明光寺(じん肺物故者慰霊碑)・静岡県浜松市天竜区佐久間町大井西渡




明光寺(じん肺物故者慰霊碑)・静岡県浜松市天竜区佐久間町大井西渡

静岡県浜松市天竜区佐久間町大井西渡に境内を構える曹洞宗の寺院「大鏡山 明光寺」です。

開山は慶長5年(1601)と伝えられています。

御本尊は釈迦牟尼仏

寺院近くには「明光寺峠」があり、「秋葉街道(塩の道)」の西渡~水窪間を

行き来する荷上げ所として大いに栄えました。

また境内には久根鉱山により被害を受けた「じん肺物故者慰霊碑」が建てられています。

明光寺峠 

明光寺峠 

この峠には米酒塩等の荷継場がありかつては文吉及び清次郎と二軒の茶屋があったという。また交通量は1日約50頭の荷付馬と約30台の荷車が水窪通ひをしたというが、荷車は長さ7巾2尺5寸と小さく山道用として工夫されており、1台に3俵程度運搬したようである。

塩の道は秋葉からの急峻な山道を人足や牛馬、荷車等で輸送していましたが、

江戸時代初期には天竜川の水運が開かれ、陸路と水路による運搬が盛んになりました。

しかし、水窪川との合流点から上流は川幅も狭く急流となり船での運航は困難なため、

西渡の船着場から明光寺峠の荷継所までは荷揚げをしていました。

西渡で陸上げされた塩や他の物質は、

「浜背負い」と呼ばれる女達によって八丁坂を明光寺峠の荷継所まで担ぎ上げられました。

峠からは男達によって一日約50頭馬と約30台の荷車によって水窪間を往復していたそうです。

境内の近くには八丁坂(終点)の道標と集落跡があり、

集落跡がある辺りが当時の荷継場跡だったそうです。

盛んな頃にはこの辺には20戸もの家が立ち並び、露天商が出るほどの賑わいだったそうです。

静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」西渡〜水窪までの区間を歩いて来ました。

明光寺 本堂

鐘楼

西渡は天竜川の川舟の港町で、

上りは掛塚・下りは飯田から舟が塩を始め、しいたけ・酒・味噌などの生活必需品を運び、

荷揚げされる集散地、また宿場町として大いに栄えました。

明治三十三年四月、古河鉱業の久根鉱業所が天竜川左岸に銅鉱石の採掘を始めたので、

一段と活況を呈しました。

久根鉱山隆盛の時には、西渡の路地には人が溢れるようであったといいます。

しかしこの鉱山も昭和四十五年に閉山。

その後、金属鉱山で働く者とって最も恐れた、

坑内粉塵を浴びた じん肺患者が多数出た公害事件も発生しました。

じん肺物故者慰霊碑

じん肺物故者慰霊碑

遠州じん肺訴訟は昭和五十三年十二月十一日損害賠償請求を提訴し 十年余りに及ぶ長期裁判の結果 平成元年二月十日 東京高裁において和解を成立させ すべての訴訟に勝利的和解を獲得した

又 遠州じん肺訴訟に加わらず 古河鉱業 日本鉱業 間組 飛島建設に勤務し じん肺で殉職された方と併せて 謹んで慰霊碑を建立する

久根鉱山では、鉱毒公害を避けるため古河鉱業が経営に乗り出して以来、鉱石の精錬までは行われなかったのですが、空中に浮遊する粉塵を吸い込むことにより、塵肺の発症を防ぐことまではできませんでした。

「遠州じん肺訴訟」は全国初の金属鉱山集団じん肺訴訟。裁判は昭和53年(1978)に開始され、平成元年(1989)2月10日に和解成立。10年を超す長い法廷闘争の末の勝利的和解を記念するため、原告団、弁護団、久根支部自治会の連名で建立された慰霊碑は、今も明光寺境内から久根の山を見下ろしています。

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