秋葉街道 塩の道・西渡〜水窪




秋葉街道 塩の道・西渡〜水窪

静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」

西渡〜水窪までの区間を歩いて来ました。

前回、最後に歩いた大井地区の岩井戸・大滝集落から、

秋葉街道(塩の道)は水窪川の右岸と左岸の二手に分かれます。

水窪川左岸に続く道は「相月道」と呼ばれ、

岩井戸や大滝から、平和〜仙戸〜福沢〜下日余〜上日余〜相月〜小相月〜向皆外を経て

芋堀で右岸と合流します。

こちらの道の方が歴史は古く、街道沿いには旧家も数多く残り、また各所には城も配され、

名だたる戦国武将も通った主要な街道でした。

今回は、江戸後期以降メインルートとなった西渡から、

瀬戸〜間庄〜立原〜横吹〜島〜切開〜松島〜芋堀へと続くルートを歩きました。

こちらは大正十二年頃に現在の国道152号が開通するまでの間、

主要道として利用されて来た道です。

江戸時代になると天竜川の水運ルートも確立され、

主要港があった西渡には上りは掛塚、下りは飯田から舟が往来したといいます。

しかし水窪川より先は舟で渡れないため、西渡から一旦荷揚げをし、

陸路で水窪方面まで運搬するこちらの右岸ルートが利用されるようになりました。

特にその後の、瀬戸・間庄・立原・横吹と続く天空の集落が素晴らしく、

水窪川を望む渓谷に張り付くように建てられた家や

茶畑の間を縫うように通る街道を歩いていると、

何だかタイムスリップでもしたかのような気分になってしまいました 笑

慣れ親しんだ町、水窪も改めて歩いてみると色々と発見があって新鮮でしたし、

また今回は本当に多くの住人の方とお話しさせて頂き、終始楽しい街道歩きとなりました。

参考文献

「塩の道ウォーキング(静岡新聞社)」

「秘境はるか 塩の道 秋葉街道(野中賢三 有賀 競)」

「古道案内 信仰の道 秋葉街道(白馬小谷研究社)」

山住神社 遥拝所

水窪の星の駅 碧 -AOI-よりスタート

国道152号を自転車で西渡(にしど)まで南下します。

庚申堂

横には馬頭観音碑 内部には青面金剛の石像が祀られています。

お堂には立派な「こて絵」(漆喰を用いて作られるレリーフ)が施されており、

横にその説明文がありました。

鏝絵(平出宇蔵)

大正から昭和の中頃まで活躍した腕のよい左官がいました。その名を「平出宇蔵」と言いました。水窪は勿論信州に数多くの鏝絵をのこしています。庚申堂の鏝絵も宇蔵さんの作品です。鏝絵の顔料は「石の粉」で雨風に晒され色褪せがしないため作品が生き生きしているのが特徴です。晩年の雅号を「遠水喜楽逸民」と名乗ってました。宇蔵さんの作品は東京駅にありますが今は見ることができません、左官仲間五人の雅号と共に昭和時代の後期まで東京駅副駅長室にありました。江戸時代の東海道から安芸宮島までの風景画でありますが、永い間の汚れで内装工事が施され現在は壁の中です。いつの日か壮大な鏝絵が現れるでしょうが、何十年後のことでしょう。

初代 万歳岩

さらに少し先に案内板がありました。

確かに、その昔水窪の町へと抜ける手前は岩が剥き出した荒々しい道だった記憶です。

初代 万歳岩

此処には旧水窪町と旧佐久間町の町境でありました。明治時代から大正・昭和時代初めごろまで警察署長や御料林のお役人が任期を終え転出のたびに町民こぞって万歳三唱でお見送りした岩がありました。その後、此処に民家が建ち道路拡張される度に二代・三代と町寄りに移動し太平洋戦争時代は多くの「出兵兵士」をお見送りしました。悲しい見送りは多くの町民の心に焼き付いていました。4代目の万歳岩は庚申堂付近にありました。昭和二十六年小学校の先生をお見送りしたのが最後でした。

前回終了した大滝まで軌道を繋ぎ、

大井橋よりスタート 少し手間、大井地区の大滝や岩井戸集落から、

秋葉街道(塩の道)は二手に分かれます。

江戸後期以降、メインルートとなった西渡とは別に、

「岩井戸〜平和〜仙戸〜福沢〜下日余〜上日余〜相月〜小相月〜向皆外〜芋堀」と

水窪川左岸に続く秋葉古道は「相月道」と呼ばれ、水窪川沿いの一番古い道でもあります。

西渡駅と書かれた立派な待合所があるバス停には 塩の道に関しての案内板。

八丁坂(塩の道・信州街道)

