法蓮寺 大日堂 及び諸堂・神奈川県秦野市蓑毛




法蓮寺 大日堂 及び諸堂・神奈川県秦野市蓑毛

表丹沢の入り口に位置する穏やかな秦野の里(蓑毛)には、

大和政権の頃より丹沢・大山に対する信仰の中心として栄えてきました。

正式名称は「覚王山安明院国分寺」俗称「大日堂」はその蓑毛の里の中心地です。

この歴史ある大日堂周辺にはいくつもの諸堂が建ち、

中には貴重な仏像たちが安置されています

大日堂仁王門

ヤビツ峠へと向かう県道像に立つ仁王門

葵の紋があり江戸期は徳川家と密な関係にあったようです。

山門左右には仁王像があり、その昔は台座だけで

仁王像と同じ高さがあったといわれており、

現在の倍もあった仁王像を安置する仁王門もかなり大きかったようです。

木造仁王立像 阿形

仁王門

朱塗りの単層仁王門で、大日堂の正面に建ち、建立年代を示す資料はないが、正面中央のの水引虹築に渦を浮彫りにする手法などから十九世紀前半の建築と推定され、中には寄木造り・彫刻で彩色が施されている阿形・吽形の仁王立像が安置されている。両像は、安定感のある造形をし鎌倉期の慶派系のような力強い仁王以前の穏やかな面貌に藤原彫刻としては力強い表情が見られる。作風からみて平安時代(十二世紀も半ばごろ)と推測される。藤原期に逼る仁王像の作例としては、県下はもとより関東・東北においても数の少ない古像といえる。

木造仁王立像 案内板

大日堂

大日堂

縁起には天平十四年(742年)聖武天皇の勅願所として造営されたとある。本蔵は金剛界五智如来像で平安時代後期の作であるが、藤原風の穏やかさはあまりなく眉や目の線とも強さがみられ、特に顎の張った大日如来像の両相には厳しいものが感じられる。平安時代の五智如来像が五体揃っている例は全国的に見ても大変少なく非常に貴重な像といえる。

木造 大日如来像 神奈川指定重要文化財

木造 聖観音菩薩立像 秦野氏指定重要文化財

木造 阿閦・宝生・釈迦・阿弥陀如来立像 秦野氏指定重要文化財

742年開山の大日堂、聖観音菩薩像は秦野市指定重要文化財、

御本尊の大日如来像は神奈川県指定重要文化財に指定されています

1729年光西上人が大日堂修復

法蓮寺大日堂及び諸堂 案内板

法蓮寺大日堂及び諸堂

法蓮寺は丹沢山の登山口及び大山の参道入り口としての要所に位置し、金目川の沿った出合いの山岳修験信仰の霊場としてふさわしい場所にある。大日堂は別当寺院で臨済宗鎌倉建長寺の末寺で、開山は仏国応供廣清国師、本尊は仏頂尊(大日如来)である。

御嶽神社参道 鳥居

御嶽神社

蓑毛の御嶽神社の御祭神は、

倭健命(やまとたけるのみこと)・大日霎命(おおひるめのみこ)

宇伽之御魂命(うかのみたまのみこと)・天児屋根命(あめのこやのみこと)

不動堂

不動堂

縁起には7世紀の頃、朝鮮半島からの渡来人である秦氏がその守り本尊である不動明王像を祀ったのが始まりとされ、のちに五大尊(不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を祀ったものとされている。現在は江戸時代の作と推定される不動明王像が祀られている。

茶湯殿

秦野市指定重要文化財の宝蓮寺茶湯殿は地蔵堂とも呼ばれ、

御本尊の地蔵菩薩と木造十王像を安置しています

木造十王像 案内板

木造十王像 法蓮寺茶湯殿

茶湯殿には、本尊の地蔵菩薩と等身大の十王像・奪衣婆・倶生神・鬼卒及び人頭杖・鏡台など冥界の一具が一堂に安置されています。地蔵菩薩には正徳五年(1715年)、十王像

は享保六年(1721年)の墨書銘が残っており、十王像には江戸時代神田の大仏師左近の銘も記されています。神奈川県内でも十王像は多く残されていますが等身以上作例は希少です。作風はやや荒い彫刻が独特の迫力を生んでいます。近世期における十王信仰の記念的遺作として高い価値が認められています。 (秦野市教育委員会)

木食光西上人入寂の地

木食とは五穀(米・麦・あわ・ひえ・きび)

十穀(五穀+とうもろこし・蕎麦・大豆・小豆・黒豆)を絶ち

山菜や生の木の実しか口にしない厳しい戒律です

案内板

木食光西上人入寂の地

江戸時代中期享保年間(1716~1735)の頃、西日本一帯が飢饉におそわれ、そのために日本全体が危機に瀕したことがあった。その頃江戸麻布の出身で木食僧として修業していた光西上人は、時の宝蓮寺住職大蟲(だいちゅう)和尚の協力を得て、仏教の力により農民を苦しみから救済しようとした。光西上人は、武蔵・相模・甲斐・駿河・伊豆その他全国を行脚し、大般若経六百巻の願主となり浄財を集めた。そして今まで荒れていた大日堂及び仏像を修理し、また御堂の造営も行った。その後一通り事業の終わった光西上人は、事業の最後の段階として生きながら仏となった。地下に深さ約1・5メートルの石室を造りその中に入り、天井に大きな石で蓋をした。そして石室の中に坐り、経を唱えながら入寂した。「三百年後に掘ってみよ」との遺言により、昭和十年四月八日村人の手で発掘された。石室の中からは頭蓋骨及び脛骨が発見され、その他に鉦の脚三点・袈裟の環一点・小銭六枚と青銅の観音像一軀が発見された。光西上人の遺骨は埋め戻され、現在もここに眠っている」(秦野市教育委員会)

秦野の眠る貴い仏像たち

金目川とヤビツ峠・大山への参道

神奈川県の丹沢山系 大山(おおやま)へ日本三百名山 関東百名山の一座で、その整った山容で古くから山岳信仰の対象とされてきました。 大山の名は山頂に大山祇神を祀ったことからとされます。また別名を「雨降山」とも呼ばれ、山中には阿夫利神社が鎮座し雨乞いの神として農民からの信仰を集めました。

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