鳥羽城跡(とばじょうあと)
観光三重H.P
https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_2892.html
鳥羽 中之郷の駅から伊勢神宮へ向かう途中、
30分に1本の電車に乗り過ごしたので、次の鳥羽駅まで歩いて行くことに
鳥羽城跡が気になり立ち寄ってみることにしました。
TOP画像は三の丸広場、案内板やパンフレットも完備されている。
近鉄志摩線を渡った道路沿いにある。
鳥羽城跡
住所
〒517-0011 鳥羽市鳥羽3丁目
0599-25-1157(鳥羽市観光課)公式URL http://www.tobakanko.jp/
料金 無料
公共交通機関でのアクセス 鳥羽駅から徒歩約10分
車でのアクセス 伊勢ICから伊勢二見鳥羽ライン経由で約15分
駐車場 鳥羽駅西駐車場(2時間以内無料)のご利用が便利です
鳥羽城跡案内図
戦国時代末期、九鬼嘉隆が織田信長のもとで、数々の戦功を挙げ、
後に鳥羽城を築きました。
鳥羽城は大手水門を海に向けた「海城」で全国的に珍しい城です。
明治時代に城は取り壊されましたが、三ノ丸広場から城山公園周辺は眺めも翌、
随所にみられる石垣から当時の城址の面影を感じることが出来ます。
間近でみると迫力ある段差石垣
当時、三の丸跡は、城の玄関口として整備されていた
現在の近鉄の線路と国道部分に二の丸御殿があったと考えられています。
鳥羽城跡(三重県史跡)
鳥羽城は九鬼嘉隆(くきよしたか)が文禄3年(1594)年に築き、
その後寛永10(1633)年に内藤忠重が入完封してから二ノ丸、三ノ丸を
増設し、近世城郭として体制が整ったとされています。
鳥羽城は水軍の城らしく大手門(水門)が海側に設けられ、
四方を海で囲まれた全国的にもまれな特徴をもつ「海城」でした。
この場所は右下の絵図の三ノ丸があった場所になります。
鳥羽城に関する資料としては、延宝8(1680)年に内藤家が断絶
となった際の記録に、天守三重とあり、規模は5間×6間で、
高さ約19.5mであったとされ、天守下には蔵もありました。
天守閣や本丸があった場所は現在、旧鳥羽小学校運動場になっており、
建物などは残っておりませんが、石垣の一部が相橋と本丸西側などに残っています。
城址からは九鬼氏、内藤氏、稲垣氏の家紋の入った瓦が採集されています。鳥羽城の構造
総面積 32,280坪
外曲輪惣堀 1,466間
矢狭間の堀 942門
水門 4ヶ所
門(相橋口、横町口門、藤口門) 3門
曲輪櫓(三重1、二重5、一重7) 13箇所
(廃藩置県寺の記録)
水軍の将 九鬼嘉隆
鳥羽城は九鬼水軍として活躍した九鬼嘉隆により、文禄3(1594)年に築城されました。
九鬼氏は南北朝の動乱以降、志摩地方に勢力を伸ばし、
戦国期には嘉隆が織田信長に仕えるようになります。
嘉隆は織田信長が天か統一を目指す過程で、苦心していた長島の一向一揆や、石山本願寺
との戦いにおいて水軍を率いて数々の戦功を挙げました。
なかでも、天正6年の大坂湾での第2次木津川口の戦いで、
当時としては異例の大型の鉄甲冑6隻を率いて毛利水軍を打ち破り、
石山本願寺の攻略に大きく貢献し、その功績により伊勢・志摩国のうち3万5千石を
賜りました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、日本丸という大型軍船を建造し、文禄元年(1592)年
の朝鮮出兵の際にも日本丸を中心とした大船団を率いて参陣しました。九鬼家その後
嘉隆は家督を子、守隆に譲り隠居しますが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、
嘉隆は石田三成側の西軍、守隆は徳川家康側の東軍に属し父子で戦いをしました。
西軍の敗北後、嘉隆は、答志島の洞泉庵にて切腹しました。
現在。答志島には嘉隆の首塚、胴塚があります。
その後、守隆は戦功により5万5千石となるが、守隆が没すると、
久隆と隆季で家督争いが起こり、幕府の裁定により久隆は摂津国の三田
