高天神山(131m) 楞厳地山(220.6m) 千手峰(282m) 三沢山(217.33m) 小笠山(264.79m)




高天神山(131m) 楞厳地山(220.6m) 千手峰(282m) 三沢山(217.33m) 小笠山(264.79m)

高天神城北(搦手門)駐車場より

「高天神山・楞厳地山・千手峰・三沢山・小笠山」を巡って来ました。

高天神山(たかてんじんさん)

標高 131m 登山日 2022年3月14日
高天神城跡 山頂に高天神社
所在地  静岡県掛川市上土方嶺向

楞厳地山(りょうごんじさん)

標高 220.6m 登山日 2022年3月14日
一等三角点 菱形基線測点
所在地  静岡県掛川市上土方嶺向

千手峰(せんじゅみね)

標高 282m 登山日 2022年3月14日
遠州修験の山
所在地  静岡県掛川市横須賀

三沢山(みさわやま)

標高 217.33m 登山日 2022年3月14日
西大谷ダム公園
所在地  静岡県掛川市横須賀

小笠山(おがさやま)

標高 267.49m 登山日 2022年3月14日
小笠神社 小笠山砦跡
所在地  静岡県掛川市板沢

難易度 ★     オススメ  登山口(ナビ検索) 搦手門駐車場
高天神山(13:46)→楞厳地山(14:08)→千手峰(14:49)→三沢山(15:32)→小笠山(16:27)→ゴール地点(17:17) 所要時間 3時間39分 累積標高 1107m / 1107m 距離 22.9km
■高天神城(たかてんじんじょう)は、遠江国城東郡土方(ひじかた)、現在の静岡県掛川市上土方・下土方にあった日本の城。小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。国の史跡に指定されている。また2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定された。(Wikipedia)
■小笠山は掛川市のほぼ中心に位置し、袋井市と連接する標高265メートルの小笠山からなる一連の山系は、南のゆるやかな傾斜と北側の急な斜面とが対照的な形をしています。赤松の群生のほか数多くの植物や野鳥の宝庫として有名です。
山頂からの眺望も素晴らしく、1年を通して多くのハイカーでにぎわいます。四季折々に豊かな自然の中でたっぷりの森林浴を楽しみましょう。(掛川市H.P)

「静岡の百山」は、東部から西部、北部まで静岡県内の山が幅広く選ばれています。 叉、海岸近くの低山から南アルプスの3000mを越える山までバラエティーに富んでいます。 本自体は山名の由来、歴史など生活に密着した山の説明が中心で、登山のガイドブックではありません。 山の知識を深め、より楽しむための本です。

高天神城北(搦手門)駐車場より

高天神城跡
住所
〒 437- 1435 掛川市上土方嶺向3136
アクセス
車:東名掛川I.Cより車で15分
バス:掛川駅北口3番大東浜岡線「土方」下車。追手門駐車場まで徒歩15分。搦手門駐車場まで徒歩25分。
駐車場
北側に搦手門駐車場(大型バス可)。南側に追手門駐車場。無料。

搦手門

高天神城跡、高天神山の山頂付近に鎮座する高天神社(たかてんじんじゃ)の記事です。

高天神城は、小笠山から南東にのびる尾根の先端、

標高132mの鶴翁山を中心に造られた山城です。

東の田園地帯から南側の遠州灘まで見渡すことができ、

小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地条件にある重要な城であったため、

徳川と武田が争奪戦を繰り広げました。

御前曲輪跡

高天神城跡

「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝です。戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城です。標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていましたが、家康の兵糧攻めに遭い落城しました。兵(つわもの)どもが夢の跡。うっそうとした杉や檜に覆われた昼なお暗い石段は、木漏れ日の光と影の中、戦国ロマンを抱いて、静かに時を重ねています。城跡は国の文化財に指定されています。平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定されました。 掛川市H.Pより

高天神山(131m) 元天神社の辺りが山頂

山頂より

高天神社

造化三神の一柱、高皇産霊尊(タカミムスビ)をお祀りします

菅原道真公を勧請したことで天神社の名で呼ばれています

高天神社

祭神
高皇産霊尊
天菩毘尊
菅原道真

戦国時代には高天神山に高天神城が置かれており、
武田信玄や徳川家康がこの地の領有を巡り度々衝突する争う要衝であった。
高天神社は高天神城の守護を担う神社として創建された。
江戸時代に入ると、高天神城は廃城となり、
高天神山には戦乱の犠牲者を弔う慰霊碑が建立された。
しかし、高天神社はそのまま高天神山に残され、
地域の住民の信仰を集めることとなった。
瓊瓊杵尊が同地に現れたとの伝承を記念して、
毎年3月に例大祭が行われている。
祭礼期間中、高天神社の祭神は、通常の社殿から別の社殿に移動する。
例大祭に際しては、出店なども立ち並び多くの参拝者を集めている。
近年では、例大祭に併せて砲術演武大会が開催されており、
火縄銃を用いた砲術の実演が行われる。