この地区は古くから天竜川の「港町」として塩をはじめ、酒・味噌・醤油等の生活物資が荷揚げされ、水運と陸運(信州街道「塩の道」)の結節点として重要な位置にあり、「宿場町」として栄えました。ここで荷揚げされた塩やその他の物資は、背負子(しょいこ)に荷棒(にんぼう)を杖代わりにした「浜背負い(はましょい)たち」により、急峻な塩の道「八丁坂」を妙光寺峠の荷継場まで運んでいました。  山香地区地域活性化対策委員会

横には石仏や石碑が安置されています。

西渡地区 山香集落へと向かう坂の手前には塩の道の碑と、佐久間ではお馴染みの昔話。

そば団子で山姥退治

むかし、福沢の里に、やまんばがすんでおったそうな。機織りや子守りをしてくれる反面、牛や馬や人間の生き血を吸うので退治してしまうことになった。やまんばがこの西渡へ遊びに来た時、好物のそば団子を出してやった。中にこっそり焼いた石が入れてあった。熱くて苦しみもがき始めた時、水の代わりに油をあげたので、やまんばはこらえきれず天竜川に身を投げたそうな。

川の港町 西渡の町並み

西渡は天竜川の川舟の港町で、

上りは掛塚・下りは飯田から舟が塩を始め、しいたけ・酒・味噌などの生活必需品を運び、

荷揚げされる集散地、また宿場町として大いに栄えました。

狭い路地には飲食店や雑貨屋、旅館等が軒を連ね、

芸奴さんもいたという程、大いに賑わっていたといいます。

西渡診療所

明治三十三年四月、古河鉱業の久根鉱業所が天竜川左岸に銅鉱石の採掘を始めたので、

一段と活況を呈しました。

久根鉱山隆盛の時には、ここ狭い路地に人が溢れるようであったといいます。

しかしこの鉱山も昭和四十五年に閉山。

その後、金属鉱山で働く者とって最も恐れた、

坑内粉塵を浴びた じん肺患者が多数出た公害事件も発生しました。

メインストリートから八丁坂方面へ

先程の佐久間昔話にもあった やまんばと三人の子 木彫り像があります。

西渡にはやまんばを退治した物語が語り継がれています。

しかし本当は3人の子を育てた母親で、南北朝時代 南朝方に属する貴族の娘であったため、

北朝方が妖怪と流布して退治したともいわれています。

南北朝時代からの主要道だった秋葉街道ならではのエピソードです。

秋葉燈(西渡道標)

木彫像から少し進んだ先、山香ふれあいセンターの横を塩の道が続きます。

その分岐にお社と道標(秋葉燈)が建っています。

正面「登り水窪信州道」 右面「下り秋葉山浜松道」

左面「遠州三河道」 裏面「へヤ醤油製造元 浜松市成子 鈴木幸作」 とあり、

西渡に塩問屋が関わっていたのが伺える遺構です。

前回も歩いた塩の道、 廃屋が点在します。

今回も現地の方数名とお話しさせて頂きました。

中央構造線 外帯 三波川変成帯の片岩の道

秋葉街道(塩の道)はこの先、中央構造線沿いを北上します。

この断層よって作られた地形は衛生写真で見ても明確な谷を形成します。

古代の人々にとっても歩き易い地形だったのでしょう。

塩の道の起点、相良近くの縄文遺跡(星の糞遺跡)からは

信州和田峠産の黒曜石が出土しました。

古代人もこの道を通り交易を行なっていたと考えられています。

塩の道 八丁坂

塩の道は秋葉からの急峻な山道を人足や牛馬、荷車等で輸送していましたが、

江戸時代初期には天竜川の水運が開かれ、陸路と水路による運搬が盛んになりました。

しかし、水窪川との合流点から上流は川幅も狭く急流となり船での運航は困難なため、

西渡の船着場から明光寺峠の荷継所までは荷揚げをしていました。

浜背負い

西渡で陸上げされた塩や他の物質は、

「浜背負い」と呼ばれる女達によって八丁坂を明光寺峠の荷継所まで担ぎ上げられました。

峠からは男達によって一日約50頭馬と約30台の荷車によって水窪間を往復していたそうです。

貴船神社

八丁坂の途中に鎮座する貴船神社

通常、祭神は淤加美神ですが、水波能売命を祀る。

共に、秋葉神社の祭神でもある火之迦具土を伊弉諾が斬り殺した際に生まれた神様です。

水運の町 西渡に水神がお祀りされているのに妙に納得です。

貴船神社

鎮座地 佐久間町大井二四六四番地

御祭神 水波能売命(みづはのめのみこと)

