尾張戸神社(おわりべじんじゃ)志段味古墳群・東谷山(198m)愛知県名古屋市守山区 瀬戸市




尾張戸神社(おわりべじんじゃ)志段味古墳群・東谷山(198m)愛知県名古屋市守山区 瀬戸市

https://ja.wikipedia.org/wiki/尾張戸神社

愛知県で最も古墳が集中して残っているのが、

名古屋市の北東端にある守山区上志段味。

岐阜県から愛知県へと流れる庄内川が山地を抜け、

濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。

上志段味にある古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ、

国の史跡に指定されています。

志段味古墳群は尾張戸神社が鎮座する市内最高峰の東谷山の山頂から

山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘上に渡り分布していますが、

今回は東谷山に残るものを見てきました。

また、山頂に鎮座する尾張戸神社(おわりべじんじゃ)

古代豪族 尾張氏と深い関係を持つ古社で

別称として「熱田の奥の院」や「東谷明神」「当国明神」とも呼ばれています。

東谷山27号墳

東谷山27号墳

右にある石組みは東谷山27号墳の埋葬施設である
横穴石室で、もとは墳丘で覆われていました。
東谷山の山裾から段丘面を中心に、横穴式石室をもつ古墳が
約50基築かれました。

南社古墳

志段味古墳群 史跡 南社古墳

志段味古墳群 史跡 南社古墳(みなみやしろこふん)

東谷山山頂から南の鞍部を越えた高所に位置する古墳である。
発掘調査の結果、直径約30メートルの二段築成の円墳であり、
山麓から見えやすい墳丘の上段には庄内川沿いの河岸段丘で採集した
円礫(えんれき)を、下段には東谷山中の角礫(かくれき)を葺くという
珍しい方法をとっていることがわかった。
出土した円筒は、中社古墳と同じ型式の三角形の孔をもつことから
東海地方で最も古い埴輪とされ、4世紀中頃に造られた古墳であると考えられる。
平成26年10月、「志段味古墳群」を形成する一つとして、国の史跡に指定された。

【学習用-しだみこちゃん標札-】
南社古墳(円墳・えんふん)
東谷山の麓から見上げたときに目立つ、上のほうの斜面には、
わざわざ山の麓から持ってきた円い石を、
下のほうの斜面には山の上で取れる角ばった石を積み上げているよ。

円墳の上には社(やしろ)が建ちます

国指定史跡 志段味古墳群 南社古墳

志段味古墳群は、濃尾平野の東端に位置し、
4世紀前半から7世紀末(古墳時代前期から終末期)に造られた
総数約70基の古墳から構成されます。
南社古墳は4世紀中頃(古墳時代前期後半)に築かれた径約30mの円墳です。
東谷山の南側の峰の頂部に立地します。
古墳は2段に築かれ、1段目斜面に東谷山で取られた角礫、
2段目斜面に東谷山麓の段丘で取られた円礫の葺石が積み上げられています。
麓から古墳を見上げた時に目立つ2段目の斜面を、
わざわざ麓から運んだ石で飾っていることは注目されます。
本古墳の埴輪は中社古墳のものと同時に制作されたもので、
東海地方では最古級の埴輪です。
中社古墳に葬られた庄内川流域の首長を支えた有力者の墓と考えられます。

中社古墳

志段味古墳群 史跡 中社古墳

国指定史跡 志段味古墳群 中社古墳

志段味古墳群は、濃尾平野の東端に位置し、
4世紀前半から7世紀末(古墳時代前期から終末期)に造られた
総数約70基の古墳から構成されます。
中社古墳は4世紀中頃(古墳時代前期後半)に築かれた
長さ63.5mの前方後円墳です。
東谷山の山頂から南にのびる尾根上に立地します。
後円部は3段、前方部は2段に築かれ、斜面には葺石が積み上げられています。
墳丘各所には埴輪が並べられていますが、後円部の北側では、
三角形の透孔をもつ円筒埴輪列が、元の状態をほぼ保ったまま埋もれていました。
本古墳の埴輪は東海地方最古級のもので、当時の政治の中心地であった大和から
直接的に伝わってきたものと推定されます。
本古墳は庄内川流域を治めた首長の墓と考えられます。

