筏問屋 田代家・浜松市天竜区二俣町鹿島
静岡県天竜区二俣にある筏問屋 田代家 は江戸時代に、
北鹿嶋村の名主を務めると共に天竜川筏問屋を営んだ旧家です。
徳川家康の遠州経略に協力した功により天竜川筏下しの特権を得ました。
2015年には国の登録有形文化財に登録されています。
筏問屋 田代家
田代家は鹿島五カ村(北鹿島村、西鹿島村、瀬崎村、佐崎野村、川口村)の草分けで、江戸時代には北鹿島村の名主と渡船場船越頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です。
また、幕府が天龍川を上下する舟や筏の貨物に10分の1の課税を課した役所(鹿島拾分一番所)の役人や請負人になったこともあり、現在でも多くの古文書が残っています。
家伝によると、同家の先祖は、椎ヶ脇大明神(椎ヶ脇神社)の神主田代冠者助綱なる人物といい、後代が絶えたので、室町時代末の永正年間頃(1504年~1521年)、当時二俣城主だった松井信薫の家臣大角九郎左衛門(紀州熊野の出)の子が跡を継いで以後「大角」を称するようになったとも云われています。
天正8年(1580年)2代目九郎左衛門の子の孫丞(まごのじょう)(孫尉)の時、徳川家康の遠州経略に協力したという功績により、天龍川の筏川下げと諸役免除の特権を与えられたことを機に天龍川の筏問屋経営が始まりました。
江戸中期以降は、当主は代々嘉平治(次)を襲名するようになり、10代の嘉平治は学問に優れ、初代の二俣町長(明治22年)に選ばれ、11代の田代英作は二代二俣町長に就任するなど地元の盟主としても活躍しました。母屋は安政6年(1859年)の再建で、武家の家を思わせる冠木門や庭園・式台を備えるなど田代家の栄えた往時を偲ぶことが出来ます。
冠木門
冠木を渡した、屋根のない門で番所としての意味合いから置かれた。
筏問屋 田代家
筏問屋 田代家は鹿島五ヶ村(北鹿島村・西鹿島村・瀬崎村・佐崎野村・川口村)の草分けで、江戸時代には北鹿島村の名主と、渡船場船超頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です。また、鹿島拾分一番所(幕府が天竜川を上下する船、筏の貨物に10分の1の課税をした役所)の役人や請負人になったりしたこともあり、現在まで多くの古文書類を持ち伝えました。 天正8年(1580)2代目九郎左衛門の子の、孫丞(孫尉)の時、徳川家康の遠州経略に協力して、天竜川の筏川下げと諸役免除の特権が与えられました。 明治維新期に嘉平次を名乗った人物は、国学や俳諧、書道をたしなみ、歴史にも詳しく、初代二俣町長にも選ばれました。 主屋は安政6年(1859)に建築されたものです。 浜松市
田代家の冠木門
筏問屋 田代家は天竜川を上下する舟筏とその積荷に十分の一の課税をした。 幕府の「拾分の一番所」の役人を請負人となったことも」あり、名主としての住居と共に番所の意味合いからか冠木門がおかれている。
筏問屋 田代家
国登録有形文化財 旧田代家住宅主屋・土蔵
屋敷の広さは2030平方メートル(614坪)で、鳥羽山を背に主屋、納屋、土蔵、水屋等で形成されている。 現在の主屋は江戸時代の1859年(安政6年)の再建であるが、1769年(明和6年)に家屋築造の記録があり、遡って1698年(元禄11年)の北鹿島村絵図に既に現在地に描かれていることから、江戸時代前期には、この場所に屋敷が築かれていたことが分かる。 間口11間、奥行6間の2階建て瓦葺の民家であるが、虫籠窓や出桁造りに筏問屋としての町家風の特徴がみられます。 日常の主要な出入口の大戸口が東寄りにあるが、南側に式台を構え、奥の間、床の間があり襖、障子で仕切られる書院造りとなるなど、庄屋としての格式の構えがみられます。 二階の北側は、数寄屋風となっていて興味深い。建築材は檜、杉、桜、栗、松、欅等の優良材が使用されていて、欄間の彫刻などと共に往時の盛況が偲ばれる。 庭園は、池回遊式で、庭木には椿、ウスギモクセイ、サザンカ。ナギ、サルスベリ等があり、景石、石組により、古庭園としての趣が深い。 屋敷は江戸時代末期から明治時代の自然と共生した田代家の人々の風情が残され、天竜地域の歴史、文化を語る貴重な文化財となっている。 浜松市
田代家住宅(筏問屋 田代家)
浜松市天竜区二俣町鹿島489
TEL:053-925-7006
開館時間:午前10時~午後4時
開館日:土・日曜日・祝日(12月28日~1月4日を除く)※12~2月は日曜日・祝日のみ
入館料:無料
田代家の中庭
天竜川の筏について
筏は南信州や北遠州の山林資源(杉、檜、松、桜、竹など)を並べ繋ぎ合わせて、船のように藤蔓で組んだもので、筏師が乗って天竜川を下りました。筏は前後二艘からなり、鹿島を経て遠州灘河口の掛塚まで運ばれ、船積みされて江戸や全国に運搬されました。筏流しはトラック陸送とダムの完成により姿を消しました。
田代家のみかん
代々鹿島村の名主をつとめた田代家には寛永十一年(1644)の文書にみかんの木が記録されています。 上阿多古地倉沢には樹齢推定二百年の紀州みかんが現存していました。 樹周130㎝・樹高7m、調査を進めた有志は木の保護とともに接木をして苗木を育てたものを配布しました。 こうして遠州最古のみかんの苗木は歴史散策路休憩所の田代家にも植え成長を見守ってゆきます。
屋敷の裏からは二俣への鳥羽山城越えの古道が通っています。
古道より望む田代家
船頭宿
田代家の隣、鳥羽山洞門の前には「船頭宿」が残っています。
当時が偲ばれる風情のある建物です。
この建物は部屋10室、明治30年に建てられたそうです。
山で切った材木を運ぶために、天竜川の急流を下った筏師や船頭は、この宿に泊まり、
帰りは自宅まで歩いて帰りました。 浜松市地域遺産に認定されています。