泉龍院 (大洞山泉龍禅院) 大洞山(147m) ・愛知県新城市豊栄




泉龍院 (大洞山泉龍禅院) 大洞山(147m) ・愛知県新城市豊栄

新城市の西に位置する大洞山(147m) へ

麓には曹洞宗の寺院「泉龍院 (大洞山泉龍禅院)」があります。

院内の開山堂では徳川家代々の位牌を安置し奉祀している他、

境内には野田城主 菅沼氏代々の墓碑が祀られています。

その他、創建時に沼地の一部を残したと伝わる「龍神池」が見られます。

境内から山頂至る山道には多くの石仏が祀られていました。

山門

泉龍院 (大洞山泉龍禅院) 駐車場より

大洞山泉龍院開創の由来

當山は、聞庵道見禅師が寛政元年(1460)に本寺龍渓院二世盧岳洞都禅師の命を受け心桂首座を随伴して入山し、草庵を営み寛政五年(1464)二月十一日諸堂が完就すると、文明二年(1470)二月朔日(一日)龍渓院より、盧岳禅師を勧請し開山した。以来聞庵禅師の熱心な布教により野田郷、西郷の悉くが同師に帰依した。更に五世国光舜玉、六世希聲英音、七世琴室契音の世代になると、全国各地に門葉寺院二百有余寺を擁するに至り、五世・六世・七世の三派による二箇年住期の輸住制となり一七五世代の住職により継承されて来た曹洞宗中本山であって、東海屈指の名刹である。
明治の改革で輸住制が独住制になったことにより現独住五世瑞雲展博大和尚により護持されている。
五百年前に開創の経緯を略記すると、聞庵禅師が吉水の洞窟で坐禅を数日続けていると、俄に山嶽が震動して山が崩れ洞窟から螺貝が吹き出した。この時僧は東の方の山を眺め里人に山なを問うと螺貝山という。螺貝山とは法華経で云う大法螺貝との因縁ありと感じた僧は山麓に歩みを進めると渓谷は森林に蓋われ、山々は霧が棚引き湧水が豊かで沼澤に葦が繁茂し、流れ出る水路に大螺貝が生息し、沼の叢に大蛇が蹲っていると云う、この山の風格は、明(中国)の法華経に云う、螺貝山に似ていて佛法を営む好適地と悦ばれ沼を埋め草庵を構えて榧の実を常食とし坐禅で悟りを開き人々を導くと、皆が感動し和尚を慕った。大勢の熱意で諸伽藍が成就した。土地の造成時に沼澤の一部を残してここを龍神池と命名し大蛇の住箇とした。また本堂裏山の湧水を守護正意大明神として祀っている。諸堂が成就すると山号を螺貝山と命名したが後年野田城主菅沼定村が大洞山を新設して全域を院領としたことにより、以来「山号」を「大洞山」と改めた。

慶長年代の境内・寺中図

菅沼定則の塚

野田城主初代菅沼定則は、天文十年八月(一五四二)大洞山泉龍院十世泰年継住職に帰依し、不春居士号を授けられた。そして翌年の天文十一年十二月に大洞山へ梵鐘を寄進し、天文十三年(一五四四)十一世光国舜五代に陰居そて家督を野田城主二代定村に譲り、大洞山大門西のこの地に「不春禅学敲門道場」を建立しここに住した。
天文十五年(一五四六)夏、定則臥病すると大洞山十一世再々住職光国舜玉大和尚は、定則の願いを聞き入れて明春まで止錫した。
天文十六年(一五四七)二月十四日定則が逝去すると「十二世海岩俊智」の三導師により「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、この地に葬られたと大洞山泉龍院史は伝えている。

手水舎

鐘楼

庫裡

本堂

泉龍院(せんりゅういん)

泉龍院(せんりゅういん)は、愛知県新城市にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。三河白寿観音第12番札所。徳川家康逝去後に建立された東照軒にて東照大権現を奉祀。徳川将軍家代々の位牌を開山堂内に安置し奉祀。野田城主菅沼氏代々の墓碑を祀る。

歴史
寛正元年(1460年)、聞庵道見(もんなんどうけん)禅師が入山。螺貝にまつわる山のいわれとそのおもむきに心動かされた聞庵道見禅師が、草庵を構えて坐禅で悟を開き人々を導くうち遠近多くに慕われ、寛正5年(1464年)諸伽藍が成就。岡崎市の龍渓院]2世 盧岳洞都(ろがくとうと)禅師を勧請し、文明2年(1470年)に開山。のちに山号を大洞山と改める。以来熱心な布教によって帰依する者が増え、7世の世代には全国各地に270余寺の門葉寺院を擁するに至る。住職を、5世光国派、6世希聲派、7世琴室派の3派のうち輪住格をもつ末寺からの輪番制をとり、開山より175代の住職により継承されてきた曹洞宗中本山であって東海屈指の名刹。明治維新の改革で輪番制が廃止になったことをうけ、住職が独住制となり、現在独住5世(開山より180代)に至る。

