居していたということになります。

その後、御住居跡には御神陵が造営され神社となりました

至貴の聖地として最古の神社として創始されたのが、伊弉諾神宮の起源となります。

地元の一宮地域では、淡路国一宮にちなんで「いっくさん」と親しまれています。

淡路島の津名地域の多賀地区に鎮座して、

淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められてきました。

一の鳥居(大鳥居)と石灯籠

伊弉諾神宮の 一の鳥居(大鳥居)は、約8メートルある花崗岩製の大鳥居です。

1995年(平成7年)の阪神淡路大震災で倒壊して再建されました。

本殿に向かって右の石灯籠に「修理」左側の石灯籠に「固成」と刻まれています。

神々が日本を創造した一番大切な言葉で、

神道の基本となる種々のものを発明するという意味です。

天の神々が、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)に、

国土をあるべき姿に整え(修理)、固めなさい(固成)」と命じた言葉とされます。

なお、伊弉諾神の周辺の県道沿いには風景整備の一環として

「国生み灯籠」が建立されています。

国生み伝承

現存する最古の歴史書「古事記」や「日本書紀」の冒頭に記される神代七代の最後に登場するイザナギ命とイザナミ命の男女二柱の神が、「於能碁呂島」に天降って夫婦神となり、淡道之穂之狭別嶋(淡路島)を初めに四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡・大倭豊秋津嶋(本州)の「大八嶋国」という国土を生みました。次いで、祖先神となる三十五柱の神々が誕生します。

国産みの大業から始まる神功を果されたイザナギの大神は、神権をアマテラス大御神に譲り、最初に生んだ淡路島の多賀の神域に「幽宮」を構えて余生を過ごされました。宮居跡の神陵が「伊弉諾神宮」創祀の起源だと伝えています。

二の鳥居と参道

二の鳥居をくぐった左手には「陽の道しるべ」と呼ばれるモニュメントがあります。

伊弉諾神宮を中心とする日本地図に太陽の運行が示されており、

日の出と日の入の方位に日本を代表する神々が鎮座しています。

伊弉諾神宮は「日之少宮(ひのわかみや)」とも記されます。

伊弉諾尊を太陽神と称えて、御子神である天照皇大神の朝日の神格と対比する

日之少宮として夕日の神格を表現しています。

伊弉諾神宮から太陽軌道の極致にあたる方位には、

夏至・冬至・春秋仲日の日出と日没の地に神々が鎮座していることが確認されています。

伊弉諾神宮は伊勢神宮と同緯度上となり、中間点に最古の都「飛鳥藤原京」があります。

夏至の日出は「諏訪大社」、夏至の日没は「出雲大社」となります。

春分秋分の日出は「伊勢神宮」、春分秋分の日没は「海神神社」となります。

冬至の日の出は「熊野那智大社」、冬至の日没は「高千穂神社」となります。

これらの偶然は、神々の坐す大八島(おおやしま)の中で

天と地を結ぶ能(はたらき)が太古から脈々と生き続けている「神の島」

であることを示しているのかもしれません。

淡路島が国生み神話で最初に生まれた「始まりの島」であることを示す、

太陽神の思し召しなのかもしれません。

古代の神秘を感じることができる太陽神の聖地となります。

伊弉諾神宮 境内配置図

ひのわかみやと陽の道しるべ

伊弉諾神宮の神域は 日本書紀に「伊弉諾尊功既畢靈運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長陰者」 古事記伊勢本に「故其伊邪那岐大御神淡路之多賀也」と記される神跡で伊弉諾大神が御神功を果され 淡路の多賀に幽宮を構築して餘生を過ごされた故地であり 北緯三十四度二十七分二十三秒の緯度上にある

當神宮の創祀は神代に遡り伊弉諾尊の宮居跡に營まれた神陵を起源とする最古の神社である また日本書紀に「仍留宅於日之少宮矣少宮此云倭柯美野」の記述があり これは伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ 御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として 御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる 因に全國神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)はこの神域の同緯度上に鎭座し 更にその兩宮を結んだ中間點に最古の都「飛鳥宮藤原京」が營都されてゐるのである

専門家の協力を得て當地からの太陽軌道の極致にあたる方位を計測すると 夏至・冬至・春秋仲日の日出と日歿の地に神縁の深い神々が鎭座してゐることを次の通りに確認することができた 緯度線より北への角度二十九度三十分にあたる夏至の日出は信州の諏訪湖(諏訪大社)日歿は出雲大社日御神社への線上となる 春分秋分は伊勢の神宮から昇り海神社(對馬國)に沈む 南への角度二十八度三十分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大瀧)日歿は天孫降臨傳承の高千穂峰(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである

