耳成山口神社 耳成山(139.25m)・奈良県橿原市木原町




耳成山口神社 耳成山(139.25m)・奈良県橿原市木原町

奈良県橿原市木原町

大和三山の一座、耳成山(139.25m)の中腹に鎮座する

耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)

延喜式神名帳にある耳成山口神社(大和国・十市郡)に比定される式内社

(大社、月次新嘗)。近代社格では郷社。

大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、

皇室の舎殿用材を切り出す山の神として奉斎された。

麓の耳成山公園側に鳥居があり、参道の階段が続く。

祭神は、大山祗神(おおやまつみのかみ)・高御産霊神(たかみむすびのかみ)

明治時代以前は、天神社と呼ばれていたそうです。

天神は、農耕神であり、水の神でありました。

そのため、祈雨神祭などの雨乞いの神事がたびたび記録に残されています。

昔、木原村(現在の木原町)から、松明をかざしながら、

宮司を先頭にして村民が参詣祈願したということから、

登山口の1つ、「火振り坂」の名前の由来となっているそうです。

拝殿には、幕末の嘉永6年(1854)に奉納された算額がある。

数学の問題やその解き方を絵馬や額に記して社寺に納めたもので、

問題が解けたことを感謝し、学問に磨きがかかることを祈って奉納された。4

種類の幾何学の問題と解答が書かれている。

畝傍山から望む耳成山

耳成山(みみなしやま)

耳成山(みみなしやま)は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6メートルだが、山頂にある三角点の標高は139.2メートルである。天香久山、畝傍山とならんで大和三山の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定されている。

山の南部には耳成山公園(5,222平方メートル)が整備され、市民の憩いの場であり春には桜の名所となっている

この山は中新世に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり流紋岩より形成される

登山途中、木々の合間から眺望ができる箇所がいくつかあり、同じく大和三山である畝傍山を傍観できる箇所もあるが、山頂は特別な整備はされていないので眺望は全くない。山頂よりやや低い標高約120m付近に耳成山口神社がある。

山口神社の山号は耳成山であるが、登山口の鳥居には「耳無山」と刻されている。この神社の祭神は高御産霊神(たかみむすびのかみ)と大山祗神(おおやまつみのかみ)の二柱であるが、明治時代以前は農耕神・水の神を祀る天神社であったとされ、雨乞いの神事が行われたという記録も残されている

最寄り駅は近鉄大阪線耳成駅で徒歩約12分。JR桜井線畝傍駅からは北東2キロメートルに位置し、徒歩約16分。近鉄大阪線の大和八木 – 耳成駅間の車中からは、そのほぼ円錐形の耳成山を眺めることができる。この山の形から「耳無し」山(余分なところがない山)といわれる。「耳がない」ことからか、麓にはかつて「口無しの井戸」、「目隠し川」があったとされる。また万葉集には「耳梨山」とも記される

天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が侵食された侵食地形というのが通説である)。

かつては天神山とも呼ばれ天神山城があったとされる

1908年(明治41年)、明治天皇の演習統監が行われ、山頂には「明治天皇大演習御統監地」と記された石柱がある。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。

名勝 大和三山 耳成山

奈良盆地の南部に位置する、香具山(152.4m)、畝傍山(199.2m)、耳成山(139.7m)の三つの小高い山を総称し大和三山と呼びます。
香具山は桜井市の多武峰から北西に延びた尾根が浸食ににより切り離された小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳えるいわゆる死火山です。
三つの山は古来、有力氏族の租神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に香具山神社、畝傍山口神社、耳成山口神社などが祀られてこました、また、皇宮造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当っては、東・西・北の三方にそれぞれ香具山・畝傍山・耳成山が位置する立地が、宮都を営むうえでの重要な条件にされたと考えられます。
大和三山を詠んだ和歌は多く、重要な歌枕として観賞上の地位を確立したほか、近世の地誌、案内記、紀行文などでも紹介され、万葉世界を代表する名所として、広く知れわたるようになりました。
耳成山は大和三山では最も低い山ですが、円錐状の整った山容をしています。
畝傍山と同じく瀬戸内海火山帯に属する死火山で、浸食や盆地の陥落と堆積によって、現在の姿となりました、万葉集の中で耳成山が単独で詠まれる例はなく、他の二山とともに詠まれました。

耳成山には3つの登山口(北東側・北西側・南側)がありますが

南側の耳成山公園より登りました。

ここには鳥居があり、中腹に鎮座する耳成山口神社への参道となっています。

耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)

耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とあるが山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られていた。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。

安産に御利益があるとされる。

創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったとの記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。

1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常磐・山之坊地区の氏神として祀られている。

祭神

大山祗神(おおやまつみのかみ)

高皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)

例祭 六月二二日
本殿 春日造 四坪 境内 四四八坪 末社 二社
氏子 四七五戸 崇敬者 一二〇五人
由緒沿革 天平二年神戸租稲五十三束を以って 祭粲の科に充て奉り、大同元年神封一戸を寄 せ貞観元年神階正五位下を授け、同年風雨の 祈によって幣使を奉られ、延喜の制大社に列 した。明治六年郷社に列した。

本殿

耳成山口神社は、大和国の山口社6社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)の1社

祭神は高御産霊神(たかみむすびのかみ)と大山祗神(おおやまつみのかみ)の二柱

耳成山口神社の横から山頂への登山道が続く

耳成山国有林

ここは歴史的にも有名な大和三山の一つで標高139.7メートルと三山の内で一番低く、死火山です、もとはもっと高い山でしたが、盆地の没落で沈下し、山の頭部が地上に残された円錐型で、人の頭にたとえれば耳が無いような山なので、耳無山ー耳成山と呼ばれるようになったとも言われています。

耳無の山のつちなし得(え)てしがな
おもひの色の下染(したぞめ)にせむ
「古今和歌集」 よみ人しらず

耳成山(139.25m)

1908年(明治41年)、明治天皇の演習統監が行われ、

山頂には「明治天皇大演習御統監地」と記された石柱がある。

三等三角点(耳成山)

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