島田宿大井川川越遺跡・旧桜井家(島田市博物館)




島田宿大井川川越遺跡・旧桜井家(島田市博物館)

島田宿大井川川越遺跡(しまだしゅくおおいがわかわごしいせき)へ

江戸時代 東海道最大の難所、大井川の川越制度に関する遺跡で、

当時の川越の街並みが復元(昭和40年台に復元)

保存された野外ミュージアムとなっています。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

と詠われた大井川を渡るには、川札を川会所で購入、

川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗って川越していました。

江戸幕府では江戸を防衛するために敢えて、

架橋、渡し舟、馬による渡しを禁じて、川越人足による川の横断をしていました。

島田市博物館」もこの地にあり、

大井川と川越しの様子、島田宿の川留め文化などの資料が常設紹介しています。

また大井川川越遺跡に隣接しした「島田市博物館 分館」は

海野光弘版画記念館と島田市民俗資料館からなり

旧家の趣が溢れる明治時代の古建築(旧桜井邸)は

2020年7月、新たに国登録有形文化財に登録されました

島田宿・川越遺跡 川越(かわごし)街道

周辺は「大井川川越遺跡」として国史跡に指定され、町屋が復元されています。

川会所

江戸時代の初期、慶長六年(1601)に幕府は宿場の制を定めて

東海道に五十三次の宿場をおき、島田宿へは寛永十年(1633)に

本陣がおかれたのが最初である。

大井川の徒渉は,はじめ江戸時代初期においては比較的自由なものであったが、

その後、大井川の渡渉制度をに確立した。

元禄九年(1696)には川越賃銭を定め、両橋詰に1人づつ2人の川庄屋を任命、

役所を置いて幕府監視の川越制度を確立した。

東海道の交通量が増加してくると、川庄屋は4名に増やされた。

川人足の数は、川の両岸にそれぞれ350人と定められていたが、

幕末には約650人に増えていた。

大井川の川越

大井川の川越 

江戸時代の初期、慶長六年(一六〇一)幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するかぬいっぽう、大井川や安倍川、酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず、川越人足に旅人を担がせて川を渡らせた。

大井川の渡渉制度は江戸時代初期には比較的自由なものであったが 、貞享・元禄期(一六八七〜一七〇四)ころから旅人の安全確保のため制度を厳しくし、元禄九年(一六八九)には川越し業務を統括する二人の川庄屋を置くとともに、その役所として川会所を設置した。

旅人は川会所で渡し賃金を支払って、 川札を買い、河原で待機する川越人足に川札を渡して肩車や連台と呼ばれる木製の台に乗り、人足に担がれて向こう岸へと渡った。

川越制度では、川庄屋のもとに年行事(川庄屋の補佐役)、小頭(川越人足の各組の統括役)、立合人(川役人と川越人足、各組同士の調整役)、口取(旅人の案内人)、待川越(人足業務に特に秀でた者)などを置いて、川の深浅による渡渉賃金の取り決めや通行人の順番の割振り、川札の販売などの業務を行い、円滑な運営を図るとともに規定の渡渉地点以外から越える廻り越しも取り締まった。

川越人足は、当初は島田・金谷両宿とも各三六〇人と定められていたが、交通量の増大にともなってその数も増え、幕末には六五〇人ほどがいたと言われている。彼らは一番から十番までの組に分けられ、交通量に合わせて各組の出番を調整し、川越し業務に従事した。

川越し業務は明治維新まで続けられたが、明治三年(一八七〇)、政府からの通達により、架橋・渡船の禁が解かれ、この業務は廃止された。 島田宿大井川川越遺跡は、江戸時代、東海道最大の難所として知られた大井川の川会所や川腰人足の溜り場として使われた番宿など川越し関連の建物や遺構が残る貴重な場所として昭和四一年(一九六六)、国の史跡に指定された。また、平成八年(一九九六)には文化庁の『歴史の道百選』にも選定されている。

