熊野速玉大社
熊野速玉大社公式サイト
http://kumanohayatama.jp
和歌山県新宮市にある熊野三山の一
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に参拝しました。
下馬橋(げばばし)を渡ると
丹塗りの大鳥居の向こうに参道が延びている。
あいにくの雨模様だったが、
辺は霧掛かり神聖な雰囲気が漂っています。
朝7:40分頃到着、参拝者はほとんどいません。
八咫烏神社
御祭神
建角見命(たけつぬみのみこと)御由緒
当大社末社として古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。
神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者とも言われて交通安全、招福の御神徳が高い。手力男神社
御祭神
天之手力男命(あめのたぢからおのみこと)御由緒
延喜式神名帳に紀伊國牟婁郡手力神社小とある由緒の古い社で、もと神門内に祀られていたが、嵯峨天皇の弘仁四年(西暦八一三年)に勅命によって現社地近くへ遷り 明治四十年に新宮神社へ合祀された。
武道、健康、海運の御神徳が高い。
途中で緩やかにカーブを描く参道
絵世界遺産、熊野速玉大社参詣曼荼羅
本日はようこそ熊野速玉大社にお詣りくださいました。
この曼荼羅は、世界遺産登録を記念して作られ、熊野速玉大社を中心に新宮の素晴らしい聖地世界を描いています。多くの人々が心の癒しを求めてこの地に旅し、甦っていった熊野の世界へ皆さんをご案内いたしましょう。右側には熊野川が勢いよく流れ、黒潮踊る太平洋に注ぎ、上部に権現山、その左脇に神倉山、中央から上にかけて熊野権現の象徴である御神木「なぎ」と熊野速玉大社が描かれています。
社殿の前には槍扇(国宝)が捧げられ、上皇様がお参りされている様子がうかがえます。後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は29回も熊野にお参りされたといいます。
神倉山は、熊野三山の神々が最初に降り立ったという霊山で(熊野権現御垂迹縁起、熊野権現縁起絵巻)、日本の初代の天皇である神武天皇も、天磐盾(あまのいわたて)とされる神倉山に登り、高倉下命(たかくらじのみこと)から聖剣を授かって、矢咫烏(やたからす)の案内で大和に入り、日本の国を治めたとされています。(日本書紀)
毎年2月6日には、白装束の男達が御神火をいただいて駆け下りる「お灯祭」という勇壮な火祭りが行われます。
野速玉五社は、この神倉山から初めてこの地に神殿を建てて祀られたので「新宮」といい(熊野山略記)、十二社の神々を祀り、日本で一番大きなご夫婦の御神像(国宝)はじめ、多くの国宝古神宝が伝えられています。また、熊野詣の人々は、道中の無事を祈って必ず速玉大社で「なぎの葉のお守」と「熊野牛王神符」(くまのごおうしんぶ)をいただくことを古くからの慣習としています。(頼資御熊野書記、諸山縁起)
熊野川は、川の参詣道として世界遺産に登録され、古くは本宮から新宮へは川舟で下りました。熊野川の中ほどにある御船島も速玉大社の境内地で、10月15日、16日の大祭には、神様を乗せた御幸船が島を漕ぎ巡る「御船祭」が行われます。また、海には不老長寿の霊薬を求めて渡来したという秦の徐福も描かれています。
熊野神宝館近くの案内板、「世界遺産、熊野速玉大社参詣曼荼羅」の説明文
樹齢八百年といわれる御神木の梛の巨木
「まぎ」は凪に通じこの御神木は海上安全・家内安全の信仰を集めている。
旅の安全を願ってこの葉をふところに入れて参拝するのが習慣になっていたそう
また葉っぱが割けないことから男女の縁を保つお守りになるともいわれている。
熊野から世界へ捧げる平和の祈り
熊野は祈りの聖地として憧れの異界であり、「梛」の葉は霊威ある熊野詣でのお守りとして昔から大切にされてきました。
熊野速玉大社の御神木、梛は、樹齢約千年、日本一の梛の大樹として崇められています。
昭和47年、沖縄が本土に復帰した年この神木の苗木が沖縄の地に植樹され、40年後、各地の農林高等学校で発見されました。
立派に根づいているその姿に沖縄の苦難の歴史が重なり、一入感慨深く、当大社宮司のもとに平和を願う心ある人々が集い、平成24年6月「世界平和の祈り」が捧げられました。
平重盛公が国安かれとお手植えされた梛の御神木は、千年の時を刻んで平和を象徴する霊木となり、訪れる人々を見守り続けています。
どうか、心静かに手を合わせ、全ての命あるものを慈しみ、世界の平和をお祈りください。
(根本熊野大権現 熊野速玉大社)
館内に収蔵されている千点を超える古神宝類は
多くの国宝を含み、室町時代の工芸技術の粋を凝らした品々。
龍神村在住のチェーンソーアーティストの第一人者
城所啓二(きどころけいじ)氏が制作した迫力ある弁慶像
武蔵坊弁慶
弁慶の生涯について、歴史的には謎に包まれているが、熊野別当の関係者として、弁慶の出身は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされ、源平の戦いに出陣したとなっている