例祭日 九月第二日曜日

由緒

創立年代詳かではないが永年七年小川城主奥山兵部函定友創立西渡の産神なり。棟札に宝永元年霜月新造立当宮貴船大明神金水火報国風災応身とあり、火災風水難の神として舟人達の崇敬を集む。其の後貴船神社と称え、昭和六十一年八月昭和天皇御在位六十周年記念に拝殿修理社務所増築。平成三年十一月天皇御即位記念に末社の鞘土台の修理をなし今日に至る。

塩の道の碑(佐久間町)

庚申塔の横には西国三十三所巡礼碑

明光寺峠

明光寺峠

この峠には米酒塩等の荷継場がありかつては文吉及び清次郎と二軒の茶屋があったという。また交通量は1日約50頭の荷付馬と約30台の荷車が水窪通ひをしたというが、荷車は長さ7巾2尺5寸と小さく山道用として工夫されており、1台に3俵程度運搬したようである。

明光寺

今回は明光寺の境内を通って行きます。

この寺院にはじん肺物故者の慰霊碑があります。

境内から望む井戸口山(1026.7m)

じん肺物故者慰霊碑

じん肺物故者慰霊碑

遠州じん肺訴訟は昭和五十三年十二月十一日損害賠償請求を提訴し、十年余りに及ぶ長期裁判の結果、平成元年二月十日、東京高裁において和解を成立させ、すべての訴訟に勝利的和解を獲得しました。

明光寺峠の荷継場跡

塩の道は明光寺を回り込むように続いており、

八丁坂(終点)の道標と、集落跡がある辺りが当時の荷継場跡になります。

盛んな頃にはこの辺には20戸もの家が立ち並び、露天商が出るほどの賑わいだったそうです。

前回、愛宕山へ登った登山口を横目に、いよいよ瀬戸集落に向けて下って行きます。

少し下ると突然開けて、目の前に竜頭山(1352.1m)

真西からの展望は新鮮です。

水窪川左岸の和泉集落と

背後に大高遠山(1296.2m)へと至る尾根

馬頭観音像

江戸後期以降、この区間の運搬の主役は馬でした。

西渡〜水窪間を往復し、精魂尽きて斃れた馬を祀る馬頭観音像が

そこかしこに祀られています。

瀬戸集落へ

瀬戸に近づくと徐々に道が細くなり、やがて大人2人が並んで歩くのがやっとな道幅に。

当然、車では来ることが出来ない秘境な集落です。

青面金剛像(庚申塔)

祠の中には「ショケラ」 と呼ぶ上半身裸の女人像の頭髪をつかむ

珍しい青面金剛像が祀られています。

青面金剛

人間の体内には三尸(さんし)という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事を全て天帝に報告に行くという。 そのため、三尸が活動するとされる庚申の日の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習がありました。 青面金剛は、その庚申講の本尊として三尸を押さえる神とされています。 その姿は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、法具、棒、法輪、綱を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえるとあります。

素晴らしい天空の集落

瀬戸集落の神社(稲荷社)

内部には稲荷神社や石仏と共に

秋葉三尺坊大権現もお祀りされています。

水窪川と浅間山(540m) 手前に鮎釣集落

西渡から続く道

瀬戸集落の中心部を抜けると林道西渡線へ

平成2年(1990)にこの林道が開通し、ようやく車が通れるようになったそうです。

林道脇に塩の道の碑

山中あって当時の繁栄を偲ばせる赤煉瓦作りの立派な建物

庚申塔 石碑

馬頭観音の碑や石仏が4体

天保12年(1841)・明治6年(1873)と読めます。

法外な要求をする役人が乗る駕籠を突き落としたといわれる

「役人沢」と呼ばれる沢があります。

延命地蔵講

荷車の轍跡

生活物資を運んだ荷車が長年通ることで、岩を削り続け轍が残ったとされる場所。

間庄集落の手前に轍について説明した看板があります。

滝の沢滝(滝の坊)

