第23代 顯宗天皇(傍丘磐坏丘南陵)・奈良県香芝市北今市




第23代 顯宗天皇(傍丘磐坏丘南陵)・奈良県香芝市北今市

奈良県香芝市北今市

第23代 顕宗天皇(けんぞうてんのう)

傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)

顕宗天皇陵は国道168号から西に入った住宅街の中にある陵墓。

(道のどん突きに駐車可能)

顯宗天皇(けんぞうてんのう)

『日本書紀』によれば第二十三代天皇、在位三年(四八五―八七)。『古事記』に治世八年、崩年三十八歳とみえるが、いずれも確かでない。在位の実年代はもう少しおそく、五世紀の末であろう。父は履中天皇の皇子市辺押磐皇子、母は蟻臣の娘荑媛。仁賢天皇の同母弟。子はない。本名は弘計。名義は未詳だが、兄の大ケ(億計)に対して小ケの義。雄略天皇は亡兄安康天皇がかつて皇位をいとこの押磐皇子に譲らんとしたことを恨み、皇子を狩に誘って暗殺した。子の億計・弘計の二王は難を避け、播磨の縮見屯倉に奴として潜伏、やがて清寧天皇のとき、大嘗供奉の料を調達するため遣わされた伊与来目部小楯に発見され、皇嗣として迎えられ、天皇の没後、まず弟の弘計王が兄の辞退により顕宗天皇として即位した。記紀には、治世中のこととして、置目老媼(おきめのおみな)が父市辺押磐皇子の墓所を教えた話、天皇が雄略天皇の陵を破壊しようとして、皇太子であった兄の仁賢天皇にいさめられた話などを記す。顕宗の語義は、みずから市辺押磐皇子の子であることを名乗り出たという意味。皇居は近飛鳥八釣宮。陵は傍丘磐坏丘南陵。

生没年不詳。記紀では第23代の天皇。『古事記』は崩年齢を38歳とするが、『一代要記』などは48歳とし、治世年数も『古事記』は8年とするが、『日本書紀』は3年と異なる。履中(りちゅう)天皇の孫とし、市辺忍歯(押磐)(いちべのおしは)皇子の子と伝える。袁祁(弘計)(おけ)皇子、来目稚子(くめのわくご)ともいい、袁祁石巣別命(おけいわすわけのみこと)、弘計天皇、袁奚(おけ)天皇とも書く。宮居は近飛鳥(ちかつあすか)宮で、その所在については河内(かわち)説と大和(やまと)説があるが、河内飛鳥とする説が有力である。父が雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されたので、兄の意祁(億計)(おけ)皇子とともに丹波(たんば)に逃れ、さらに播磨(はりま)に身を隠したが、みいだされて皇位に迎えられたという。陵は片岡(傍丘)の石坏(盤杯)(いわつき)の岡の上にありと伝える。奈良県香芝(かしば)市北今市の地とする。

第23代 顕宗天皇

諱  弘計・来目稚子

異称 弘計天皇・袁祁王・袁祁之石巣別命・袁奚天皇

誕生 生年不詳

崩御 生年不詳

在位 顕宗天皇元年1月1日 – 同3年4月25日

続柄 (父)市辺押磐皇子(母)荑媛

雄略天皇は、兄の安康天皇が市辺押磐皇子を皇位につけようとしたのを恨み、市辺押磐皇子を殺害して皇位についたが、その際に市辺押磐皇子の子の億計(顕宗)、弘計(仁賢)の二人は難を避け播磨国明石に逃れた。
その後伊予の来目部小盾に発見されて、清寧天皇の知ることとなった。
子のない天皇はこれを喜び二人を皇嗣として迎えた。
やがて清寧天皇が崩御したが、億計、弘計ともに皇位につかず譲りあった。
しかし、皇位を虚しく空けておくわけにはいかず、結局弘計が皇位につき近飛鳥八釣宮に都して顕宗天皇となった。

生没年不詳。記紀では第23代の天皇。『古事記』は崩年齢を38歳とするが、『一代要記』などは48歳とし、治世年数も『古事記』は8年とするが、『日本書紀』は3年と異なる。履中(りちゅう)天皇の孫とし、市辺忍歯(押磐)(いちべのおしは)皇子の子と伝える。袁祁(弘計)(おけ)皇子、来目稚子(くめのわくご)ともいい、袁祁石巣別命(おけいわすわけのみこと)、弘計天皇、袁奚(おけ)天皇とも書く。宮居は近飛鳥(ちかつあすか)宮で、その所在については河内(かわち)説と大和(やまと)説があるが、河内飛鳥とする説が有力である。父が雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されたので、兄の意祁(億計)(おけ)皇子とともに丹波(たんば)に逃れ、さらに播磨(はりま)に身を隠したが、みいだされて皇位に迎えられたという。陵は片岡(傍丘)の石坏(盤杯)(いわつき)の岡の上にありと伝える。奈良県香芝(かしば)市北今市の地とする。

顯宗天皇(傍丘磐坏丘南陵)

代数
第23代
天皇名
顯宗天皇(けんぞうてんのう)
御父
磐坂市邊押磐皇子
御母
妃荑媛命
御陵名

傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)
陵形
前方後円
所在地
奈良県香芝市北今市

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