那閉神社(なへじんじゃ)虚空蔵さん・静岡県焼津市浜当目




那閉神社(なへじんじゃ)虚空蔵さん・静岡県焼津市浜当目

那閉神社 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/那閉神社

静岡県焼津市にある那閉神社(なへじんじゃ)へ

焼津駅の北東2Kmほどの浜当目、虚空蔵山(126m)の南西麓に鎮座。

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鳥居が連なる参道、浜辺の神社らしく松などが立ち並びます。


手水舎

神社の謂れ

この神社には色々な説があり一節には那閉神社は元々は社殿が無く、
岡部の神(みわ)神社と同じように虚空蔵山(当目山)を
御神体として祀っていたともいわれている。
また、ある説では海から来た神は、最初当目山の沖合にあった
「神の岩(かんのいわ)」に遷座して、砂洲で繋がっていた
当目山の下の洞窟「御座穴」に籠ったとも考えられた。
しかし神の岩が大波を受けて岩が崩壊したため、現在地に奉遷されたという。


拝殿

那閉神社(なへじんじゃ)

式内社
駿河國益頭郡 那閇神社(旧郷社)
御祭神
大国主命・事代主命
境内社
津島神社・青木神社・稲荷神社
創祀
不詳
住所
焼津市浜当目3-14-13

狛犬の後ろには御祭神の大国主命(大黒様 右) 事代主命(恵比寿様 左)

那閉神社の語源は海辺の「波邊」とされる。


本殿

海岸近くの神社らしく境内は砂地です。


閉神社の常夜灯

閉神社の常夜灯
(市指定有形文化財)

高さ 約305CM
制作 文政5年11月(1822)

焼津市に現存する燈籠では最大規模の大きさで、
構造は下に3段四隅を置き、その上に獣足をまねてた
四本足の竿、中台、火袋の順に積み、その上に笠と宝珠を乗せてある。
この燈籠は信州高遠の石工により制作され、
大正年間にこの地に写されたと伝えられている。

須海岸の岩壁にある「御座穴」

那閉神社の祭神・恵比寿さまは、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供の蛭子尊(ひるこのみこと)
が元になっているとされている。
足が不自由だった蛭子尊は、幼少時に親の伊弉諾尊に
葦の船に乗せられ海に捨てられてしまい、
当目山沖合の「神の岩(かんのいわ)」降神(漂着)した。
そして当時は砂洲で繋がっていた当目山の下の洞窟
「御座穴」に籠って修行をしたとも考えられる。


稲荷神社

稲荷神社の御祭神は豊受神・御食神・宇迦之御靈神

撮り忘れてしまったが、右隅に見えるのは

境内社の「津島神社」で 祭神 須佐之男命を祀る。


青木神社

須藤左門が眠る青木神社

戦国時代の駿河では、たびたび武田と徳川の合戦が繰返されていました。
天正9(1581)年、浜当目近くの青木の森(現サッポロビール近く)付近で、
用宗(持舟)城にいる武田勢と徳川勢とで争いが起きました。
そのとき武田の武将として名高い須藤左門は、次々と徳川勢を打倒し、
徳川勢の石川という将兵と槍をあわせました。
この石川と云う武将は初陣の若者であるため、須藤には勝てるはずもなく、
あっさりと組み敷かれてしまいました。須藤は石川の首を取ろうとしたが、
石川の余りの若さに故郷の息子たちの顔と重なり、
そのまま背を向けると後から、いきなり討たれてしまいました。
須藤を討ち取った手柄から石川家は旗本の身分に出世をしました。
しかし何代後かの石川家の当主が、駿府城に行くたびに急死をするので、
須藤左門の怒りを鎮めるため石祠を造り、青木の森に祀りました。

今から四百年ほど前のお話です。
天正6(1578)年から10年ごろにかけて、当目山の麓で、
武田軍と徳川軍が、何回となく戦いを繰りひろげました。
そんな戦いのおり、武田の家来の中に須藤左門という
強い侍さむらいがいました。
この日も40騎ばかりの敵を討ちとったあと
石川右京という武将と戦いはじめました。
逃げる右京を青木の森に追いつめたとき、左門は木の根っこにつまづき、
ドーッとばかり倒れてしまいました。右京が
これ幸いとばかりに切りかかろうとすると、
左門は「汝、武士の情けがあるならば、われ起き上がってのちに堂々と戦え」
と叫びました。
右京はこれを聞き入れず、ついに左門を討ちとってしまいました。
右京はこの手柄により、駿府城の守護する役につき、
しばしば東海道を往来していました。
ところが、いつも岡部宿あたりまでくると、なにか胸さわぎがするのです。
心配になって岡部宿の易者に占ってもらうと
「先に討ちとった左門の霊がたたっている。三輪石(岡部の三輪)で碑をつくり、
当目の寄鼻という所に祀れば許されるであろう。」と言われました。
右京は、さっそく三輪石で高さ70cmぐらいの祠をつくり、
寄鼻に運ぶことにしました。人夫に担がせ、青木の森まで来たときです。
不思議なことに急に祠が重くなり、一歩も進むことができなくなってしまいました。
しかたなく右京は、祠を森の中に建てることにしました。
きっとここが左門の最後の地だったのでしょう。
今では青木の森もなくなってしまい、
石祠も浜当目の那閉神社の境内に移されています。

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