これらは國生み傳承の淡路島が 神々の坐します大八州國の中核の島で 祇に天と地を結ぶ能きが 太古から脈々と生き續けてゐる「神の島」だといふことを物語ってゐるのではないだらうか 神代から受繼ぐ千古の歴史の尊さや 太古の浪慢と祖先の叡智とをこの「陽の道しるべ」で實感していただければ幸いである

手水舎

巨石による手水舎は、豊臣秀吉が大阪城の築城のために全国より集めた巨石で、

誤って淡路島の郡家浦の沖合いに沈んでしまったものだそうです。

江戸時代の末期に、氏子が引き上げて手水鉢として奉納しました。

神池に掛かる橋

伊弉諾神宮

御祭神 伊弉諾大神 伊弉冉大神

御社格 延喜の制名神大社 淡路國一ノ宮 元官幣大社

御由緒

古事記には故其伊邪那岐大神は淡路の多賀になも坐すなり日本書紀に伊弉諾尊中略是を以て幽宮(かくりのみや)を淡路の洲につくり静かに長く隠りましきとあり淡路の島は二柱の大神が一番初めに御開拓になった地であり此の多賀は伊弉諾大神が國土経営の神業を了えられた後お鎮まり遊ばされた御終焉の地で大神の御陵がそのまゝ神社として祀られるようになった我が國最古の神社である

御神徳

延寿の神

伊弉諾大神が夜見ノ國の境にお出向かれた時「我は一日に千五百の産屋を建てむ」と仰せられたことにより古来命を司どられる大神として寿命乞の信仰が厚い

縁結びの神

御祭神二柱の大神が國土御経営のため天降られ淡路の島でお建てになった宮殿のお柱を巡り始めて御夫婦の契りを結ばれ多くの御子神をお生みになった故事にあやかる縁結びの神としての崇敬が深い

例大祭 四月二十二日摂社浜之宮に神輿渡御の神幸式齋行

粥占祭 一月十五日前夕より古式による徹宵の神事奉仕

表神門(正門)

以前は左右に随身像の閽神が置かれた3棟造の随身門でした。

1883年(明治16年)に現在の切妻平入一聞一戸四脚門の神門に再建されました。

表神門(授与所)

伊弉諾神宮 拝殿

伊弉諾神宮の拝殿は、桁行五間梁間二間で入り母屋造り、檜皮葺で舞殿を備えています。

1882年(明治15年)に再建されました。

伊弉諾神宮では、淡路島を国生み神話の島として伝統文化を発信するために、

創生国生み神楽の演舞や三大神話神楽祭を開催しています。

伊弉諾神宮 中門・幣殿

伊弉諾神宮 中門・幣殿は奥に見える本殿と繋がっています。

本殿は、檜皮葺三間社流造向拝付で、千木・鰹木を置いており、

前方の中門・幣殿と連結し一屋根に見せています。

元は本殿はもう少し手前にあり、この辺りには神陵と伝えられる円墳があって禁足地でした。

明治15年に拝殿改築にあたり本殿を後退させ、円墳の上に遷したそうです。

本殿前方の階段の下に、墳丘上にあった自然石(神陵の数十個の聖なる石)