開創の由来
500年前に現在愛知県新城市にあたるこの地に入山した聞庵道見禅師が、吉水の洞窟で坐禅を続けていたところ、山獄ごと震動して崩れ洞中から螺貝が吹き出した。
加えてこのとき里人から聞いた「螺貝山」という山の名称もあって、法華経でよく説かれる大法螺貝に因縁を感じたため分け入ってゆくと、霞がたなびいた山の渓谷は森林深く湧き水が豊かで、水路には大螺貝が生息し、沼の叢には大蛇が蹲っているとのいわれがあった。
山の風格は法華経で云われる明の螺貝山によく似ており、仏法を営むに好適地とみた聞庵道見禅師は、沼を埋めて草庵を構え榧の実を常食として只管に打坐し悟りを開いた。
しだいに多くの人が教えを仰ぎ道を求めて禅師に慕って随うようになり、やがて大勢の好意により伽藍の造営に及び、土地の造成時に沼澤の一部を残して「龍神池」と命名して大蛇の住処とした。また本堂裏山の湧き水を守護正意大明神として祀っている。諸堂が成就すると山号を「螺貝山」と命名した。

菅沼氏の帰依
天文8年(1539年)、野田城主初代菅沼定則の助成をうけ、開山以来長い年月で傷の激しくなった伽藍を改築。
菅沼定則は、天文10年(1541年)に10世泰年全継住職に帰依し不春居士号を授けられた。
定則は翌年、大洞山へ梵鐘を寄進。天文13年(1544年)の11世再々住職光国舜玉代に、定則は野田城主二代菅沼定村に家督を譲ると、大洞山大門前に「不春禅学敲門道場」を建立し住した。
天文15年(1546年)定則が病に臥せると光国舜玉は願いを聞き入れ当院に止錫。翌春2月14日に定則が逝去すると 10世泰年全継 11世光国舜玉 12世海岩俊智 の3導師により「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、当院に葬られた。
野田城主2代目菅沼定村が大洞村を新設して全域を院領としたことにより以来、山号を「大洞山」と改めた。
のちの元亀4年(1573年)、武田信玄が再び来攻した野田城の戦いで伽藍焼失。
野田城主3代目菅沼定盈は大檀那となり院を修復。その際定盈は本尊釈迦牟尼仏を寄進して戦死した父菅沼定村の追福とした。

葵の紋

開山堂では徳川家代々の位牌を安置しお祀りしています。

龍神池の由来

五三三年前の寛正元年(一四六〇)に、龍神池周辺一帯の沼地を大洞山泉龍院開山の適地と定めた。当時のここ、螺貝山(現 大洞山)の山麓は森林に蓋われ霞が棚引き、湧水が隘流し、水路には螺貝が生息し、叢には大蛇が蹲っていたとい。この地を造成して泉龍院を創建した。この時沼地の一部を池として残し「龍神池」と呼称している。この池は豊川の海倉渕に通じていて雨乞い龍物語の郷土の民俗、民話として語り継がれている。
平成十五年(二〇〇三)の境内整備時にこの地も改修整備した。

龍神池

「一鍬田のかいらく淵」とつながっているとの言い伝えがあります。

東照軒跡地

徳川家康が元和二年(一六一六)に逝去すると、大洞山泉龍院四十七世天仙宗堯大和尚は、この地に東照大権現奉祀のため東照軒を建立したが、元禄十一年(一六九八)に当山八十八世大瑞本光大和尚代にこの建家は廃して、代々将軍の位牌は開山堂内に安置し奉祀されている。

野田城主 菅沼氏代々の墓碑が祀られています。

野田城主初代
菅沼新八郎 定則
永昌院殿不春玄休大居士

野田城主二代
菅沼新八郎 定村
龺兪照院殿慶厳道雲大居士
弘治二丙辰年八月四日
雨山戦にて討死

野田城主三代
菅沼新八郎 定盛
勝徳院殿翁宗堅大居士
慶長九甲辰年七月十八日
勢洲長島城にて卒

丹波亀山城主
菅沼新八郎 定芳
大虚院殿無参 徹大居士
寛永二十圓末年正月十七日
丹波亀山にて卒

大洞山へは獣避けフェンスを開け境内から山中へ

開山 盧岳洞都大和尚の石像があります。

開山 盧岳洞都大和尚石像

文安元年(一四四四)参州大澤山龍渓院盧岳洞都大和尚開創二世となる。寛正三年(一四六二)當院伽藍造営中来錫し、文明二年(一四七〇)二月朔日開山に勤請。

開山 盧岳洞都大和尚石像

開山和尚の石像横から山頂まで

短い間隔で石仏が並びます。

弘法大師と菩薩像、八十八箇所巡りでしょうか?

道はしっかりとしていますが、

訪れる人も少ないためか少し荒れています。

大洞山(147m)

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