志段味古墳群 史跡 中社古墳(なかやしろこふん)

市内最高所の東谷山山項から南へ延びる尾根の、
山頂に祀られた尾張戸(おわりべ)神社境内からやや下った位置にあり、
典型的な丘尾切断型の全長約63.5メートルの前方後円墳である。
発掘調査の結果、人頭大の円礫(えんれき)が周囲に配置され、
三角形の孔をもつ円筒埴輪(えんとうはにわ)や
東日本では最古級の家形埴輪片が出土している。
墳形や埴輪の形から、尾張戸神社古墳に続く、
当時のヤマト王権の影響を受けた4世紀中頃築造の古墳であると考えられる。
平成26年10月、「志段味古墳群」を形成する一つとして、国の史跡に指定された。

【学習用-しだみこちゃん標札-】
中社古墳(なかやしろこふん 前方後円墳・ぜんぽうこうえんふん)
古墳の上に並べられた埴輪は、長い年月のあいだに
壊れてしまう場合が多いんだけど、この古墳では、
土砂崩れで埴輪が埋まったので、1600年前とほぼ同じ状態で見つかったよ。

尾張戸神社

尾張戸神社

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)は名古屋市と瀬戸市にまたがる、
標高198mの東谷山(とうごくさん)山頂の文化庁史跡東谷山古墳に鎮座します。
「延喜式」に山田郡尾張戸神社とあり、成務五年(西暦135年)、
宮簀媛命(みやすひめのみこと)の勧請と伝えられています。
千年以上前の事になります。
また、延長5年(西暦927年)に選進された「延喜式神祇巻」
に公式の記録が載っております。
つまり、尾張戸神社は延喜式内神社で近隣でも稀な古社であります。
また、約800年前文治二年(西暦1186年)の「尾張国内神名帖」によれば、
従3位の神階に列せられた大社でありまして、
広く衆人から東谷大明神と称えられ篤く崇敬されました。

御祭神(五柱)

御勧請は熱田神宮ご創建によってご功績の高い
尾張国造宮簀媛命(おわりくにのみやつこみやすひめのみこと)で、
祭神建稲種命(たけいなだねのみこと)の御妹に当たられ、
日本武尊命(やまとたけるのみこと)のお妃となられました。
祭神は三神でありまして記紀の伝承にも明らかな尾張氏の祖神であり、
尾張戸神社の由緒は確かなものであります。
この地方が尾張氏の本貫の地とせられ。
世俗で「東谷山は熱田の奥の院」と言い伝えられてきました。

当社では三柱のご神徳に因り
【厄除開運】【交通安全】【商売繁盛】【家内安全】の霊験あらたかである。

◎天火明命(あまのほのあかりのみこと)
天火明命は素戔嗚尊(すさのをのみこと)の五男に当たられ、
天照国照彦天火明にぎ速日命とも申し上げ、
その御名によって命が幾多のご神徳を兼ね具えられたことが拝察されます。

命は天磐船で高天原からお降りになりましたが、
その時天祖から十種の神宝とその神秘な霊力による
医療・禁厭の法を授けられました。

そのご神徳によって、当社は古来夏季の流行病、
子供の脱腸、その他疫病除けに霊験あらたかな神社として
人々の信仰を集めてきました。

◎天香語山命(あまのかぐやまのみこと)
天香語山命は天火明命の御長子に当たられます。

命は大和国高尾張の村をお立ちになって
東谷山対岸の高座山にお降りになりましたが、
しばしば東谷山との間を往来され、やがて当国ご開拓の神意によって
東谷山にお鎮まりになりました。ご登山に当たって、
麓の庄内川をお渡りになる折に、常に1頭の白鹿が現れて、
命をお乗せしてお渡ししました。
現在その伝承地に架けられた橋を「鹿乗橋」、
橋下の淵を「鹿乗ヶ淵」と称しています。

命の神意によって開拓されたという「尾張の国」の語源は、
奇しくも命の神意のままに「新しく墾り開かれた土地」の意であり、
尾張氏の祖神として、国土開発、文化向上の神であります。