間庄集落

急峻な地に家々や茶畑が広がる

間庄集落の林道上に旧道が残っています。

廃屋の軒先を通り、お社の所から降りてきました。

間庄集落のお社

立原集落

立原(たっぱら)集落へ

立派な蔵のあるお宅から望む井戸口山(1335.3m)

ここ立原集落から秋葉街道は、古道の「山道」と新道「荷車道」とに分かれ、

それぞれ立原〜横吹〜切開〜松島〜芋掘へと続いて行きます。

明治二十三年に開通した「荷車道」は林道の下を通り、

大正十二年頃に現在の国道が開通するまでの期間、主要道として活躍しました。

地元の方のお話では山道は現在断続的に残っているものの、

とても歩ける状態では無いとの事。

立原の集落入り口にも周辺の野仏や石碑が集められていいます。

雨風で侵食が激しくどれも読むことが出来ません。

今回は山道・荷車道と迷いつつ、結局どちらも見ながら林道を歩いて行く事にしました。

塩の道(山道)

横吹の勝木家文書「勝木家年々覚書」よると、

天保元年(1830)にようやく馬が通行できる道になったと書かれています。

「古道案内 信仰の道秋葉街道」より

青面金剛像

「秘境はるか塩の道 秋葉街道」では、馬頭観音と紹介されていた石仏です。

下に猿も掘られていることから、庚申碑だと思います。

出版より30年経過し、更に見分けがつかなくなっています。

立原集落には、参考にしたどの本にも掲載されている馬の顔のみが彫られた

珍しい馬頭観音像があります。

場所を詳しく聞いたのですが、見つける事が出来ませんでした。

大洞山(930.4m)から井戸口山(1335.3m)へと続く尾根

立原の馬宿みのや跡

こんな山奥にお城のような立派な石垣

大沢橋を過ぎ、林道の三叉路分岐を少し下った民家の横から再び古道が続く

畑や民家の跡が残る荒れた道。

街道に張り出した廃屋の軒先を通ります。

お話によると、この辺りにも荷車の轍跡が残っているそうです。

「ここから先は難路です」の案内板。

現在は道は無い、との情報を頂いていたので素直に下ります。

迂回路の島集落へ

下って直ぐ住民の方に「塩の道?」と声を掛けて頂き、

ここでも色々貴重なお話しを伺いました。

相月トンネルが開通し今では交通量も激減した、旧 国道152号を歩きます。

西渡発電所ダム

西渡の名がついているので不思議に思い調べると、

歩き始めた西渡地区にある水力発電所の取水を目的に造られダムなのだそう。

ここを過ぎると現在の国道に合流します。

R152号から急坂を登り 切開集落へ

ここが先程の離脱ポイントとの合流点になります。

切開集落の神社

この難読地名の切開(きりまな) はアイヌ語だとも言われています。

他にも、この辺には特に変わった地名や山名が多いです。

これは現在の飯田線の前身である三信鉄道 時代、

地盤が悪く不通だった区間の難工事にアイヌ人技師達が関わったからだといわれています。

正式な地名もない山間部、測量のために連絡し合うため、

目安となる要所要所の山や峠・谷に地名を付け、

その一部が今も正式地名として使われています。

ここにも庚申塔や石仏がまとめ安置されています。

さらに林道を登って行くと、集落の最上部へと向かう途中に古道が残っています。

この区間、芋堀まで迂回してしまう人も多いためか、余り歩かれていない印象です。

松島集落

なんだか凄い所に出て来ました。

荒れた古道を抜けると大洞山(930.4m)と 隠れ里のような松島集落が現れます。

現在、一件のお宅が生活されているようです。

標高約350mの集落へは国道から山道を登って来る他ありません。

松島集落の神社

松島集落から国道152号線までは幾つもの山道が複雑に交差していました。

途中で道を誤り、随分手前の方で降りてしまいました。

飯田線名物のS字鉄橋「第六水窪川橋梁」 通称「渡らずの鉄橋」

これは、水窪川左岸(写真右側)に掘削中のトンネル「向皆外隧道」が

