財賀寺(ざいかじ)高野山真言宗・愛知県豊川市




財賀寺(ざいかじ)高野山真言宗・愛知県豊川市

財賀寺 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/財賀寺

愛知県豊川市 観音山の麓 財賀寺(ざいかじ)へ

聖武天皇の勅命により行基開祖と伝わる名刹です。

財賀寺の概要

神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩開闢。弘法大師中興。
最盛期には七堂伽藍を有し、山内外に数百の院坊を備えていました。
源頼朝が平家討伐を祈願、そのお礼として八間四面の本堂ならびに仁王門を再建、
寺領千三百石余を寄進されました。
応仁年間の兵火により、二十余坊を残すのみとなりました。
牧野古白が再建、以降、今川・徳川などの諸将の庇護をうけました。
特に徳川家康は、朱印百六十石余、山林三十六町余を与え、
当寺は十万石の大名と同じ格式を認められていました。
財賀寺H.P より

財賀寺文化財

重要文化財(国指定)

木造金剛力士立像(仁王像)

作風、技法などから平安時代後期、11世紀頃の作と推定される。
檜材の寄木造で、前後左右の4材を矧ぎ合わせて根幹部を形成し、
これに両腕などに別材を矧いでいる。
向かって右の阿形は高さ381 cm, 左の吽形は高さ375 cmで、
東大寺南大門の像、多禰寺山門の像に次ぐ大きさである。
1980年(昭和55年)6月6日、国の重要文化財に指定された。
阿形像は1982年から、吽形像は1983年から、それぞれ修理が行われた。

仁王門

前述の木造金剛力士像を安置する。
室町時代の建立と推定されている。
軒の形式から見て、当初楼門(2階建て門)として計画されたものの
2階部分が造られなかったものと思われる。
1990年(平成2年)3月19日、国の重要文化財に指定。
老朽化が激しくなったため、1996年(平成8年)10月1日から丸2年かけて
解体修理が行われた。
修理は1998年(平成10年)9月30日に終了し、
同年10月10日、修復完了を記念して横綱貴乃花の土俵入りが奉納された。
Wikipedia より


仁王門


金剛力士像 阿形


金剛力士像 吽形


財賀寺境内案内図

本坊エリアの中心伽藍、客殿。

その右手には庫裏がある


手水舎


文殊堂

客殿の左側には文殊堂。

弘法大師の修行像

弘法大師の後の石段の先には入母屋妻入りの不動堂

不動堂の外周は「四国霊場お砂踏み回路」となっています

山上伽藍へと続く参道

石段の左側には不動像が並んでいます


手水舎


本堂

財賀寺(ざいかじ)

創建の時期や事情は定かでないが、寺伝によれば、
聖武天皇の勅願により、神亀元年(724年)に行基が開いたとされ、
弘仁4年(813年)、空海が中興したという。
現存する金剛力士(仁王)像は平安時代後期、11世紀にさかのぼる作で、
この頃にはかなりの寺観が整っていたものと思われる。
平安時代末期には、没落した源氏の再興を期する源頼朝が、
当寺の本尊に厄除けの祈願をし、宿願が叶って征夷大将軍となった頼朝は、
建久3年に本堂を再建し、1300石余りの寺領を寄進してこれに報いたと伝える。
三重塔や七堂伽藍を備え、多くの参詣者を呼んで隆盛を極めていたが、
応仁の乱の際に、100余りあった院坊の大半が焼失。
山外に擁していた数百の末寺も離散した。
文明4年(1472年)、三河国宝飯郡周辺を治めていた牧野古白が現在地に再建。
明応4年(1495年)には、奥院が建立された。
以後、牧野氏をはじめ、今川氏や徳川氏の庇護を受けた。
徳川家康は朱印160石余り、山林36町余りを寄進、
これにより寺は10万石の格式に列した。
明治時代に入ると廃仏毀釈に遭ったが、寺そのものの廃絶は辛くも免れた。
創立当初は観音山の頂上にあったが、頼朝が再建した際に今の地に移された。
文化8年(1811年)から文政6年(1823年)まで12年かけて、現在の場所に建てられた。
Wikipedia より


鐘楼

境内右側には三十三観音堂

以前まで左側には大師堂が建っていたそうだが現在は無い

本堂裏の神社


観音山(400m)

本堂裏から30分ほど山道を登ると観音山(400m)山頂

広く開けた山頂で山名は財賀寺 観音堂があったことに由来する。


御朱印

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