金峯山寺本堂(蔵王堂)
奈良県 吉野山観光協会H.P
http://www.yoshinoyama-sakura.jp
仁王門を通るとすぐに金峯山寺の本堂
通称 蔵王堂(ざおうどう)があります。
東大寺大仏殿に次ぐ木造とありますが、周りに建築物な無いため
圧倒的な大きさに感じます。
金峯山寺本堂(蔵王堂)
エリア 中千本
住所 〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山2500
TEL 0746-32-8371
拝観料 500円(特別御開帳の期間は1,000円)
拝観時間 午前8時30分~午後4時30分/受付は午後4時まで/年中無休
駐車場 専用駐車場なし
アクセス ロープウェイ吉野山駅下車 徒歩約10分
ホームページ http://www.kinpusen.or.jp/
金峯山寺本堂(蔵王堂)国宝
金峯山寺蔵王堂
金峯山寺は吉野山のシンボルであり修験道の根本道場です。
金峯山とは吉野山から山上ヶ岳(大峰山)にいたる山々の総称で、
“金のみたけ”という意味。山上ヶ岳にある大峰山寺への玄関口の役割を持っています。
創立年代は不明ですが、その昔、役行者が金峯山を開き、
平安時代に聖宝理源大師が蔵王権現像を安置したといわれています。
以降、中世において隆盛をきわめ、
現在も金峯山修験本宗総本山として偉容を誇っています。
蔵王堂は、金峯山の高台にそびえたつ、東大寺大仏殿に次ぐ木造の大建築で、
現在の本堂は1592(天正20)年に再建された、室町末期を代表する建造物です。
正面5間、側面6間、建物の周りに藻腰を付けた入母屋造り、桧皮葺。
高さが約34mもあるので、吉野を巡る折々にその威風を見ることができます。
本尊として3体の蔵王権現像をまつり、中尊の高さは7m余りの巨像。
堂内は内陣と礼堂からなり、松やチャンチン(ツツジの一種)など
自然木を素材のまま使った柱68本が林立するさまは豪壮です。
また、内陣の2本の金箔張りの化粧柱や須弥壇は
太閤秀吉が花見の際に寄進したものといわれ、桃山建築の美しさを残しています。
吉野町H.P
朝7時過ぎに訪れたのですが、すでに開いています。
しかし参拝客は自分の他に一人のみ。
金峯山寺本堂(蔵王堂)国宝
創立年代不詳。
寺伝によると白鳳年間(7世紀)に修験道の開祖役行舎によって創建されたという。
金峯山寺は平安時代(794-1192)から修験道の隆盛により、
天皇家をはじめ公家や武家から厚い帰依を受け、
数多い未葉寺院や広大な寺領を誇っていたと伝えられている。
この本堂は、山上ヶ岳頂上にある山上蔵王堂(大峯山寺)に対して山下蔵王堂と呼ばれ、
修験道の霊場である吉野・大峯の中心的伽藍として信仰を集めてきた。
文献上では康和5年(1103)に存在したことが確認されるが、
現在の建物は、天正20年(1592)に再建されたものである。
高さ33.9m、桁行7間25.8m、梁間8間27.3mの
一重恵裳階付入母屋造り檜皮茸の木造建築で、
修験道の中心寺院として相応しい威容を誇っている。
堂内には修験道の本尊である金剛蔵王権現の巨像三体や役行者等を安置している。
堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものはなく、
すべて自然木を素材のまま使用している。
柱の材質も様々で、杉、桧、欅などの他に梨やツツジの柱もあり一定しない。
この堂では、本尊に桜花を供えて人々の罪科を懺悔する「花供懺法会(花供会式)」や、
神仏を悔ったために蛙の姿に変えられた男が懺悔して、
僧侶の法力によって人間の姿に戻されたという伝説に基づいた
「蓮華会蛙とび行事」などの伝統行事が、毎年盛大に行われている。
蔵王堂から銅灯籠と直線上に
神社の祓所のように仕切られた場所が、
周りに焦げたあとがあります。
護摩を焚いたりする場所なのでしょうか?
四本桜・銅灯籠(国重要文化財)
二天門跡
ここに 正平3年(1348)に消失した二天門があったといわれます。
金峯山寺には普通正面にある仁王門がなぜか真裏にあり、
正面にはこの二天門がありました。
その理由は大峯奥駈道を通り熊野から吉野に入る順峰の修験者を迎えた二天門に対して、
仁王門は、吉野から熊野へ向かう逆峰の修験者を迎える意味をもっているそうです。
四本桜・銅灯籠
蔵王堂正面の石の柵に囲まれた中に、桜の木が四本植えられているが、
ここは元弘3年(1333)閏3月3日、後醍醐天皇の第二皇子、
大塔宮護良親王が北条幕府の大軍に攻められて、吉野山にたてこもったとき、
ここ蔵王堂を本陣とし落城に際していま四本桜のある前庭で、
最後の酒宴を開いたところである。
後世ここに桜を植え、大塔宮御陣地として記念されている所である。
柵の中に青銅の灯籠があるが、
これは文明3年(1471)に妙久禅尼という尼さんが寄進したもので、
室町時代の秀作として、重要文化財に指定されている。二天門跡
いま村上義光公忠死之所と刻まれた石碑のあるところが、
二天門(これが蔵王堂の正面か)といわれ、
元弘3年(1333)吉野落城の際、前庭で酒宴も終わり、
いざ決戦というとき大塔宮の家来の村上彦四郎義光が、宮の鎧兜を身につけて、
その身代わりとなって二天門上へかけ上り、
腹を一文字にかき切って壮烈な最期をとげたのであった。
大塔宮はこのすきに、勝手神社横の谷を抜け、無事高野山へ落ちのびることが出来た。歌書よりも 軍書に悲し 吉野山
とうたわれる、吉野山の悲劇的な歴史の一ページがここでうかがえる。