御嶽山(3067m) 登拝・長野県木曽郡木曽町 岐阜県下呂




御嶽山(3067m) 登拝・長野県木曽郡木曽町 岐阜県下呂

御嶽山 Wikipedia

御嶽山(おんたけさん)

標高 3067m 登山日 2019年7月28日
古来信仰を集める霊峰
所在地 長野県木曽郡木曽町 岐阜県下呂市

難易度 ★★    オススメ ★★★★ 登山口(ナビ検索) 黒沢口六号目駐車場
黒沢口六合目・中の湯(04:51)→日野小屋跡(05:06)→飯森小屋(八海山支店)(05:22)→黒沢口七合目・行場山荘(05:30)→黒沢口八合目・女人堂(06:13)石室山荘(07:02)→覚明堂休泊所(07:12)→二ノ池・頂上・黒沢口分岐(07:16)→黒沢十字路(07:20)→御嶽頂上避難シェルター(御嶽頂上山荘跡)(07:33)→御嶽山(07:35)→剣ヶ峰山荘(旧:旭館)(07:40)→黒沢十字路(07:47)→二ノ池山荘(07:53)→二の池ヒュッテ(07:58)→賽ノ河原(08:07)→白竜教会避難小屋(08:15)→三ノ池乗越分岐(08:17)→摩利支天乗越展望台(08:24)→摩利支天山(08:39)→摩利支天乗越展望台(08:58)→摩利支天乗越(09:01)→白竜教会避難小屋(09:07)→賽ノ河原(09:14)→二ノ池山荘(09:32)→二ノ池・頂上・黒沢口分岐(09:40)→覚明堂休泊所(09:44)→石室山荘(09:49)→黒沢口八合目・女人堂(10:11)→黒沢口七合目・行場山荘(10:40)→飯森小屋(八海山支店)(10:46)→日野小屋跡(10:56)→黒沢口六合目・中の湯(11:16)→ゴール地点(11:17) 所要時間 6時間28分 高低差 1239m 累積標高 1532m / 1530m 距離 12.6m
■御嶽山の登山口は現在、木曽側の王滝口、黒沢口、開田口の3つがあり、飛騨側では昔から小坂口が利用されていましたが、その後日和田口が新しく開かれました。
王滝口の登山口は最も高い標高地点(田の原、標高2,160 m)で、山頂の剣ヶ峰への最短ルートを車道で上がることができます。
登山口から王滝頂上までのコースは、つねに下方の景色が見渡すことのできる素晴らしい眺望です。なお、麓の王滝村からは一合目に、、を祀った御嶽神社里宮があり、そこが登拝口となっています。三合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっています。五合目には子授け神霊である十二権現、六合目には眼の神様の八海山大神があり、七合目の田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができます。
■木曽節で有名な「御嶽山」は、長野県と岐阜県にまたがる活火山です。日本百名山のひとつでもある御嶽山は、富士山・白山・立山とならんで古くから霊峰としても有名で山岳信仰が盛んな山です。一般登山者はもちろん、白装束の方達も全国から多く巡礼登拝に訪れます。御嶽山頂は黒沢口の御嶽神社奥社があり、大己貴尊(おおなむちのみこと)[大黒様]、少名彦尊(すくなひこなのみこと)[恵比寿様]が奉られています。日本一の山は富士、日本一の嶽(タケ)は御嶽(オンタケ)といわれ、各地にある御嶽は(ミタケ)と読み(オンタケ)と読むのは木曽の御嶽だけです。山麓ではその昔、王の御嶽(おうのみたけ)と尊称されていたものがいつの頃からか御嶽(おんたけ)と呼ばれるようになったと言われています。古代から大噴火を繰り返し、現在の岩肌は厳格で荒々しい姿ですが、もとは富士山のような台形の山で標高約4000m以上あったと推測されています。開田高原や三岳から御嶽を望むとよくわかるように、頂点は遥か上空、天高くそびえていたことが想像できます。
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日本百名山』(にほんひゃくめいざん)は、小説家、随筆家の深田久弥の著した山岳随筆。文筆家で登山家でもあった本人が、実際に登頂した日本の各地の山から自身が定めた基準で、100座を選び主題とした随筆集。

霊神碑(れいじんひ)

二合目付近から林立する霊神碑(れいじんひ)

中の湯駐車場

黒沢口コース(六号目 中の湯駐車場)

昨日台風のせいか20台程度

登山道は川状態

飯森小屋(八海山支店)