(兵庫県三田市)、隆季は丹波国綾部(京都府綾部市)へ国替えが命じられ、
九鬼家は二分され、鳥羽の地を去ることになりました。
鳥羽城の歴史
九鬼氏の時代
九鬼嘉隆が鳥羽城を築城したのは、文禄3(1594)年とされていますが、
九鬼氏の時代の城の様子は不明な点が多く、この時に天守閣も建てられたかどうなのか
など詳しいことはわかっていません。
しかし現在の本丸石垣などは野面積みであることなどから、九鬼家の階段には
ある程度の城郭は整備されていたと考えられます。九鬼氏忌もうの城主
九鬼氏が国替えによって鳥羽を離れた寛永10(1633)年には、
譜代大名であった内藤忠重が城主となり、鳥羽城の二ノ丸、三ノ丸を構え、
西念寺を藤之郷(鳥羽四丁目)に移すなど近世城郭として整備したとされています。
以降幕末まで、鳥羽城の姿は内藤氏による整備から大きく変わりませんでした。
その後、内藤氏は3代続き、殺傷事件により領地没収となり、江戸幕府の直轄領を経て
土井、松平(大給)、坂倉、松平(戸田)と短期間に城主が替わり、
稲垣氏が城主となります。
その間に鳥羽城は幾度となく災害に見舞われています。
宝永4(1707)年には大地震による津波によって屋敷や櫓(やぐら)が流失し、
石垣や城壁が大破したとされ、その後も、寛政4(1792)年や安政元(1854)年
の暴風雨や津波により被害が出たことが分っています。明治以降の鳥羽城
明治の廃藩置県により、建物は「無用の長物」とされ取り壊され、
堀は埋め立てられ、跡地には旧鳥羽小学校、旧鳥羽幼稚園、鳥羽市役所
市民文化会館が建設されました。
この三ノ丸跡も造船所が出来たため、城の遺構は殆ど残っていませんが、
多くは江戸時代から存在したもので城下町の面影は偲ばれます。
鳥羽城主の変遷と年表
<安土桃山時代>
1594(文禄3)年 九鬼嘉隆により鳥羽城が築城される。
1597(慶長2)年 嘉隆の家督を息子の九鬼守隆に譲る。
<江戸時代>
1633(寛永10)年 九鬼家が国替えの後、内藤忠重が城主となる。
鳥羽城に二ノ丸、三ノ丸にあった西念寺を藤之郷に移す。
1680(延宝8)年 内藤忠重が芝浦増上寺で刀傷事件を起こし領地没収となる。
1681(元和元)年 土井利益が城主となる。
1691(元禄4)年 松平乗邑が藩主となる。
1710(宝永7)年 板倉重治が藩主となる。
1717(享保2)年 松平光慈が藩主となる。
1725(享保10)年 稲垣昭賢(初代)が藩主となる。
1726(享保11)年 稲垣昭央(第2代)が藩主となる。
1786(天明6)年 稲垣長以(第3代)が藩主となる。
1787(天明7)年 稲垣長続(第4代)が藩主となる。
1792(寛政4)年 大風雨により鳥羽城櫓等流失、石垣、城壁大破。
1800(寛政12)年 暴風によって城壁大いに破壊される。
1824(文政7)年 稲垣長剛(第5代)は二ノ丸に藩校「尚志館」を設立する。
1838(天保9)年 暴風雨により修復する
1865(慶応元)年 稲垣長明(第6代)が藩主となる。
1866(慶応2)年 稲垣長行(第7代)が藩主となる。
<明治時代>
1868(明治元)年 稲垣長敬(第8代)が藩主となる。
1871(明治4)年 廃藩置県により鳥羽城の御殿・櫓・門等の撤去
1875(明治8)年 二ノ丸、三ノ丸を払い下げ、本丸のみ官有地とする。
1876(明治9)年 蓮池の堀を埋め立て、錦町が成立する。
1878(明治11)年 二ノ丸、三ノ丸跡に士族合資の造船所が出来る。
<大正時代>
1919(大正8)年 外堀を埋め、錦町通りをつくる。
<昭和時代>
1929(昭和4)年 旧鳥羽小学校が建設される
1965(昭和40)年 三重県の史跡に指定される。
三の丸広場から
三の丸広場から階段を登った先は城山公園として整備されている。
ここには遊具やトイレも完備されており、ここからの眺望も素敵です。
また桜の名所でもあるそうです
ここから天守方面、家老屋敷跡方面へと道が続く。
城山公園、奥に見えるのは答志島で、嘉隆の首塚・胴塚がある。
