瀬尻 白山神社(小仏山)・静岡県浜松市天竜区龍山町瀬尻




瀬尻 白山神社(小仏山)・静岡県浜松市天竜区龍山町瀬尻

静岡県浜松市天竜区龍山町瀬尻にある

標高798mの「小仏山」の頂に瀬尻 白山神社が鎮座します。

創立は発見された棟札から安和元年(968)以前とされていますが、

詳細は腐朽して判読不明。御祭神は、「白山比咲神」。

口伝によれば、鬼石家の始祖が加賀の国 白山神社に参宮の上、

御鏡を御分身として持ち帰ったとも、

建武の世(1334~1338)後醍醐天皇の皇子が建立せられたとも伝えています。

瀬尻国有林の奥深く、杉・ヒノキに囲まれた高所にある立派な神社です。

国道152号の瀬尻地区から不動の滝方面へ、

さらに、西の新開方面へと向かう分岐から3kmほど進んだ先にあります

白山神社 由緒

白山神社縁起

神社名 白山神社

鎮座地 静岡県磐田郡龍山村瀬尻430番地

御祭神 伊弉冉尊 菊理姫神

例 祭 十一月三日

御神徳

伊弉冉神様は人の責め合うをやめ。お互いに許し合い労わりあって生きてゆく和を導かれる。菊理姫神様はお互いの言い分を聞き入れて和解をさせ調和をはかり、結び合いを深めさす。

由緒

その昔(安和元(968)年の棟札が発見されたが腐朽して詳細不明。口伝によれば鬼石家の始祖が加賀国白山神社に参宮の上、御鏡を御分神爾と拝受し、帰省して今の宮森に鎮座し、白山神社と奉称、祭祀を奉仕されたという。 又、伝えるところによれば、建武の世、御醍醐天皇の皇子由機良親王(一説には宗良親王の御子尹良親王)が犬居の城主天野景顕の居城に駐在された時、神社を建立せられ、太刀、鏡等を納め躍歌を作って祀られたという。

その後、関が原の役(1600年)に際し、奥山郷の代官片桐権右江門家は、本村の壮年者を募り鉄砲組を組織して率い、徳川の軍に従い出陣するに臨み、白山神社に詣で御社を焼き戦勝を祈念して曰く「我軍利を得て全隊恙なく帰ることを得ば、祠殿を旧に倍し再建せん」と、一隊は果たして恙なく帰ることができた。家正は数年後、慶長10(1605)年9月、祠殿を再建して誓いを果たしたという。 その後、慶安2(1649)年8月17日、幕府(3代将軍家光)は、高10石の朱印を下賜され、以後、代々朱印の下賜が続けられた

境内社

住吉神社(十筒男命)

事麻知神社(大己貴命)

合社(天王社)(素戔嗚命)

又 十一面正観音二体

不動尊 毘沙門天 大日如来 天白如来 薬師如来等の小社を合祀している。

小仏山

因みに小仏山とは、昔天竜川洪水の時、本村に漂着した小仏像をこの山に安置して以来この山の呼び名となった。

宮司 内山寿 撰文

白山神社 拝殿

白山神社の隣りには、山名の由来にもなった「小仏様」が祀られています。

事麻知神社

境内社として、白山神社の左側にあるのが「事麻知神社(ことまち)」

祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」

訪れた日は社殿の修復工事中でした。

社務所

「小佛山」 たつやま昔話

昔、大庭(おおにわ)に三室三太夫という人が住んでいました。

ある日、三太夫は、家の前にある「天狗の輪」であみを使って魚とりをしていました。ちょうどそのころは雨続きで、天竜川は水かさがふえていました。川の上流では川から水があふれ、田畑が水につかったり、家が流されたりするところがあるほどでした。川の水がましたせいでしょうか。その日は魚がおもしろいようにとれて、三太夫はとてもまんぞくしていました。日もくれてきて、そろそろあみをあげて家に帰ろうかと思ったその時、三太夫はぴくんとたしかな手ごたえを感じました。「よし。最後に大物がかかったぞ。」意気ごんであみをあげてみると、なんと、仏像があみの仲に入っているではありませんか。三太夫はびっくりしました。「どうしてあみの中に仏像が・・・・・・。」三太夫はおそろおそる仏像に近づき、あみから出しました。そして、「これはえらいことになった。ひょっとしたらばちが当たるかもしれない。」三太夫は、天竜川の中に仏像をもどした方がいいと考え、水の流れにその仏像を入れました。ところが、仏像は、川下の方へ流れようとせず、また三太夫のあみに入ってきたのです。

三太夫は気味悪く思い、あみから取り出した仏像をもう一度水の中に入れました。しかし、またあみの中に入ってきました。三太夫は、何度も何度も川下に流そうとしましたが、そのたびごとに三太夫のあみの中に帰ってきました。「これはよくよくのことだ。わしのうちにまつれということかもしれない。」そう思うと、三太夫は仏像を拾い上げ、あみをかたづけるのも早々に、仏像を大事にかかえて家に帰りました。家につくと仏像のどろをあらい落として、家の仏壇におさめ、大切にまつることにしました。きれいになった仏像をよくよく見ると、ひざの上に子供をだいためずらしい仏様でした。それから何日かたったある日のばんのことです。三太夫がぐっすりねむっていると、拾ってきた仏像がゆめまくらに立って、「水音が近い。天竜川がこわい。」ともうされました。「そうか。あの仏様は天竜川の水が増して流されたにちがいない。だから天竜川の水音をこわがっているんだ。」そう考えた三太夫は、さっそくうら山にほこらを作り、仏像をそこにうつしてまつることにしました。
(そこは今でも小仏屋敷と呼ばれています。 しかしその夜、仏像がまた三太夫のゆめまくらに立って「水音が近い、天竜川がこわい。」ともうされました。「はてさてこまったぞ。それではどこへ尾うつしもうしたらよいだろうか。」と考えこんでしまいました。そして、川音が聞こえないよいところはないかと、山の中をあちらことらとさがして歩き回りました。村人たちもいっしょにさがしてくれました。しばらくして、やっとほこらを作るのにちょうどよい場所が見つかりました。そこは人々から「天王森」と呼ばれているところで、山の中腹にあり、牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしてある場所でした。川からはずっとはなれているからここがよいと決めて、そこにほこらをうつし、仏像を大切におくことにしました。「これでよい。これでよい。」
と、三太夫も村人たちもすっかり安心しきっていました。ところがところが、仏像は、またまた三太夫のゆめまくらに立って、「たびたびほこらをうつしてもらってもうしわけないが、天王森でも時々水音が耳につく。天竜川がおそろしい。」と、悲しそうな声でおっしゃるではありませんか。仏様の声に目を覚ました三太夫は、またまたどうしたらよいのか分からなくなりました。結局、最後に決めたところが、村では一番高いところと言われている丸山のてっぺんでした。そこにすみきった大空と緑の山なみだけが目にうつり、小鳥の声と松風の音の他は物音一つ聞こえないしずかな場所でした。この丸山には、信仰あつい十一面観音と、加賀(今の石川県の一分)白山からまねいた白山妙理権現をまつる社がありました。

こうして三度ほこらをうつした仏様は、それ以来小佛様とよばれ、この山も小佛山とよばれるようになりました。子宝、安産の仏様として、広く信仰を集めて今日にいたっています。ここにまつられた小仏(原文のまま)様と一対の男の仏様は、佐久間町浦川の観音寺にあると伝えられています。

手水舎

御神木

  • このエントリーをはてなブックマークに追加