有玉神社・静岡県浜松市東区有玉南町




有玉神社・静岡県浜松市東区有玉南町

浜松市東区有玉南町に鎮座する「有玉神社」

延喜式の「朝日波多加神社(遠江国 長上郡)」に比定される式内社(小社)の論社です。

御祭神は『天照意保比留売貴命・天手力男命・萬幡豊秋津姫命、外二十柱』

「有玉神社」秋の例大祭で行われている「流鏑馬(やぶさめ)」は、

およそ400年前、家康公が大阪夏の陣を終えて江戸に戻る途中、

戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まると伝わります。

また、「有玉神社」には「坂上田村麻呂」と、天竜川に住む赤大蛇の伝説が残っています。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう際に、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり、

2人の間には子供が出来たそうです。

子は後に俊光将軍といわれる武将となり、再び父子で東征の命を受けこの地を訪れました。

その際、袖ヶ浦(天竜川)が荒れ困り果てていた所、母親の赤大蛇から授かった「潮干の珠」

を玉を投げ入れると、潮が引いて陸となったといいます。

この土地にはやがて人が住み村が出来ました。

ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになりました。

村人がその光を探すと、そこに一個の珠がありました。

その珠(潮干の珠)を祭ったのが有玉神社だと伝わります。

有玉神社の伝説

昔、天竜川河口近くに三千年を経るという赤大蛇が住んでいた。

坂上田村麿将軍が東征でこの地を訪れた時、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり2人の間に子供が出来た。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。

この子は成人し、俊光将軍といわれる武将になり再び父子で東征の命を受けこの地を訪れる。

その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。この平野にやがて人が住み村が出来た。

ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を祭ったのが有玉神社だといわれる。

有玉神社H.Pより

有玉神社

<由緒沿革>

旧郷社神明宮は創立年代不詳、元禄十六年再建の棟札あり、旧朱印高六石にして、旧長上郡式内五座の内朝日波多加神社と申伝あり、明治六年郷社に列せらる。 旧村社八幡宮は創立年代不詳、大正十年再建の棟札あり、旧朱印高十二石なり。  特殊神事流鏑馬は、徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を寄進したことに始まる。例祭の神事として四百年の伝統を今に伝える。 當神社は明治四十年、当時の有玉村三百八十戸余りの地域内に、郷社神明宮を初め村社、無格社合せて十二社あり、境内、社殿共に狭く又、祭典の繁雑さから、明治四十年郷社神明宮を八幡宮境内(当地)に移転し八幡宮、俊光将軍社等、併せて十一社を合祀し、郷社有玉神社と称した。新社殿は大正二年完成、同年九月十日遷宮された。 昭和二十七年八月二十日「宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県庁神社等級規定により六等級神社と承認される。

<祭典>

4月第一日曜日 (小祭)月次祭

6月最終日曜日 (小祭)大祓、月次祭

10月「体育の日」前の金土日曜日 例大祭

11月第二日曜日 七五三祭

11月23日 (大祭)新嘗祭

12月31日 (小祭)大祓、除夜祭

1月1日(元旦) (中祭)歳旦祭

1月11日(建国記念日) (大祭)祈念祭、焼納祭

<御神徳>

有玉神社には太古より「珠」が祭られているといわれてきた。 「珠」は御宝として尊ばれ、昔から多くの人々の厚い信仰を受けてきた。 また、23柱の御祭神が合祀されている神社でもあり、「国家安泰」、「子孫繁栄」、「五穀豊穣」、「家内安全」「商売繁盛」、「学業成就」等、あらゆることに御加護がある。

<おねがい>

境内は、氏神様のお屋敷です。 社殿を汚したり、壊したりしないよう、お互いに注意しましょう。

合祀された神社の旧所在地及び御祭神

<御祭神>

郷社神明宮 (城山橋)

天照意保比留賣貴命

(西の山) 天手力男命・萬幡豊秋津姫命

村社八幡宮 (現有玉)

譽田別命・息長足姫命

(神社地)

大鷦鷯命

俊光将軍社 (欠下平)

坂上大宿根田村麿命

白髭神社 (町田)

猿田彦命・菅原道真公霊

天神社 (上瀬)

國狭槌命・弥都波能賣神

金山社 (東畑屋)

金山彦命・稲倉魂命・事解男命・須佐之男命

稲荷神社 (松木)

事解男命・速玉男命・大年神・御年神

白山社 (下村)

志那都比賣命・志那都比古命・伊邪那岐命・伊邪那美命・大年神・御年神

山神社 (欠下平)

大山祗命

津島社 (欠下平)

須佐之男命

白山社 (宇藤)

伊邪那岐命・伊邪那美命

山神社 (西畑屋)

大山祗命

大頭龍社 (新村)

大物主命

有玉神社の流鏑馬

有玉神社の祭典で、現在も行われている流鏑馬は、およそ四〇〇年前、家康公が大坂の役から帰陣の際、戦場で乗った愛馬を寄進したことに始まるといわれている。 江戸時代には、浜松城主が毎年見物に来たといわれている。

平成二五年三月 浜松市東区役所

有玉神社 由緒

明治四十年、当時の有玉村は世帯数三百八十戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて十二社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が三社、小部落で行う神社が九社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、一村一社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と社会教化の中心にしようとして、明治四十年九月十日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて十一社を合祀し、郷社有玉神社と称することにした。新社殿は大正二年完成し、同年九月十日に御遷宮された。昭和二十七年八月二十日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により六等級神社と承認された。

有玉神社H.Pより

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