檜原神社(ひばらじんじゃ)大神神社 摂社・奈良県桜井市大字三輪字檜原
檜原神社(ひばらじんじゃ) | 大神神社
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山辺の道沿い、大神神社から徒歩30分弱の位置にある
摂社『檜原神社(ひばらじんじゃ)』です。
大神神社 特有の3つの鳥居が連なった「三ツ鳥居」が有名な神社。
また、境内から眺める鳥居越しの二上山の眺めは絶景として名高い。
社殿は無く、三輪鳥居の背後にある神体山を三輪山お祀りする古代信仰の形を残す。
祭神
天照若御魂神(天照大御神) 中央
伊弉諾尊【いざなぎのみこと】 左
伊弉册尊【いざなみのみこと】 右
(元伊勢)桧原【ひばら】神社と
豊鍬入姫宮【とよすきいりひめのみや】の御由緒
大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」
(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて
【同床共殿」【どうしょうきょうでん】でお祀りされていました。
同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎主)に託され宮中を離れ、
この「倭笠縫邑」【やまとかさぬいむら】に「磯城神籬」【しきのひもろぎ】を
立ててお祀りされました。
その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、
桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。
そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、
三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、
西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、
麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」【かむあさぢはら】
の地とされています。
更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳」
(内行花文鏡出土・社蔵)」があります。
大神神社
伊勢神宮の起源
伊勢神宮はアマテラスを祭る内宮と豊受大神を祭る外宮からなる。
その起源は、紀によれば、崇神天皇の代に疫病が流行したので、
それまで宮中に祭っていたアマテラス大神を倭の笠縫邑に移して
豊鍬入媛に祭らせた(これを神人分離という)。
つぎに垂仁紀二十五年に豊鍬入媛を廃し、ヤマトヒメがこれを祭って、
菟田から近江・美濃を巡って伊勢に到ったとある。
そのときアマテラスは、「神風の伊勢国は、常世の波がしきりに打ち寄せるすばらしい国だ」
と言ったので、その地に社を建てて鎮座したという、
これが、天皇家の始祖神を祭る皇太神宮(内宮)の起源伝承である。
外宮については、雄略天皇の代にアマテラスの食事に仕えるため、
丹波国から豊受大神を迎えたのがはじまりとされている(『止由気宮儀式帳』)。
豊受大神は穀物の神である。このような伝えはいずれも歴史的事実ではないが、
雄略朝に伊勢神宮の起源があることは、広く認められている。
ただし、それは太陽信仰の盛んな伊勢の地に、大和朝廷が東方に進出する拠点を兼ねて、
王家の守護神の祭場を移したもので、そこは今日の外宮のある所であったらしい。
その後、壬申の乱にさいして、伊勢に入った天武天皇は
アマテラスに祈願して勝利をものにした(天武紀元年六月)。
天武天皇の時代にアマテラスは皇祖神としての地位を確立し、
これを祭る宗廟として新たに内宮が造られたと考えられる。
もともとの外宮には、社稷(しゃしょく)の神として
穀物神が祭られるようになったのであろう。
伊勢神宮の起源はおそらく五世紀の雄略代にまでさかのぼるが、
内・外宮の二所体制が完成するのは七世紀後半の天武朝になってからと思われる。
日本神話事典当社(大和神社)の創祀は、『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた
天照大神・大和大国魂神を第一〇代崇神天皇の御代、
同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に、勅して倭の笠縫の邑に、
大和大国魂神を皇女渟名城入姫命に勅して大市の長岡岬に奉遷したのに始まる。
神社辞典 大和神社説明
御朱印