中央構造線の地殻変動により崩落し、やむなくその部分を迂回したためにできたものです。

本来降りてくる予定だった所

松島集落への入り口には石碑。 集落の方の駐車場らしきスペースもあります。

芋堀集落の御鍬神社

芋堀集落

学校や病院、郵便局などが集まる旧城西村の中心地。

ここで水窪川左岸の秋葉街道「相月道」と合流します。

またホウジ(北条)峠を越える三州街道も分岐する要所でした。

廃校となった城西小学校前にお堂(薬師堂)と

庚申塔や馬頭観音、秋葉・金毘羅石碑等。

秋葉燈

旧道は国道より少し川沿いを通っています。

ここにお堂(大日堂)があり、この辺ではあまり見かけなくなっていた秋葉燈がありました。

秋葉燈

秋葉大権現・金毘羅大権現碑

傍には火の神である秋葉大権現と水の神である金毘羅大権現を合祀した石碑。

これは信州伊那地方に見られる伝統で、修験僧達により布教されたといいます。

信州との境であるこの辺りの集落では大抵祀られています。

世俗的には石碑の大きさが信仰の大きさ、なんて云われて来たそうです。

芋堀集落辻の石仏群

お堂の中には青面金剛像 他は風化で文字やお顔を識別することが出来ません。

芋堀集落の終わりから、街道は水窪川を渡り左岸へと続きます。

これはこの先の水窪までの右岸が難路であったからだといいます。

現在、左岸は製材工場となっていますが、敷地を抜けて久頭合〜向市場と続きます。

地元の方の話しではこのルートも現在は道が無いようです。

旧第一久頭合隧道と線路跡

JR飯田線は佐久間ダム建設に伴い、昭和30年に大規模な路線の付け替えをしています。

これは天竜川の左岸を通っていた中部天竜~大嵐間を、

水窪川沿いに迂回させる大掛かりな工事でした。

しかし水窪新線には「中央構造線」と「天竜川断層」という2本の巨大な断層が通っており、

大変な難工事となりました。

先程の「渡らずの鉄橋」のような策を講じながらも何とか開通に至りましたが、

ここ城西〜向市場間に作られた第一久頭合トンネルは一部 地殻変動より

廃棄の危険性が生じていました。

そのため危険箇所のみ別ルートで再堀削し、内部で繋げ昭和52年に換線しました。

放棄されたトンネルは埋めることなく残されたため、

大変珍しいY字状のトンネルとして残っています。

トンネルも付け替えるほど地質が脆いのに、古道なんて残っている訳ありません。

水窪らしいザレザレの斜面をトラバースして行きます。

やがて久頭合が近づいて来ると少し道らしくなって来ました。

高根城の駐車場付近、久頭合集落に出て来ました。

高根城の他に、向皆外に若子城、下日余(しもひよ)には日余城、鮎釣には小川城など、

水窪川左岸には中世の山城が沢山残っています。

高根城(久頭合城)

応永二十一年(一四一四)、奥山金吾正並びに諸士が尹良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け、葛郷高根の城を築いたのが城の始まりと伝わる。本曲輪の発掘調査により、城の創築が、十五世紀前半に遡ることは確実な状況であるが、伝承との関連は不明である。 その後、奥山氏は、十六世紀前半の永正から大永年間(一五〇四~二八)頃に、駿河守護の今川氏の配下に組み入れられ、北遠江のほぼ全域を支配下としている。永禄年間(一五五八~七〇)後半、今川家が凋落傾向をたどると、奥山氏内部で、今川・徳川・武田への帰属を巡って内部分裂が勃発、城は落城したと考えられる。 元亀から初頭(天正年間一五七〇~七六)のかけて、武田氏が遠江侵攻戦を開始。本城は、武田信玄・勝頼父子によって大改修され、国境を守る橋頭堡とされたが、武田氏滅亡と共にその使命を終えている。 現在、本曲輪を中心に、発掘調査成果をもとに上屋構造物を含め復元整備が実施され、当時の勇姿を取り戻した。城域を区切る武田氏独自の二重堀切の規模も雄大で、また各曲輪を接続する場内道も検出、復元されている。