社名
社名については、一見すると「高天・神社」のように見受けられるが、
祭神として菅原道真を祀る天神社(天満宮)であることから
「高・天神社」と解されている。
この神社の立地する山が「高天神山」、
隣接していた城が「高天神城」と呼称されることから見ても、
「高天」で区切るのではないことがわかる。

馬場平(ばんばだいら)より

見張所である「番場」があったため名付けられたようです

東側に展望があります

甚五郎抜け道(別名 犬戻り猿戻り)

馬場平から先は「甚五郎抜け道」と呼ばれる痩せ尾根が続く

高天神城 落城時の城番「横田甚五郎尹松(ただまつ)」は、

この細尾根を通り甲斐へ戻ったと伝わります。

楞厳地山(220.6m)

低山ですが一等三角点 (点名は高天神山と紛らわしい)の他、

珍しい菱形基線測点がある立派なお山です。

山頂は木々が切られ展望が望めるように整備されていました

地元の方による説明文があったので転記しておきます。

一等三角点(高天神山)

楞厳地山(りょうごんじさん) とは

楞厳地山とは(土方小学校から西に見える一番高い山)

高天神城址から西に直線で1kmに有る標高220.9mの山です

高天神城址は標高132m(楞厳地山は高天神城址より約90m高い)

楞厳地山には一等三角点が国土地理院にて設置されています。

菱形基線測点設置されています(地形の歪を観測した測点)

一等三角点の名称は「高天神山」です

楞厳地山でもう一つ皆さんに知ってもらいたいことが有ります。

天正八年(1580年)三月五日、家康浜松より横須賀に来り、西大谷の千手山普門寺の衆僧観密坊と竹本坊の二僧の案内で、千手の峰から、萩原峠へと尾根伝いに間道を高天神城西背の頂上に登った。

標高二百二十米の峻峰、楞厳地山より、高天神城を眼下に監臨した。

(藤田清五郎氏著書 戦国史城 高天神の跡を尋ねて より抜粋)

天正八年の三月(高天神城落城の一年前)に家康が楞厳地山に登ったと言われている山であることを知ってもらいたいのです。(高天神城落城は天正九年三月二十二日)天正九年は1581年です。

登山に関しての注意

登山道は今のところ、高天神城跡馬場平からと、林の谷池下口からと、萩原峠(東大谷嶺向線の大城トンねん西200m)の三つの登山口があります。

馬場平口と林の谷池口からの登山道は子供さんや登山の経験の無い方には不向きです(尾根の両側が崖のところが有り滑落の危険があります)

一般の方は萩原峠登山口からがお勧めです。

高天神駐車場に車を置いて東大谷嶺向線を西に30分歩きます。

大城トンネルを抜け西に200m程行ったところに萩原峠登山道入口の看板があります。

萩原峠登山道入口からピンクのリボンに沿って30分ほどで頂上に着きます。

菱形基線測点

楞厳地山(りょうごんじさん) には

菱形基線測点(りょうけいきせんそくてん)N0.43が設置されています

高天神山 一等三角点から北に2.4kmの所に有る八角形にコンクリートの建造物が「N0.43 菱形基線測点」です

菱形基線測点とは

地球の表面の歪を知る為に設置されたものです

その配置測標4点が菱形であることから命名されました。土地の水平変動及び歪を検出し、地震の予知に役立てたものです

しかし、現在はGPSの測量となり菱形基線測点の観測は行われなくなりました

これらの測点は歴史的遺産になってきています

全国には16箇所(16菱形)設けられています

測点は16×4(64ヶ所)有る内の1ヶ所です

1/64の貴重な測点です

御前崎地区菱形基線測点は

高天神山(掛川市大渕)NO.43はここです

赤土原(牧之原市 旧相良町菅山) NO.42(茶畑の茶畝の中に隠れています)