七合目 行場山荘

御嶽ロープウェイ山頂駅からすぐの所にある七合目 行場山荘

覚明社

江戸時代に覚明行者により黒沢口、 普寛行者によって王滝口が開かれ、

それまで厳しい制限のあった精進の簡素化がなされました。

それにより民間信仰へと結びつき現在の御嶽信仰を形作ってきたそうです

御嶽信仰と覚明霊神

原始的には、山そのものを崇拝することに始まり、その後山岳修験道と結ばれ、やがて木曽御嶽独自の信仰の発生を見るに至ったものと考えられるが、宝亀五年(774)国内に疫病が流行した際、光仁天皇の命により、当時の信濃守石川朝臣望足が、医薬の祖神である大己貴命、少彦名命の二神を御嶽山に祀り疫病祓祈願したものが始まりとされる。近世に入り大衆的な山岳登拝の気運が高まる中、天明二年(1782)尾張の覚明行者が、黒沢口から軽精進による登山の請願をし、登山道の改修をしながら登山を強行し、布教活動を行った結果、全国各地に講が結成され、急速に信仰が広まった。行者の没後、覚明霊神として信者達は、中興開山として崇拝している。この地に覚明社として御像を座し、奥社へ登拝する人々の道中安全並びに、この地を訪れる人々の諸願成就を祈願して御祀りしている。

霊神様御行場跡

八号目 女人堂

標高2470mにある「八号目 女人堂」

かつて女人禁制の名残が名前の由来、明治初めから続く歴史ある山小屋です

昨日の大雨の中沢山の宿泊者 講中の方が多いです

女人堂の歴史「女人禁制の歴史・女人堂」

由来

女人堂は、御嶽の山小屋の中で最も歴史が古く、明治初年から 山小屋として営業しています。それまでは非難小屋や修験者のおこもり堂として存在していました。八合目金剛童子より先は神の聖域とされ 女人は登山を許されず、頂上を目指した男性達の帰りを小屋で待っていました。登山が許されなかった女人達が参拝した御堂であることから 「女人堂」 と名づけられています。 一方、男性は八合目で金剛杖を洗い、山麓から履いてきたわらじを履き替え、心身を清めてから頂上を目指しました。かつては、小屋の前には、脱いだわらじの山があったという話です。また、修験者の金剛杖を洗った石の蹲(つくばい)が、現在も女人堂小屋前に置かれています。通りがかりの際は、杖やストックを洗い、清めることができます。 「女人禁制」とされたその後、明治10年頃から女性の登拝が自由になり (正確な記録はない)現在のような、登山客や信者さんのお宿・休憩所として発展しています。 女人堂H.Pより

霊神碑

「人は死ぬと霊魂を御嶽山に引きとってもらえる」という

江戸時代以降の御嶽山特有の信仰が生んだ霊魂を祀る霊神碑は

山頂まで続き、その数は二万基を超えるともいわれます

御嶽神社八合中社

頂上奥社の仮殿 兼 仮社務所として

翌年に建てられた中社

金剛童子の大岩(金剛堂)

ここが俗世と御神域とを隔てる境界

御嶽では八合目より上を特に神聖な域としていました。ここには金剛童子(こんごうどうじ)という神様が祀られています。御嶽の歴史書にも 「金剛童子は八分メ大石の上に座す」 と、記されています。この岩を「結界石」とし かつてこれより先は、女人禁制。ここを「女人頂上」としていました。

金剛童子の右の大岩は、天岩戸(アマノイワト)伝説の岩。大岩の上には、覚明行者の石碑が祀られています。

そしてこの辺りが森林限界

イワカガミ

ナナカマド

チシマギキョウ

雲海と女人堂

九合目「石室山荘」(2800m)

山荘内が登山道

覚明堂では御嶽講の方が読経中

覚明堂

剣ヶ峰とニノ池方面への分岐

御嶽頂上山荘跡

至る所に噴火の爪痕が残る

頂上 慰霊碑

新設された三基のシェルター

御嶽山 剣ヶ峰(3067m)山頂

一等三角点

復興が続く 御嶽神社 奥社

火山灰で濁った日本最高所の湖「二ノ池」

ニノ池山荘

新築のニノ池山荘

ニノ池ヒュッテ

賽ノ河原

雷鳥の声が聞こえるけど姿が見えない

御嶽山登山道案内図

摩利支天乗越

イワツメクサ

ツガザクラ

イワベンケイ

イワカガミ・オンダテ

ハクサンイチゲ・ミヤマダイコンソウ

摩利支天山(2859.2m)山頂

三等三角点

剣ヶ峰 分岐まで戻り下山

八合目へ、下山時には沢山の登山者

七合目、下の方はお天気

登山口近くの社

登山口

八合目 御嶽神社 中社 御朱印

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