川会所

渡渉制度が無くなってそれにともない川越しの村は無くなっていたが,

島田市博物館が建てられ隣接して島田宿大井川川越遺跡として,

静岡県島田市河原一丁目の地に町並みなどが復元されている。

川会所は、川越えを管理するための役所であって、

大井川河畔 ・三軒家に建てられ、川庄屋のもとに

年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて

日々川の深浅による徒渉賃銭の取りきめや、

公家や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの

通行人渡河順序の割振り諸荷物等の徒渉配分などの円滑な運営をはかるとともに、

既定の徒渉地点以外から越える廻り越しの監視などを厳重に行った。

川庄屋と年行事

元禄9年(1696)、代官 野田三郎左衛門によって、大井川渡渉制度は本格的な管理・統制が行われるようになりました。その中心的な役割を担ったのが、川庄屋と年行事です。

川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していました。

その主たる任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていたことから、当初の二人枠が次第に増員され、享和年間(1801~1804)には、四人が任命されています。

年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられましたが、その数は9人~11人、あるいはそれ以上と一定していません。

川会所に交替で勤め、川越賃銭の取り立て、帳簿の記載、川越人足の区分・配置を行いました。

また、川越賃銭を決めるための下検分を行い、川の留め明けについても決定的な意見を川庄屋に報告していたとされています。

「大井川の川越し」(島田市史資料編等編纂委員会編)より

連台(れんだい)

連台の名の由来は定説がありませんが、仏教の蓮華座との関連が考えられます。平連台は御神輿に似た形で、定員は2名まで乗ることができました。 一般の旅人も利用できました。

連台の種類

大高欄連台……川会所や本陣などに預けた大名持ちの連台で、殿様が籠に乗ったまま乗る連台です。四方棒連台とも呼ばれています。

中高欄連台……大名(小藩主)などや朝廷の勅使、皇族・貴族出身僧侶、各宗派の位の高い僧侶を乗せる連台です。

半高欄連台……公家や大名の重臣など上級武士とその婦人を乗せる連台です

荷連台……主に荷物を運ぶ専用の連台です。

川札

川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書にも「油札」と記したものが多くあります。

川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。

この川札は、美濃紙を十二行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書されていました。全体に油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛に結ぶのに都合がよかったからでしょう。

このような「川札」がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄4年(1691)、ドイツ人で長崎オランダ商館付き医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記『江戸参府旅行日記』の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立される元禄9年以前から利用されていたと思われます。

台札

「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。価格は、川札の二倍に相当した。 これは、中頭紙を横にして、幅七分ほどに裁ち、川札同様に、川会所または年行事の黒印を押し、その端に「台札」と墨書したものです。 その起源は、川札同様に、元禄9年(1696)、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。

川越しの時刻

明け六ッ(午前六時頃)から暮六ッ(午後六時頃)までで、季節により多少のずれがありました。

しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立(こしだて)が許されましたが、よほどのことでない限り、暮六ッ以後の川越しは許されませんでした。

開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。 旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。

鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎(かはね)の内より支払われていました。

越立(こしだて)の方法

普通、大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合とがありました。 このほかに特別な「棒渡し」や「馬越し」があり、また荷物越しにも規定がありました。

肩車(かたくま)越し 人足仲間では「カタクマ」といい、川越人足の肩に跨いで乗る方法で、越し賃がもっとも安く、大衆的な越し方であったため、多くはこの方法で越しました。

棒渡し 無賃者を越させる方法。

大井川は原則として一般人の無賃越しおよび自由越しは禁止されていました。しかし特に例外として、無賃自由越しを許す場合もありました。

それは「報謝越し」ともいい、その対象となった人達は、相撲取り、巡礼、非人、無銭者や猿回し・越後獅子などの下級芸人などでした。

この棒渡しというのは、細長い杉丸太へ四、五人くらいをすがりつかせ、その両端を二人の待川越が持って渡すもので、ときには連台の横側にとりついて越させてもらう場合もありました。

このすがりついた手が離れ、水の勢いに押されて溺れてしまうケースが多くありました。 このようなことから、川会所では、河流の両側に待川越数人を配置し、見張りをさせて人命救助に当たらせていました。