火剣山(菊川市冨田芋沢)NO.41

高根山(牧之原市 旧榛原町坂部三亀ヶ谷 NO.44

(高根山には八角形建造物は有りません天測点と兼用)の四ヶ所の菱形です

楞厳地山には方位標も設置されています

一等三角点から東に1.8mの所にある標石が天測点(天文測量)の跡「方位標」です

現在はGPSによる測量になっているため使用されていません

周囲の木は狩られていて遠州灘を望むことができました

登山道も以前来た時より整備されています。

徳川家康もこの先向かう千手峰から萩原峠を経て楞厳地山に登ったそうです。

一旦、萩原峠へと下り

県道249 掛川東大須賀線から西大谷池方面へ

途中の千手峰に立ち寄りました。

千手峰(282m)

こちらも以前来た時よりも驚くほど整備されていました

新しく作られた登山道で下山

県道409 大須賀掛川停車場線へ

三沢山へ向かいます

前回は西大谷ダム公園から登りましたが、今回は尾根を行きます

三沢山(217.33m) 

三等三角点(三沢山)

薮山だった三沢山

こちらも以前より歩かれている印象です

鉄塔付近より巡視路を使いデンマーク牧場付近に下山

最後に小笠山を目指す

最短で登れる「無線中継所の登山口」より

小笠山は標高265mの山ですが、

登山道も片側あるいは両側が絶壁で低山とは思えない高度感があります。

多様なコースがあり何度来ても新鮮です。

小笠山の地質

今から100万年前、日本列島が大陸と地続き、日本海も大きな湖であったころ、大井川は現在とちがって掛川付近で太平洋に注いでいた。上流から下流に運ばれた土砂などで扇状地が形成。この扇状地が隆起し、小笠山となった。小笠山の大部分は小笠礫層と呼ばれる堆積物(河床堆積物・河口堆積物)でつくられている。この礫層の厚さは掛川市東大谷で190m以上に達する。小笠礫層の上半分は法多層、下半分は小笠層と名付けられている。法多層は地層としては未熟で、粗い礫がまだ十分に固結していない。小笠層は固結が進んで礫も丸く磨かれている。小笠礫層の下には掛川層群に属する曽我累層と土方泥層がある。曽我累層の厚さは、西北部で200~300m、南東部で400mに達する。小笠山は、山頂から北東側が急で崖もある。一方南西側が緩やかである。このような特殊な地形を「ケスタ地形」と呼ぶ。これは小笠礫層は浸食されにくく、掛川層群は海底堆積物で浸食されやすいためである。

小笠山(264.79m) 四等三角点(小笠山)

多聞神社

多聞神社の伝説

昔むかし、江戸時代の始め浅羽村芝の河村平馬の子で
小太夫(こだいふ)という少年がおり、笛を吹くことが上手で近所でも評判でした。
彼は十五の時に小笠山に登り行方が分からなくなり母親が心配していたところ、
夢に現れこの山の多聞天となることを告げました。
彼は、病人がいると夢に現れ薬を教え効き目もあったので、
人々はその御礼としてここに祀ったと言われます。

中央奥に高天神城跡

小笠山の山頂は「小笠山砦跡」でもあります。

掛川城を攻略するために築かれた砦で

後に高天神城を包囲するための「高天神六砦」と呼ばれました。

砦としての遺構整備はされていませんが、各曲輪や横堀・土塁などが残存し、

標柱等も設置されています。

小笠神社

文武天皇の命により大宝年間(701~704)に創建されたそうです。

御祭神は事解男尊・伊弉册尊・速玉男尊の3柱。

同時に創建された掛川市の三熊野神社、御前崎市の高松神社とともに

「遠州の熊野三山」と呼ばれています。

小笠神社

文武天皇の命により大宝年間に創建されたとされている。祭神は事解男尊、伊弉册尊、速玉男尊の3柱であり、熊野三山から勧請されたとされている。同時に創建された掛川市の三熊野神社、御前崎市の高松神社とともに「遠州の熊野三山」とも称される。

参道には樹高が20メートルほどのスギがあり、樹齢が400年以上と推定されることから、1990年に小笠郡大東町により天然記念物として文化財指定されている

11月には「矢矧祭」と呼ばれる神事が行われている。五穀豊穣、家内安全、安産を祈願する神事であり、神社の建立以来続く祭礼とされている。神職が放つ破魔矢を氏子が奪い合い、その矢を近隣の多聞天神社に奉納する神事である。

小笠神社には多聞天神社が隣接しており、小笠神社の祭礼の際には多聞天神社に矢が奉納されるなど、関係が深い神社の一つである。多聞天神社が現在の地に創建された理由について、伝承によれば、小笠山に天狗が住んでおり、近隣の住民が天狗を多聞天として多聞天神社に祀ったからとされている。(Wikipedia)

山頂より

小笠山の役行者像

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