白山比咩神社 奥宮・奥宮祈祷殿・白山 御前峰(2702m)頂上
養老2年(718年)創建されたと伝わる白山比咩神社 奥宮は、
白山の御前峰(2702m)山頂に鎮座
祈祷殿は、山頂への拠点である室堂にあります。
麓の白山比咩神社は奥宮に対して「下白山」「白山本宮」と呼ばれています。
別当出合 登拝道
白山の別当出合からの登拝道には
修験に多く用いられる両部鳥居が建つ
白山 室堂
奥宮祈祷殿
白山室堂に建つ「奥宮祈祷殿」
白山信仰
富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つ「白山」。
雪を頂き、光を浴びて輝く姿に、
古来より人々は白山を「白き神々の座」と信じ、崇めてきました。
また、農耕に不可欠な水を供給する山の神としてだけではなく、
日本海を航行する船からも、航海の指標となる海の神として崇められていました。
北陸は、『日本書紀』の時代には「越の国」と呼ばれており、
白山はそこにそびえる白き山という意味を込めて、
古くは「越のしらやま」と呼ばれていました。
古来より白は神聖な色であったことから、平安時代には
「越のしらやま」は都人にとって憧憬の山となり、
当代一流の歌人たちの歌にも白山の名を見ることができます。思ひやる 越の白山 知らねども ひと夜も夢に 越えぬ夜ぞなき
紀貫之『古今和歌集』消えはつる 時しなければ 越路なる 白山の名は 雪にぞありける
凡河内躬恒『古今和歌集』日本では、もともと「山」に対して二つの信仰が存在してきました。
一つは遠くから眺めて神秘を感じ、山の神に感謝を捧げる「遥拝(ようはい)」で、
北陸道筋には、白山を眺めるための「遥拝所(ようはいじょ)」が設けられていました。
もう一つは、山中に分け入って厳しい修行を積み、
宗教的境地を目指す「修験」で、白山には全国から修験者(山伏)が集まりました。
どちらの信仰においても、白山ほど霊峰という冠が似合う山はなく、
神々しいまでの美しさは多くの人を魅了し続けています。
白山信仰の始まり
養老元年(717)、越前(福井県)の僧「泰澄(たいちょう)」が初めて白山に登拝し、
翌年山頂に奥宮を祀りました。
以来、神々しい神の山は人々の憧れとなり、
白山信仰は急速に全国に広まっていきました。
白山登拝が盛んになると、加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)には、
その拠点となる馬場(ばんば)が設けられ、多くの人々で賑いました。
白山比咩神社は、加賀馬場の中心として栄え、
比叡山延暦寺の末寺として多くの衆徒(しゅうと)を擁し、
北陸道全域に勢力をおよぼしました。
■ 白山信仰
白山は日本海随一の分水嶺で、手取川と九頭竜川は日本海へ
長良川は太平洋水系として伊勢湾じへ流れ込んでいます。
白山修験は熊野修験に次いで日本の修験界を支配してきました。
日本の歴史の表には武士の争覇がありましたが、その裏には山伏の争覇があり
双方が絡み合いとても複雑な動きをしていました。
南北朝以降になると、熊野修験を追い払い、日本全国に白山神社を配していきます
熊野神社は統計を取り分布状況が調べられているそうですが、
白山神社はそれができていません。
それは白山の三馬場(ばんば)が非常に仲が悪かったからだそうです。
三馬場とは白山をとりまく各三つの国の禅定道の起点の場所で
乗ってきた馬を留め置いたことから名付けられたそうです。
それぞれ
「越前馬場(平泉寺白山神社)」
「加賀馬場(白山比咩神社)」
「美濃馬場(長滝白山神社)」
の三馬場があります。
■ 白山比咩神社 奥宮(御前峰 山頂)
白山比咩神社 奥宮
「白山比咩神社 奥宮」には白山比咩大神と十一面観音を祀る
白山神社と白山比咩神社
石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山は、
古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきました。
ふもとに暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって、
白山は聖域であり、生活に不可欠な“命の水”を供給してくれる神々の座でした。
やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれました。
加賀(石川県)の登拝の拠点として御鎮座二千百年を越える当社は、
霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮です。
御前峰(2702m)山頂
■ 大汝神社(大汝峰 山頂)
大汝神社
大己貴神と阿弥陀如来を祀る「大汝神社」
残る一つは別山に小白山別山大行事を祀る「別山神社」はあり
御前峰の奥宮と合わせ、三つ巡るのが完全な形の白山禅定だといわれています。
五輪塔
大汝峰(2684m)山頂
加賀禅定道 手水舎鉢