が保存されています。

伊弉諾神宮 本殿

伊弉諾神宮 本殿は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、

それ以前は、禁足の聖地でした。

御陵を中心として神域の周囲は霧で覆われていた伝えられています。

正面の神池や背後の湿地は当時の遺構といわれています。

境内は約1万5000坪ですが、江戸時代の地図では2丁4方の社領とあり

広大な神域であったとされています。

1868年(明治元年)から20年の歳月をかけて大造営を行っています。

最初に改築されたのが本殿で、明治九年から神陵部が整備されました。

本殿は増設して墳丘上に移築されました。

以前は、本殿後ろに伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足でしたが、神陵地を整備して、

墳丘の四方を覆うように二重に基壇を設けています。

本殿の造営工事は明治12年に完成しました。

中門は、檜皮葺棟瓦起り屋根で妻入一間一戸四脚門です。

左右は翼廊と連結しており、他に類を見ない神社建築となります。

明治14年に旧本殿の跡地に建立されました。

明治時代の大造営では、官幣大社として明治12年に本殿、明治14年に中門と翼廊、

明治15年に拝殿と幣殿、明治16年に正門、明治17年に透塀、

明治18年に幣殿が整備されています。

2020年(令和2年)には43年ぶりに本殿と幣殿の檜皮葺屋根の工事を行いました。

この時に本殿に淡路産瓦の大鬼瓦と大棟千木鰹木が設置されました。

令和3年3月に完成しています。

本殿には、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)」

が祀られています。

立入禁止の聖域本殿のである本殿の下に伊弉諾尊の御陵があります。

なお、本殿裏には参拝所があり、由緒正しき神社の本殿裏は最高の信仰場所として人気です。

祓殿

本殿の左側にある「祓殿」は、神事の開始に際して一同がお祓いを受ける場所です。

地元では、罪穢れを清めたのちに、本宮を参拝する慣わしがあります。

根神社・竈神社

根神社・竈神社は、摂末社(枝宮・枝社)として、

酒造・醸造の守護神として祀られています。

なお、伊弉諾神宮の御神酒は、千年一酒造が奉納しています。

千年一酒造による「國生みの雫」は、幽宮の御領酒となります。

鹿島神社・住吉神社

鹿島神社・住吉神社は、摂末社(枝宮・枝社)として

農業守護と武運長久の神徳を仰いで祀られています。

神輿庫

茅葺寄棟造りで白壁の珍しい様式で建てられている「神輿庫」は、

六角鳳輦型の豪華な神輿を格納しています。

1808年(文化5年)に阿波藩主の寄進で建築されました。

毎年4月22日の春の例祭「神幸式」には、豪華な「御神輿」と

10基の絢爛な「淡路ふとんだんじり」が、伊弉諾神宮の境内に勢揃いします。

左右神社

左右神社は、摂末社(枝宮・枝社)として、

左目より出現した天照皇大神、右目より出現した月読尊が祀られています。

本殿の東、伊勢神宮の方位に鎮座して、病気平癒の祈願所となっています。

本殿の右側にある菊の御紋が付いた神馬の銅像。

伊弉諾神宮の夫婦クス

県指定文化財 伊弉諾神宮の夫婦クス

指定年月日 昭和48年3月9日

所有者・管理者 伊弉諾神宮

根廻り12.40メートル、目通り、幹囲8.00メートル、幹は地上2.25メートルで二つの支幹に分かれ、それぞれの幹囲は、5.35メートルと3.75メートルである。一方の支幹の地上7メートルの部分と他方の支幹の地上6メートルの部分で再び分岐している。樹高約30メートル、枝張りは南へ16メートル、北へ約12メートルある。樹形は一部茎葉の枯損によって、外観上劣るが、樹勢は全体としてまだ旺盛である。樹令は約900年といわれている。

クスノキは兵庫県の県樹であり、県指定の伊丹市法巌寺、西宮市海清寺および川西市小戸神社などの大クスとともに貴重な文化財として保存されている。

夫婦大楠

伊弉諾神宮の御祭神は伊弉諾大神伊弉冉大神で夫婦の正道の掟てを定められた皇祖の大神様です。

元は二本の「楠」がいつしか根を合わせて一株に成長したもので、御神霊が宿り給う御神木と信仰されており、淡路の古地誌にも「連理の楠」と記されています。

岩楠神社には蛭子大神を祀り、夫婦円満、良縁良結、子授け、子育ての霊験あらたかと崇敬されています。

樹齢900年を誇る「夫婦大楠」は

根元の周囲は12.4メートル、高さ30メートル余りの大きな楠木になります。

江戸時代の淡路の古地誌に「連理(れんり)の楠」と記されています。

「夫婦大楠」は、夫婦神の伊弉諾尊・伊弉冉尊の御神霊が宿るご神木として、

夫婦円満、安産子宝、良縁縁結などの信仰で崇められています。

なお、夫婦大楠の根元に岩楠神社として

国生み神話で最初に生まれた蛭子(ヒルコ)大神をお祀りしています。

夫婦大楠岩内の岩楠神社

放生の神池 延壽宮

表神門(正門)の手前にある「放生の神池」は、

伊弉諾大神の幽宮の跡地に造営された御神陵にあった掘の遺構とされています。

神前にある御池であることから放生の神池と呼ばれています。

神橋を渡って右手には、水神を祀る「延寿宮」があります。

古くは放生神事(鳥や魚を放して生命の永続を祈る行事)が行われていました。

現在でも、病気平癒や不老長寿のための命乞として「鯉」を放ち、

快癒の感謝として「亀」を放つ信仰習慣があります。

御朱印

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