井平城(いだいらじょう)
おんな城主 井伊直虎 ゆかりの地
http://hamamatsu-daisuki.net/naotora/land/
井平城(いだいらじょう)へ
井平氏居館跡より数分歩いた先にあります。
周辺は地域の方の手によって整備されていました。
随所に案内板と説明文があり城好きで無くても楽しめます。
城址内は山道なので軽登山の装いがお勧めです。
この辺は後の地図、竹矢が発見されたH部分。
大手門を抜けると鋪装された道路に出る。
ここまで車で来ることが出来、案内板の前には2台程の駐車スペースもあった。
案内板より先、ちょうど、城の主郭部分だった場所には現在民家が、
当然立ち入り禁止です。
井平城跡の地形
A 主郭(近世城郭で云う本丸)相当する曲輪
B・C 半島状の自然地形を利用した曲輪でA曲輪の右翼を守る
意味があり特徴として帯曲輪を有する。
D 崩壊が激しいが、明らかに階段状の遺構が見られ、
C曲輪を守るための捨曲輪要素を持つ。
特徴として最上階の曲輪に土塁および縦土塁を設けている。
E の部分は不明書確な段差であるが、Fの遺構状況から類測すれば、
やはり階段状の遺構であったと思われる。
G は最も微蜜に小曲輪が施されており、主郭の左翼をになう意味と、
鳳来寺街道を押さえると云う意味がある。
尚、Hの部分から竹矢が発見された。
浜松市北区引佐町井平城山
作図 国学院大学城郭研究会
作成 NPO法人 いーら・いだいら
井平城跡(城山)
井平氏は井伊家七代井伊弥直(みつなお)の時代に分家、
井平四郎左衛門直時が井平氏の祖となり、井平・花平の領主で
この下に居館を構えていた。
南北朝期井伊家の技城が記されている浜名古城記に
「北は井平の川東、今城山と云う処に砦を築き井平四郎左衛門二郎重時
其の子掃部(かもん)左衛門直勝之を守る」とある。
天文十三年十二月(一五四四)井伊谷城主井伊次郎に招かれた
連歌師の宗牧は井平村を通過した折その道中記東国紀行に
「片岡かけたる古城かり之も井伊家一家の人」
と井平城のたたずまいを詠じている。
又細江町の式内社蜂前神社の古文書には井伊直平公の嫡男で
井伊家十四代井伊宮内少輔直宗の井平村御在城が記録されている。
井平城は旧鳳来寺街道上の要所に在り戦国時代小屋と呼称されていた。
元亀三年十月(一五七一)武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の率いる
一族の侵攻を受け落城している。
この付近には帯郭(おびくるわ)・土塁・土豪・井戸跡等と目される遺構が
現在槿かに昔日の面影を留めている。
井平ふるさと会 井平観光協会
井平城の遺構
ここより約100m先には当時の原形を留めた切岸(壁)、堅堀(縦堀)
土塁、土豪等を見ることが出来ます。
中世期の山城を思い浮かべて下さい。
作成 NPO法人 いーら・いだいら
A(主郭)とEとの間に土塁が築かれている。
この下を下って行くと色々と遺構が整備されている。
ちなみに土塁(どるい)とは曲輪の周辺などに土を盛り上げ、
敵の攻撃から曲輪内を防衛するもの。
曲輪(くるわ)とは、平坦な屋敷を確保するために山肌を削平し設けた区画。
E・F地点、竹が生い茂るが奇麗に整備されてある。
縦堀(たてぼり)
山の斜面に、等高に対して直角に彫られた空堀
敵が山腹を横に移動したり、登って来るのを防衛するもの。
作成 NPO法人 いーら・いだいら
B部分西側は崖になっている。
A部分前の曲輪
至る所で丁寧に説明されているので、とても面白い
D部分に井戸跡がある。
この辺は確かに崩壊が激しいがかろうじて形状が解る。