無賃者といっても、このような越立の手当ては、川会所より支給されました。

連台越しの手順

明六ッ(午前六時頃)~暮六ッ(午後六時頃)旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では、川庄屋によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、旅人は出立前に、当日の「何文川」であるかを知ることができました。

街道を西に向かい大井川に面した河原町に着くと、そこの川会所前には高札場があり、ここに当時の「何文川」であるということが掲げてありました。 旅人は川会所に出向いて、自分の住所・名前・旅の目的などを告げ、川越しを依頼しました。そして「肩車越し」または「連台(平台)」で越したい旨を申しでました。

つぎに「川札」、「台札」を求めます。 「川札」(油札)は一人乗りの場合は四枚(川越人足四人担ぎ)、二人で乗る場合は六枚(川越人足六人担ぎ)が必要でした。 他に連台の使用賃として「台札」一枚も必要でした。

「台札」は川札の二枚分だったので、一人乗りの場合、川札六枚の川越賃を支払うことになりました。 「川札」一枚の値段は、その日の川の深浅によって異なりました。

このような手順も、初めて旅するものにはわかりにくかったので、「立会人」(案内人)と呼ばれる者たちがいて、毎日川会所に詰めていて、旅人たちに川越しの手引きをしました。 川札を求めた旅人は、この立会人の案内で、当日出番の川越人足が詰めている「番宿」に案内しました。

川留めと川明け

大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日変化するが、ひとたび大雨にあって水深4尺5寸(約1.4m)以上に増水すれば大井川の川越しは禁止されます。これが「川留め」です。

川留めは4~6月頃に集中し、2、3日から1週間程ですが、慶応4年(1866)に連続し28日間にも及んだことがあり、これが最長記録となっています。 そして、「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原へ殺到し、またこの4~6月という時期は、参勤交代とも重なり、混乱に拍車をかけました。このような日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝・とりかち)で、川越人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し・あいたいごし)越立てをしました。これは、大通行の時期だけ認めていました。

川札(切符)の値段は、毎朝待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を測って定め、川会所前の高札場に当日の川札の値段を掲げていた。

大井川の普段の水位は2尺5寸(約76cm)で、4尺5寸(約136cm)を超えると川留めとなった。

川の深さは、人の背丈で表現され「股通」(またどうし)、「帯下通」、「帯上通」、「乳通」(ちちどうし)、「脇通」などと表された。

1文を30円で換算して、現在の金額にすると次のようになる。

股 通……水深が股まで  48文(1440円)

帯下通……水深が帯の下  52文(1560円)

帯上通……水深が帯の上  68文(2040円)

乳 通……水深が胸    78文(2340円)

脇 通……水深が脇以下  94文(2820円)

享保年間(1716~1736)の物価では、

白米   1升  40文

酒    1升  88文

大工手間 1日 120文  である。

一番安いのが、川越人足の肩にまたがり越す「肩車(かたくま)」で、川札は一枚であるが、帯上通以上になると手張(補助者)がつくので川札が二枚必要となり、4000円ぐらいになる。

また、荷物が多い場合は、荷物を運ぶために人足を一人充てなければならない。

島田大堤

島田大堤(しもだおおつつみ)

天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流された。

その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、 向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化している。

恐らくこの頃(正保元年・1644)までには完全な大堤が完成していたことと思われる。 これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えている。

大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ 3150間(5.733m)と記録されている。 今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。

三番宿(さんばんやど)

