下清内路諏訪神社(清内路の手作り花火)・長野県下伊那郡阿智村清内路下清内路




下清内路諏訪神社(清内路の手作り花火)・長野県下伊那郡阿智村清内路下清内路

清内路H.P

長野県下伊那郡阿智村清内路に鎮座する下清内路諏訪神社です。

清内路地区にある上諏訪神社と下諏訪神社では

300年ほど前から煙火と呼ばれる火祭りが続けられています。

清内路は元々農作物が豊富な場所で、特に葉タバコは特産物として知られていました。

江戸時代、タバコと木櫛の行商で三河地方を訪れた村人が、

タバコと引き替えに火薬製造の秘伝を伝授してきたことが原点で、

1731年、下清内路の諏訪神社が再建された際にお祝いとして奉納され

それ以降、約300年間 一度も欠かすことなく秋の例祭として奉納され続けています。

下清内路諏訪神社宮前の家並

下清内路諏訪神社から診療所までの道とその両側には

明治時代以降の本棟造りの家が並び古い面影を残す。

一の鳥居

下清内路(しもせいないじ)

下清内路とは、かつては清内街道として飯田市山本から梨子野峠を越えて黒川を通り、清内路峠から南木曽町に向かう道があった。

中山道と中馬街道を結び、武田信玄時代から関所がおかれていた。

集落は黒川周辺に家が集まり、近くには耕作地が少ないため、山間を切り開き農作業用の山の家(出作り)で春から秋まで暮らしていた。

また、花火は地区の人たちが火薬から製造する手づくり花火として知られ、秋祭で奉納されている

二の鳥居

長野県無名民俗文化財 清内路の手づくり花火

享保年間以来二百五十年余の伝統をもち、その種類は、仕掛け花火に属し、花傘・巴車・棚火・網火・手筒・焼字・神前・大三国の他、それぞれ工夫を凝らした勇壮豪華な仕掛け花火が、秋季祭典に奉納される。

奉納時期

十月六日 上清内路 諏訪神社

十月八日 下清内路 諏訪神社 建神社

清内路村無形文化財指定 昭和四十八年十月十日

長野県無形民俗文化財指定 平成四年九月十日

阿智村教育委員会

300年近く続く「下清内路の手づくり花火」は、

火薬から作り上げるために「手づくり花火」としして知られ

長野県無名民俗文化財に指定されています。

下清内路では、10月に諏訪神社・建神社境内で囲い櫓(村有形文化財)に

数種類の仕掛け花火を取り付けて奉納する。

建神社 拝殿

建神社 本殿

境内社

下清内路の回り舞台

1792年(寛政4)に舞台(舞屋)を作り、昭和30年代まで紙芝居を演じていた。

今ある集会所は、1873年(明治6)に再建された回り舞台で、

その後、役場や公民館としても使われた

説教所

説教所の大桜

寛永6年(1853)芝居小屋が消失した時の灰を元肥にして植えたとされる枝垂れ桜

「説教所の大桜」(村指定天然記念物)とともに説教所前に大きい桜がいくつかある

清内路関所跡の碑

江戸時代の関所跡の碑

関所は飯田藩が管理し、幕末には水戸浪士も通った。

清内路関所の変遷

関所設置の時期については、「伊那郡郷村鑑」に来ノ地士原氏代々居住、永正年中(1504~20)原伝左衛門ハ下条家ヘ属ス。当御関所ハ弘治年中(1555~57)甲州武田晴信当国迄手ニ握リ、当所并浪合・和合・市瀬四ヶ所に関ヲ据給フ。当御関所此此ハ蘭ノ上ノ山(清内路峠)ニ建ツ。故ニ蘭ノ関ト云」とあり、和合と帯川と心川に分ち、小野川を加え六関とする説もある。創設された関所は武田晴信(信玄)より下条信氏が預かり、取締りは清内路在住の原伝左衛門が当たった。最初の関所は清内路峠(木曽峠)の近くにあり、徳川幕府の基礎がようやく確立した慶長6(1601)年に、上清内路と下清内路の中間、国道256号線からニワトリ渕を隔てた対岸バンヤ沢に一時移転した。しばらくして現在地市場に敷地120坪、建物約40坪の関所が設置された。清内路関所は「諸国御関所改方写」によると、一、武具・女・前髪これ有る者・坊主・手負い右品々ハ領主或ハ御代官より先達で断証文これを取り、領主・役人ハ書替証文を以て相通し候。一、夜中一切相通さず候」とあり、明六つ(午前6時)に開門、暮六つ(午後6時)に門は閉鎖され、夜の通行は禁止となっていた。

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