水窪中学校の手前、静岡県道389号「水窪森線」へと合流する手前に石仏群。

今まで見て来た中でも最多の数です。

その中心、大きなお堂の中には 「教伝様」と左右に庚申塔が2基。

真ん中の「教伝様」と記されている石碑には「奉納醍醐妙典継摩訶◯本◯◯供養」

と彫られており、下に説明文がありました。

また、右側の青面金剛像は今まで見て来た中で最も特徴的な像で、

台座に三猿、二羽の鳥と上部には月と太陽、

手には法輪と三叉の矛、弓と矢、剣と網(ショケラ?)を持ちます。

教伝様

向市馬地区と水窪本町地区とを結ぶ橋(通称 高橋)が、以前は木製のため洪水の度に幾度となく流され、この橋の木代にこの地の人々は大変困り果てていました。この地に暮らす教伝様は、所有する山林を村に寄付し、その木で橋の架けかえをするよう言い残し、西国巡礼の度に出たままこの地に二度と戻りませんでした。村人は深く教伝様の徳を慕い、この碑を建てました。

向市場遺跡

向市場遺跡

昭和三十年飯田線付替工事や土地所有者の小塩氏、田中氏の宅地造成工事中にも多数の出土品が発見された。殊に飯田線工事中はこの付近一帯に多くの出土品があって遺跡として注目されるようになった。出土品の主なものは縄文時代後期から晩期(終末期)に至る縄文土器で(堀之内工式、五貴森式、水神平式)石器は石斧(二十六点)石棒(八点)砥石(二点)石鏃(四点)などが出土している。この附近は前方に水窪川が流れ西向きの河岸段丘地で小塩氏、田中氏を中心としてかなりの範囲に遺物の出土がみられた。また昭和四十四年飯田線踏切の電話線埋設工事の際路上より二米位に土色の異なる部分があり工事箇所は一面の土器及び土器片で埋まっていた。一部原形をとどめる出土品があり、水窪小学校に保存されている。尚、向市場遺跡からは、弥生時代前期のものも重複して出土した。弥生時代の遺物の主なものは(遠賀川式)の壺、甕が原型を保存して出土している。これらは弥生時代の文化のはじまりを示すものである。このように向市場遺跡は出土品も多く、かなりの範囲から遺物が発見されていることから縄文時代後期の時期に、塩の道ぞいとしてかなりの集落が営まれていたことが考えられている。

水窪橋(高橋)の前にも石仏群

水窪川に掛かる高橋を挟んで左は奥領家、右は地頭方。

今でも鎌倉時代の下地中分の名残りが残る珍しい場所です。

お堂の中には次郎兵衛様(左)と道祖神(右)

横に秋葉大権現 金毘羅大権現と供養塔

次郎兵衛様とは水窪の庄屋で、長年過酷な年貢の取立てに苦しむ村人を見兼ねて直訴し、

牢に入れられてしまった。

その後願いは認められるも、行き違いで処刑されてしまったそうです。

村人は身を挺して村を救った次郎兵衛に感謝し地蔵を祀ったそうです。

双体道祖神

後背に「向市場上村中 天明三年(1783)若物施主」

夫婦が凄い姿で彫られています。 下には説明文がありました。

双体道祖神

絶世の美男美女であった二人の兄弟は、余りにも美しすぎて結婚相手を見つけることができず、お互いに花嫁、花婿探しの旅に出て、相手を探し求めましたが結局見つからず、お互いの相手は他にはいないと気づき、兄弟で夫婦になりました。宿命によって結ばれた男女の伝説が伝えられる道祖神です。

お堂裏にも馬頭観音石碑等

水窪の町へ

坂の前には塩の道のモニュメント

神原の町の先端は崖のため、それを避けるように街道が付いています。

この小学校へと続く坂道には花街がありました。

昭和中頃まで芸妓さんもいたそうで、水窪でも最も風情を残す場所です。

塩の道

古代から遠州と信州を結んだ道、それが「塩の道」です。 遠く昔には信州に産する黒曜石が狩猟用の鏃(やじり)として遠州に、そして山地居住者が必要とする塩などの海産物が信州に運ばれ交易が行われていました。 これがいわゆる塩の道であり人の命の道でもあったのです。 この道は、後に秋葉街道(信州街道)とも呼ばれ、延々200キロの長い道で、そのほぼ中間地点がこの水窪町にあたり宿場町として栄えました。

