鎌倉半僧坊 ~建長寺の鎮守~ 大本山 巨福山 建長寺
半僧坊 – 大本山 巨福山 建長寺
http://www.kenchoji.com/hannsoubou.html
ここ鎌倉半僧坊には、天園ハイキングコースの登山口があります。
当初はここ建長寺からスタートする予定でしたが、
早朝6:00、境内に立ち入ることが出来ず、
逆側、瑞泉寺からの登山口より辿り着きました。
画像は自分が辿ったのとは逆、建長寺側より
建長寺の境内を抜け山方面へと歩いて行くと鎌倉半僧坊の参道へ
参道入り口横には達磨大師像
2010年(平成22年)中国の少林寺より信託されたそうです。
当初は法堂前に置かれていたが、現在は半僧坊大権現の参道に置かれている。
写真には残っていませんが左右は壁のような岩壁
この辺は谷戸(やつ)と呼ばれる、尾根と尾根の谷間のような場所にあります。
地質は鎌倉石とよばれる凝灰岩で、水分を良く含み、
強度がある割には加工し易いのが特徴の石で出来ています。
周囲を山に囲まれ土地が少ない、ここ鎌倉では、
この鎌倉石を削って作った「やぐら」と呼ばれるお墓を多数見ることができます。
途中見つけた、こんな秘密の抜け穴のような通路も、
加工しやすい鎌倉石ならではです。
左右の反り立つ凝灰岩の岩壁に圧倒されます。
参道周辺は整備されていて素敵。
一つ目の鳥居を抜けるとすぐに階段が、
ここから山の始まりです。
手水舎
半僧坊大権現は、建長寺の鎮守。
建長寺裏山の中腹にある。
後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた
静岡県浜松市にある方広寺が半僧坊の本元。
禅師につき従っていた男が、薪採りや水汲み、食事の仕度をしていたので、
「飯僧」と呼ばれ、のちに「半僧坊」と呼ばれるようになったという。
この男は、禅師が中国での修行を終え帰国する途中で
嵐に遭った際に禅師を助けたといわれている。建長寺に半僧坊権現が勧請されたのは1890年(明治23年)のこと。
半僧坊信仰が全国に広まったのは明治時代で、方広寺の山火事の際、
円明大師(無文元選禅師)の墓と方広寺の鎮守「半僧坊」が類焼を免れたことから、
半僧坊の威徳によるものという評判が広まった。
本堂
建長寺 鎌倉半僧坊 縁起
建長寺半僧坊は、今から五代前の住職おおぞら霄 (あおぞら)貫道老師が、
ある夜お坊さんのような、また俗人とも見える白髪の老人と山中で会い、
「私を関東のいずれかの清浄な所に招いて下さるなら、
その所いよいよ栄え、ありがたい事が絶える事がない。」と告げ、
姿を消してしまった霊夢を見られた。
その姿こそ半僧坊の真姿で、建長寺の鎮守に相応しいと、
早速住職自ら静岡県奥山方広寺(静岡県浜松市)に出向き御分身を願われ、
明治23年5月、建長寺の内で最も景色のよい勝上巖に安置され、
直ちに勝上教会を作りお堂創建の許可を得た。
折柄の好景気により、莫大な建築資金も信者の浄財で集まりたちどころに創建された。
当時、信者分布は一都二十数県、講社数百二十余社、信者数五万余人を数える盛況であった。
ここ半僧坊は霊験あらたかで家内安全、商運隆昌、厄災消除、安産守護、
大漁祈願、交通安全、合格祈願等々の御利益は誠に甚大なものがある。
大本山 建長寺 鎌倉半僧坊
鎌倉二十四地蔵霊場の第11番札所の地蔵堂
勝上けん地蔵をお祀りします。
地蔵堂の横から、勝上けん展望台へと続く道
ここから天園ハイキングコースの登山口となります。
山中から建長寺に入る際にはここ鎌倉半蔵坊で
参拝料を支払います。
左に鎌倉市街、右が建長寺の境内です。
山中で見るのと変わらない絶景。
ハイキングしない方でもここまで登る価値有りです。
御朱印
地元の方広寺(奥山半蔵坊)から勧請された鎌倉半僧坊
引けを取らない素晴らしさです。