川越人足がふだん詰めていた待機所(たいぎじょ)です。

川越人足は、10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めました。

各番宿には連台5丁が備えてあったと考えられています。

川越は、各組が輪番制であたりましたが、

当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で50人ほど待機していました。

三番宿(現在)の規模 間口 10.4m 奥行15.1m

輪番制

1つの仕事を大勢の人がかわるがわる順番にすることの意味で、まわり番のことです。

仲間の宿

主に竿をとった川越し人足たちの集まった宿です。

ここは、人足たちの仕事上の意見交換や各組どうしの親睦の場として

使用されたといわれています。

主に年をとった川 まとめる 越人足たちの集まった宿です。

また、人足の代表である小頭(こがしら=各番宿の川越人足をリーダー)や

陸取り(おかとり)が集まって会合を開いた場所でもあります。

ここは人足たちの仕事上の意見交換の場として使用されたといわれています。

仲間の宿(現在)の規模・間口 10.4m 奥行 10.7m

注1) 川越人足….旅人が大井川をわたる際、

肩車越しや連台越しといった方法で川越しに従事した人足たち。

江戸時代の終わりには、島田側だけで650人程働いていたといわれています。

注2) 宿….ここで言う宿は、 宿場の宿ではありません。

一般的には番人の詰所を意味する番宿(ばんや)に近く、

いわば川越人足の休息所となったところです。

注3) 陸取り(おかとり)….45歳以上の川越人足の経験者で、

立会人(陸取り同様の川越人足の経験者)が川会所から番宿まで案内した

旅人を川越人足に引きわたすことが役目でした。

場と裂織 札場(ふだば)

川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。 一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました

札場(ふだば)

一日の川越しが終了した後、それぞれの番宿で「陸取り」が、川越人足から札を集めて札場で現金に換えました。 なお換金する際、当日の川越賃金から二割が差し引かれ、川庄屋、年行事などの給金や川会所、その他の番宿の修繕費等に充てたり、島田宿運営の財源の一つとしても使われました。

札場(現在)の規模 間口 9.3m 奥行 13.8m

注)陸取り(おかとり)

川越人足の中でも、実際の川越しには従事しない世話人的な立場の人です。「陸取り」は各番宿に数人いて、立会人から旅人を引き継いで越場まで案内し、旅人から川札を受け取って川越人足に渡しました。川札を現金に換え、人足たちに分配するのも陸取りの仕事でした。

八重枠稲荷神社

八重枠稲荷神社

昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守りました。八重枠稲荷の名前はここからきています。

宝暦十(一七六〇)年に川越衆の安全と故事の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。

社殿は文化九(一八一ニ)年と明治三十四(一九〇一)年に修繕されました。石積みは当時のままで、大井川の石を拾って亀甲型にして、積み上げたものです。 川石は堅くて、手間がかかり、今では市内数ヶ所しかない職人の技法です。

朝顔の松

朝顔の松の由来

昔、ここに1本も大きな松がありました。 江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に、足止めされました。

ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘、深雪(みゆき)が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。

しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。

ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流して歩いていると、ある座敷から声がかかります。 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえずに別れてしまいます。

あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋(えびすや)徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。

その時、はじめて目に映ったのが大きな1本の松でした。 この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1m56cm・高さ20m)でしたが惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂(平成16年3月再建)が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。

書かれている題辞は「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」(フウショウヒサシクホウスシュンカノキョクコズイナオトドムゴゼノタマシイ)で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。

この意味は、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されます。

この物語「朝顔日記」は、江戸後期(1811年)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。「生写朝顔話」は、いまでも上演されています。    島田市

朝顔目明観音と川除地蔵

朝顔の松(島田市

広島藩の家老の娘「深雪」は京都で宮使いをしていた際、「宮城阿曽次郎」を名乗る好青年と恋仲に落ちます。

しかし、急な知らせで国元に戻ると「駒沢次郎左衛門」という男性と婚約した事を告げられた事で途方に暮れ、遂に名前を「朝顔」に変えり阿曽次郎を探す為に旅立ちます。

実は宮城阿曽次郎と駒沢次郎左衛門は同一人物でしたが、その事実を知らない「朝顔」は全国を探し回り遂に視力を失い、三味線の弾き語りをしながら僅かな日銭を稼ぎ暮していました。

ある日、座敷から声がかかり、何時ものように歌いましたが、その客は阿曽次郎本人でした。しかし、「朝顔」は目が見えない為、阿曽次郎とは気付かず、阿曽次郎も長旅で容姿が変わった「朝顔(深雪)」を気付きませんでした。