軒先には山住神社のお札

今日歩いて来た家々でも沢山見かけました。

狼信仰はこの地域に憑き物の信仰が著しかったこと、

焼畑農業であった頃の害獣駆除を願ったものだといいます。

神原遺跡

水窪では縄文時代の遺跡が数多く発見されており、その集落の規模も大変大きなものでした。

現在よりも暖かく海面の水位も高い時代(縄文海進)、

天竜川の扇状地(浜松市天竜区二俣 より南)は海でしたから、

その頃の水窪は海も近く、今よりも住みやすい所だったのかもしれません。

神原遺跡

水窪小学校の校舎建築並びに運動場造成の際に多数の石鏃土器片が発見された。いずれも縄文時代のものであった。しかし出土資料は行方不明となっている。学校用地であったために数回の建築造成工事により遺跡は殆ど破壊されてしまった。河岸段丘地の絶好の場所として日当たり、水利もよかったので自然採取時代の生活には極めて敵地であったことはいまも想像される。尚学校用地より西方約五十米附近で住宅用地を達成中八十糎地中より鎌倉時代のもと考えられる蔵骨器が出土した。当時こうした火葬はかなりの豪族でなければできない仕わざと考えられる。

塩の道休憩所

塩の道休憩所

「塩の道」案内 日常生活に欠かせない塩は、海岸地方でしか生産されないため、いくつもの山と谷を越える塩の交易路が、古くから各地で開かれてきた。相良地方で生産された塩は、水窪を経て信州まで運ばれたのであるが、この塩の道は物資の流通だけではなく、やがて秋葉信仰の道としても栄え始めた。そのため、水窪は人々の往来で賑わい、店屋が並んで「市」が立ち、街道の宿場町として北遠地方の拠点となっていった。「市」では、水窪で生産されていた茶、麦、ヒエ、コウゾ、コンニャク、ヤマイモなどが、生産不足の米や塩などと交易され、暮らしに潤いをもたらした。塩の道は生活に密着した地域間交流の重要なルートであった。

水窪川によって形成された山間の谷に展開する水窪の町。

かつての秋葉街道(塩の道)の宿場町の中でも大きな町です。

南北に長い水窪の町 隅々まで歩くのは初めてかもしれません。

街中には秋葉街道や水窪の歴史に関する手作りの案内板が幾つも設置されています。

塩の道は南北朝の動乱期に宗良親王が南朝の拠点として

征東府を置いた大鹿郷大河原へと続く道でもありました。

案内板によると奥山郷(水窪)は、後醍醐天皇の孫(宗良親王の子)、

尹良親王が御旗を挙げた所で、御旗は小畑、内裏は大里として現在の地名にも残っています。

信州街道(秋葉街道)

神原から旧道を下って新道と交わる「信州街道」に沿う この神原地域の大里という集落名の由来について内山真龍の遠江国風土記伝によると「奥山郷は往古大裏御料の園地なり、大里 由機良(尹良)親王行宮所、大門、政所、朝臣小畑御旗を挙げる所」とあって、内裏は大里、御旗は小畑として現在の水窪中心部に今も地名は生きており昔の名残を留めている。

靴流通センター跡

みさくぼ祭り

毎年9月第3月曜日

春日神社(向市場)・八幡宮(本町 神原)・諏訪神社(小畑)三社合同による祭礼。

神楽や花火打ち上げ、御殿屋台引き回しの他に、

北遠随一といわれる仮装コンクールが行われます。

小畑にある曹洞宗 附属寺へ

中央には南無青面金剛、三猿も彫られた庚申塔。

庚申塔に描かれることが多い三猿ですが、

庚申を表す猿・山王神社のお使いの猿・「見ざる、言わざる、聞かざる」

の三猿が結びついて、彫られるようになったといいます。

また庚申待ちの行事は申の日(さるのひ)の夜に始まり、

酉の日(とりのひ)の朝にかけて行われるので、猿の他に鳥も彫られているものもあります。

寺院には街道筋にあった石仏がまとめられています。

最北部 大原

水窪の町の終着点まで来ました。

この先、青崩峠までのメインルートは何度か歩いていますが、

廃集落を経たルートをいつか歩きたいと思っています。

信州街道(秋葉街道)

遠州水窪は折口信夫(釈迢空)が民族採収のかたわら数々の詩歌の秀作を残し国指定重要無形民俗文化財である「西浦の田楽」を全国に紹介した町である。扇川の清流の沿って信州街道(秋葉街道)を行くと「西浦の田楽」「鯖地蔵」「足神様」「悉平太郎」「木地屋の墓」など多くの歴史と伝説が今なお息づいている。道路を経て、標高一〇八二メートルの国境に位置する「青崩峠」に至る。

 

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