◎建稲種命(たけいなだねのみこと)
建稲種命は尾張国造乎止与命の御子で、
天火明命から十二世のお孫に当たられます。

神名の「建」は日本武尊の御東征に従われておたてになったご勲功を称え、
「稲種」は文字通り農業(現在は産業全般)をお勧めになった
ご神徳称える御名と拝し、産業振興の守護神として篤く崇敬されてきました。

◎天道日女命

◎乎止與命

中社・南社

中社
◎菊理媛命

南社
◎伊邪那岐命 ◎伊邪那美命

歴史・沿革

中世は乱世が続き、神社の多くは重なる火災や盗難のために
荒廃の一途辿りました。
当社もその例に漏れず僅かに神社の面影を留めるほどの小社になりました。
その間物情騒然とした時勢に関わらず当社の尊貴な草創に注目した
斬波氏(足利氏の流れを汲み、義重の時代に尾張守護となる)が
荒廃した社殿を新しく御造営致しました。

また、近世には尾張藩祖徳川義直公、
並びに第二代藩主徳川光友公が当社を国号を称する尊貴な神社として、
更には金城の鬼門の守護神として崇敬せられ、
以後はその伝統によって藩費を持って社殿の修復が行われてきました。

太平洋戦争以後、名古屋市志段味地区、
瀬戸市水野地区の氏子が隔年で当番に当たり
尾張戸神社を守ってきました。       H.Pより


社務所

尾張戸神社古墳

志段味古墳群 史跡 尾張戸神社古墳

国指定史跡 志段味古墳群 尾張戸神社古墳

志段味古墳群は、濃尾平野の東端に位置し、
4世紀前半から7世紀末(古墳時代前期から終末期)に造られた
総数約70基の古墳から構成されます。
尾張戸神社古墳は4世紀前半(古墳時代前期中頃)に築かれた
径約27.5mの円墳です。
名古屋市で最も高い東谷山(標高198.3m)の山頂に立地します。
墳丘上には、古代豪族尾張氏の祖先神を祀る尾張戸神社の本殿が位置します。
2段に築かれていたと考えられますが、2段目の墳丘は大きく削られています。
墳丘の斜面に積み上げられた角礫の葺石の上には石英が撒かれていました。
多くの石英を用いて古墳を飾る特徴は山麓の前方後円墳・白鳥塚古墳と共通し、
白鳥塚古墳に葬られた庄内川流域の首長を支えた有力者の墓と考えられます。

尾張戸神社・尾張戸神社古墳 (おわりべじんじゃ)

「延喜式(えんぎしき)」に山田郡尾張戸神社とあり、
成務(せいむ)5年、宮簀媛命(みやずひめのみこと)の勧請と伝えられ、
古代豪族・尾張氏と深い関係をもつ古社である。
天火明命(あめのほあかりのみこと)ほか二神をまつり、
疫病除けの神として知られる。
社殿下の高まりが尾張戸神社古墳である。
発掘調査の結果、直径約27.5メートルの二段築成の円墳であることがわかった。
斜面に大ぶりな山石が葺(ふ)かれ、一部に白石(石英)が混ざること、
埴輪がみられないことなどが、山裾の白鳥塚古墳と共通することから、
4世紀前半築造の古墳と考えられる。
平成26年10月、「志段味古墳群」を形成する一つとして、国の史跡に指定された。

【学習用-しだみこちゃん標札-】
尾張戸神社古墳(おわりべじんんじゃこふん 円墳・えんふん)
目立つように東谷山の頂上につくられたんだ。
古墳の斜面には角ばった石をたくさん積み上げ、
その上に白く輝く石(石英)を撒いて古墳を飾っていたよ。

東谷山と志段味古墳群

名古屋市最高峰の東谷山がある守山区上志段味には、
総数約70基を数える志段味古墳群があります。
東谷山には、4世紀前半に山頂に尾張戸神社古墳(円墳)が、
4世紀中頃に、東海地方で最も古い埴輪をもつ中社古墳(前方後円墳)と
南社古墳(円墳)が造られました。
6世紀後半は、横穴式石室を埋葬施設とする小型の古墳が数多く築かれました。

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