天守へと続く細道を進むと、
天守・市役所方面と道が二手に分かれる。
三の丸公園を上から
本丸西側の石垣は城の中心部分で最も良好に石垣が残在している。
相島(ミキモト真珠島)
鳥羽城 本丸跡(三重県史跡)
この場所は鳥羽城の本丸跡で、天守や本丸御殿が建っていました。
延宝9年(1681)年の記録によると、天守は3層で、大きさは5間×6間、
高さは10間5尺、天守の下には土蔵があったと記されています。
本丸御殿は275坪であったとされています。
明治時代に建物は取り壊しとなり、現在は往時を偲ぶ建物は残っていませんが、
周囲には野面積みの石垣の一部が今も残っています。
この場所は平成21年まで旧鳥羽小学校の運動場として活用されていました。
城の建築時期については、九鬼嘉隆が文禄3(1594)に竣工したとされていますが、
詳しいことは不明でした。
そのため、平成23(2011)年に初めて発掘調査が行われ、運動場跡の下から
建築主である九鬼氏の時代とみられる16世紀末頃の石垣や雨落ち溝、
土蔵や本丸御殿の一部と考えられる以降が確認されました。
現在は平坦となっていますが、天守閣のあった場所が最も高く、
本丸内でも高低差があったことも判明しました。
明治初期の開発によって城の海側の斜面は削平を受けており、
急斜面となっていますが本来の城は現在の鳥羽水族館のところまで拡がっていました。
ここからは、嘉隆が自害した答志島をはじめ鳥羽港が展望でき、
九鬼水軍の城にふさわしい「海城」の面影を偲ぶことができます。
鳥羽市教育委員会
鳥羽城本丸跡の発掘調査
鳥羽城本丸跡については、長らく詳細が不明でしたが、平成23〜25年に
初めて発掘調査が行われました。
その結果、天守台は明治時代以降に削平されており、遺構は残っていませんでしたが、
天守台想定地周辺からは、石垣や排水溝などが出土しました。
また、本丸御殿に伴う大井戸も確認されるなど、大きな成果を得ました。
鳥羽城の天守閣
延宝8年に作成された鳥羽城の財産目録には、
場内の建物について非常に詳しく書かれています。
天守については
「一 天守三重 内壱重 五間に六間」
とあり、3層であったことがわかります。
また鳥羽城の天守は、屋根の構造から「望楼形(ぼうろうがた)」
と呼ばれる古い型式の天守であったと推定されており、九鬼氏が城主の時代に
天守は建設されていたと考えられます。
本丸御殿跡
鳥羽城の本丸御殿については「八畳鋪(敷)上段、但九尺の床、
六尺の書院床(付書院)有」と記されており、上段の間に床、柵、付書院、
帳台備えの4点揃っている大変格式の高い書院があったことが判明しています。
平成23年の発掘調査では御殿の一部とみられる石列が出土しており、
本丸御殿の遺構が残っている可能性があります。
大井戸跡について
石列で円形に囲ってある場所は、鳥羽城の大井戸のある場所を示しています。
この井戸については、「雄井戸」と呼ばれ、城絵図にも記されている本丸御殿に
伴う井戸です。
昭和4年の鳥羽小学校の建設に伴い、本丸跡は運動場として使用されるため、
井戸には蓋がされ、長らく眠ったままになっていました。
しかし、平成25年に実施された発掘調査で蓋を開封しました。
井戸の直径は約2.7mもあり、岩盤を刳り抜いた素堀の非常に大きな井戸で
あることが判明しました。
深さは当時は約45mあったとされていますが、約17mまで埋められていました。
現在は蓋をして埋め戻されていますが、この井戸には龍が棲み、井戸は相島
(現在のミキモト真珠島)へ通じているという伝承が残っており、
まさしく本丸に相応しい立派な井戸です。
本丸跡からは鳥羽湾が一望できる絶景スポットです。
鳥羽駅からもすぐの所にあるのでお勧め
城山公園から一段下がった所
ここから大山祇神社へ向かうことが出来る。
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)の記事は別にまとめてあります。
鳥羽水族館方面から望む鳥羽城跡
木々の中に見える建物が旧鳥羽小学校。