龍潭寺(りょうたんじ)・滋賀県彦根市




龍潭寺(りょうたんじ)・滋賀県彦根市

龍潭寺 (彦根市) – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/龍潭寺_(彦根市)

彦根にある龍潭寺へ

1600年に井伊直政が佐和山城主となった際に、

井伊家の発祥地である静岡県浜松市 井伊谷の龍潭寺を分寺し、

龍潭寺の五世・昊天禅師を招いて建立された井伊家の菩提寺でもあります。

また井伊家以前「佐和山城主」石田三成ゆかりの品々も多く

思慕が厚い地域です。

参道脇に建つ石田三成の銅像

(撮り忘れ 画像をお借りしました)

龍潭寺垣と呼ばれる竹垣が続く参道

寺内に禅宗の大学寮があり、その中に園頭科(えんずか)がありました。

これが日本の造園専門学の発祥とされ、

この寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の庭園を手がけたそうです。


山門

龍潭寺の山門横にある壁の内部には『瓦』が埋め込まれており、

敵から鉄砲で撃ち込まれても貫通しない造りになっています。

関ヶ原の戦い後、入城した井伊家の菩提寺の役割とは別に

住居や戦いに備えた造りも兼ね備えています。


大洞観音堂

大洞観音堂 裏からは現在 龍潭寺が所有する佐和山城跡への登山口があり

ハイキングコースとして整備されています。

また寺院裏 墓地には直弼の母の墓や、直弼の側室・里和の文塚など

多くの史跡も残っています。


方丈

方丈内部の見学時間は朝9時~16時(¥400-)

「方丈南庭」と「書院東庭」も合わせて拝見できます。

龍潭寺(りょうたんじ)

井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、
奈良時代行基(ぎょうき)によって遠江(とおとおみ)国
(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が
佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。
潭龍寺垣と呼ばれる竹垣が続く参道を抜けると、緑の木々をバックに
江戸時代中・後期に建立された禅寺らしいわびたたたずまいの山門や仏殿が見えてきます。
江戸時代初期に建立された方丈(ほうじょう)は、彦根にある数少ない方丈建築の1つです。
方丈襖絵前104面は、蕉門十哲(じゅってつ)の1人
森川許六(もりかわきょりょく)によって描かれたもので、
東庭とともに市指定の文化財になっています。寺院裏山の墓地には、
彦根御前とうたわれた井伊直弼(なおすけ)の母の墓や、
直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っています。
また、藍渓和尚伝来の七福神も拝観できます。
毎年4月1、2日にだるま祭りが行われます。

方丈南庭 枯山水庭園は「ふだらくの庭」と呼ばれています。

白砂と48個の石を配置して観音菩薩の浄土

補陀落山(ふだらくさん)を表現しています。

龍潭寺庭園

龍潭寺に禅宗の大学寮があり、その中に園頭科(えんずか)がありました。
これが造園専門学校の始まりとされています。
学僧が実習として作った庭などが現在も残り、庭の寺ともいわれています。
広い庭園は、佐和(さわ)山を借景に作られています。
また、井伊直弼(なおすけ)や小堀遠州が茶の湯を楽しんだ
飄々庵(ひょうひょうあん)などの茶室は、佐和山城の城門を利用したといわれ、
庭園とともに静寂に包まれ落着いた雰囲気になっています。
書院東庭は「蓬莱(ほうらい)池泉庭」と呼ばれ、
山を背景に大きな池が横たわる池泉鑑賞式庭園です。
書院北庭は「露地庭(ろじてい)」と呼ばれ、その上に上段庭があります。
また、書院東庭とともに良く知られた方丈南庭は、「ふだらくの庭」と呼ばれ、
白砂に48個の石を配した石庭。また、庭園の後丘上には、
夢窓疎石(むそうそせき)や諸禅師(しょぜんし)、
小堀遠州の供養塔や造園史の先賢をまつる庭聖殿があり、見る庭だけでなく、
考える庭、思う庭、さらに拝む庭などいろいろな庭があるといわれます。

また、彦根 龍潭寺は「だるま寺」とも呼ばれており

毎年4月に大小約三千個の福達磨を祀り、

開運を祈願する恒例行事『だるままつり』が開催されています。

龍潭寺の方丈にある襖絵は

江戸時代の俳人である「蕉門十哲」のひとりである森川許六 作とされており

彦根市の指定文化財でもあります。

落ち着く書院内

作った人が同じためか雰囲気も似ています

池泉式庭園の書院東庭の「蓬莱池泉庭(ほうらいいけせんてい)」は、

開山時の和尚・昊天と小堀遠州による合作

佐和山城にて使用されていた陣鐘「龍潭晩鐘」

昊天禅師が、彦根藩の2代藩主・井伊直孝から拝領したと伝わります。


御朱印

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