又、その最期においては、源義経の叔父である新宮十郎行家とともに源頼朝から追討を受けこの地で討ち死にしたとも伝えられている。
尚、弁慶に関係する史跡として、弁慶産家楠跡石碑と旧産屋敷の地(奥野々)に残されている鉄甲塚がある。
この後訪れる速玉大社の本宮とされる神倉神社でであった地元の方に伺った所
この弁慶の生家は熊野川を渡ってすぐの所にあるらしい。
朱塗りの手水舎で、中国の水龍といわれる
鼻が長い龍の珍しい水口。
表参道を歩いた正面に巨大な注連縄がかかる神門
正面には第一級殿(結宮)と第二殿(速玉宮)があり
主祭神の速玉大神と夫須美大神の夫婦神が祀られている。
本地垂迹思想では、日本古来の神は仏(菩薩)が人々を救うために「権」(かり)
に神となってこの世に現れた(垂迹)とし、その「権」に現れた神は権現とよばれているが、
速玉大神の本地仏は薬師如来、夫須美大神の本地仏は千手観音とされる。
左、上三殿は家津御子大神(けつみこのおおかみ)を祀る証誠殿
天照大神を祀る若宮、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀る高倉宮の相殿
神門をくぐると正面に見える。
右の二社、中四社・下四社(八社殿)は鈴門の背後に
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀る禅地宮など
八柱の神々を祀る相殿がある。
熊野御幸の碑
熊野御幸は宇多上皇(平安時代=907年)から玄輝門院(鎌倉時代=1303年)までの396年間に、上皇、女院、親王を合わせて御二十三方。140回に及ぶ、皇室のご参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身のご精進を数日間行われた後にご出発になる。
白川天皇の天永元年(1110年 平安時代)の御幸には総人数814人、一日の食料16石2斗8升、伝馬185匹、と記している。御幸の道順は、京都→住吉→和泉→紀伊半島海岸沿いに南下して田辺→中辺路→本宮→熊野川を下って当大社へ参拝→那智山→雲取→本宮→往路コースを逆行して帰京されるまで、二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった。
熊野御幸によって熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられなど各方面に大きな影響を残している。
古歌にみる熊野詣での心
熊野へ参るには 紀伊路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀伊路も 伊勢路も 遠からず 梁塵秘抄なぎの葉に みがける露のはや玉を
結ぶの宮や ひかりそふらむ 夫木集 検校法親王
境内社 新宮神社
明治四十年九月二十日、新宮町内(現新宮市)に祀られていた左記の当大社末社を境内の金刀比羅神社に合祀して新宮神社となった。 例祭四月三日
村社 太上宮 大巳貴命(おおなむちのみこと) 下本町 雑賀町・下本町
村社 谷ノ子守神社 菊理媛命(くくりひめのみこと) 日和山 谷王地
村社 石神社 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 船町 船町・川原
村社 今神倉神社 天村雲命(あめのむらくものみこと) 権現山麓 奥山際地・元鍛冶町・相筋・上本町
村社 渡御前社 神倭磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと) 山際地 口山際地・別当屋敷・横町
村社 満山神社 八百万神(やほよろずのかみ) 権現山(角池側)
村社 高倉神社 熊野樟日神(くまのくすびのかみ) 矢倉町
無格社 火之神社 軻具土神(かぐつちのかみ) 雑賀町
無格社 猿田彦神社 猿田彦神 神倉山麓
無格社 鳥坂小守神社(こちらは子でなく、小と記されています。管理人) 埴山姫命(はにやまひめのみこと) 丹鶴山
無格社 八幡宮 誉田別命(ほんだわけのみこと) 丹鶴山西麓 榎本氏の祖神
無格社 小飛神社 稲倉魂命(うがのみたまのみこと) 相筋
無格社 妙見社 少彦名命(すくなひこなのみこと) 相筋
手水舎の後方には佐藤春夫 望郷五月歌の碑。
望郷五月歌
塵まみれたる街路樹に
哀せふる五月(さつき)に来にけり
石だたミ都大路を歩みつつ
恋しきや何ぞわが故郷(ふるさと)
あさもよし紀の国の牟婁(むろ)の海山
夏ミかんたわわに実り
たちばなの花咲くなべに
とよもして啼くほととぎす
心して勿(な)散らしそかのよき花を
朝霧か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狭霧(さぎ)らふ
朝雲か望郷の
わが心こそ
そこにいさよふ
空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
それまでとその後の記事はこちら