内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)・奈良県天理市杣之内町
天理市観光協会 HP
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石上神宮から山の辺の道を桜井・柳本方面へ約15分(800m)歩く
と内山永久寺跡に着きます。
この地には、かつて五町(500m)四方の広大な境内を誇っていた内山永久寺がありました。
この内山永久寺は、総院号を金剛乗院といい、鳥羽天皇の勅願により創立されました。
その時の年号(永久年間・西暦1113年~1118年)をとって
永久寺と呼ばれるようになりました。
内山永久寺
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は奈良県天理市杣之内町にかつて存在した寺院である。
興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、
廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。
寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。
内山永久寺跡
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は天理市杣之内町にかつて存在した廃寺です。
平安時代後期の永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により
興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれます。
しかし、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、
いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。
内山永久寺は院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、
阿弥陀如来を安置していたとされます。
創建時の年号によって永久寺と称し、その地が五鈷杵(ごこしょ)の形をして
内に一つの山があったので内山と号したといわれています。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、
延元元(1336)年には後醍醐天皇も吉野に行幸する際に
当寺に立ち寄っています。
室町時代には「大乗院寺社雑事記」にしばしば金剛乗院または
内山永久寺のことが記載されています。
寺領は最盛期には971石に達し、
境内は五町四方の広大な地域をしめたといわれます。
江戸時代末期まで40有余坊の伽藍があり、
上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳を敷き、
参詣者が常に絶えなかったといいます。
元治元(1864)年には勤王派の絵師冷泉為恭(れいぜいためちか)も
一時この寺に身を寄せた記録が残っています。
明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、
明治9(1877)年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から
瓦一枚に至るまでとりのぞかれました。
現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。
貴重な仏像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。