後日、先日の客が阿曽次郎と分かり急いで追い掛けますが大井川は川止めで遂に会うことができませんでした。朝顔は悲観するあまり自殺を試みますが宿の主人に助けられ一命を取り留めました。

すると不思議なことに目が見えるようになり、目を開けて初めて見たのがこの松だったと云われています。

何時しかこの松は「朝顔の松」と呼ばれるようになり初代が枯れた際、哀れんだ住民が朝顔堂が建立し枯れた松を木碑として安置しました。現在の松は5代目ですが長く住民達に守られ続けられています。

島田市博物館

島田市博物館分館

島田市博物館分館は、江戸時代の川越しの面影を残す

国指定史跡「大井川川越遺跡」に隣接し、

「海野光弘版画記念館」と「島田市民俗資料館」からなります。

特に「海野光弘版画記念館」は、明治時代の古建築を生かして展示室としたもので、

旧家の趣が溢れる博物館です。

旧桜井家(島田市博物館分館)

旧東海道沿い、島田宿大井川川越遺跡の復元建物が並ぶエリアに位置する旧桜井家住宅主屋は1899年築。

桜井家は代々造り酒屋として栄え、明治以降は地主として財をなした。 木造寄棟造り、当時は珍しい一部2階建ての豪壮な邸宅で、玄関から2階までふき上げられた瓦の大屋根が特徴。

玄関からの土間沿いに2列7室が広がり、座敷棟を接続する。2階は落ち着きのある数寄屋風で、茶室として使用し客人をもてなしたという。

手焼きのガラスや専用の釣瓶井戸が残り、中庭には樹齢300年といわれるマキの木が立つ。1996年に市が取得し、敷地内に整備した展示室とともに市博物館分館として活用している。

桜井家は江戸時代からこの地に居を構えた地主で、

明治以降は金融業も経営していたようです。

建物は平成12年(2000)に島田市の所有となり、

博物館分館として使用されています。

分館は2020年7月、新たに国登録有形文化財に登録されました。

海野光弘版画記念館の沿革

昭和14(1939)年静岡市に生まれ、中学1年より本格的に版画を制作。昭和52(1977)年にはスイス美術賞展優秀賞を受賞するなど、版画家として第一線で活躍をしながら39歳の若さで急逝した版画家・海野光弘の作品を数多く収蔵、展示する記念館です。

作風は、それぞれの風土の中でひたむきに生きる人間が描かれている作品が多く、木版の黒版の上に色を重ねた技法(陰刻)が特徴です。

氏のやさしい人間観が表現されており、見る者の心に不思議な懐かしさを感じさせます。 作品は、当館が平成11(1999)年に海野夫人から一括して寄贈を受けたものです。

海野作品は他に、スイスプティパレ美術館、シカゴ美術館、浜松市美術館等にも所蔵されています。

平成12(2000)年にオープンしたこの記念館は、白を貴重とし、日本家屋の黒との対比や中庭の緑との調和が美しく、穏やかな空間となっています。

縁通し

海野光弘

海野光弘(うんの みつひろ、1939年(昭和14年)11月19日 – 1979年(昭和54年)9月23日)は、日本の木版画家。静岡県静岡市出身。

略歴

静岡市新富町(現在の葵区新富町)4丁目で染色業を営んでいた海野家の次男として生まれる。

1952年(昭和27年)、静岡市立末広中学校に入学。1年の頃、日記の中に入れた版画が教諭の目に留まり、日本教育版画協会所属の教諭・蒔田晋治を紹介され、以後版画制作に没頭するようになる。

静岡商業高校卒業後は日立製作所東京本社に就職したが、20歳になった1959年(昭和34年)に退職。本格的に版画家としての道を歩むようになり、同年、静岡市内で初の個展を開く。

1964年(昭和39年)に発表した「触」が日本版画協会賞奨励賞を受賞。その後も多くの作品を制作・発表し、1972年(昭和47年)「対話の山」が静岡県芸術祭賞を受賞、1977年(昭和54年)には「縁通し」がスイス美術賞展優秀賞を受賞する。

島田宿川越し場跡

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