佐紀瓢箪山古墳(佐紀盾列古墳群)・奈良県奈良市佐紀衛門戸




佐紀瓢箪山古墳(佐紀盾列古墳群)・奈良県奈良市佐紀衛門戸

奈良県奈良市佐紀衛門戸に所在する佐紀瓢箪山古墳(さきひょうたんやまこふん)は、

古墳時代中期前半の前方後円墳です。

佐紀盾列古墳群の1基であり、単に瓢箪山古墳と呼ばれることも多い。

国の史跡に指定されています。

佐紀盾列古墳群

奈良市山陵(みささぎ)町ほかにある前・中期の大型古墳群。東西2.5キロメートル、南北1.5キロメートルの範囲に、全長200メートルを超える前方後円墳8基を含む18基の前方後円墳と円墳、方墳がある。群内には天皇陵や皇后陵に比定されている古墳が多い。佐紀盾列という呼称も、「御陵在沙紀之多他那美也」(成務(せいむ)記)や「葬于倭国狭城盾列陵。盾列、此云多多那美。」(仲哀(ちゅうあい)即位前紀)などの記紀に記されているところである。

古墳群は普通東・西2群に分けて考えられている。西群には五社神(神功(じんぐう)皇后陵)、佐紀石塚山(成務天皇陵)、佐紀陵山(日葉酢媛(ひばすひめ)陵)の全長200メートルを超える古墳と100メートルを前後する佐紀高塚(称徳(しょうとく)天皇陵)、瓢箪山(ひょうたんやま)、塩塚古墳などがあり、東群には、群内最大である全長269メートルのウワナベ古墳やコナベ古墳、ヒシアゲ古墳(磐之媛(いわのひめ)陵)がある。東群と西群の間にある市庭(いちにわ)古墳(平城(へいぜい)天皇陵)と神明野(しめの)古墳は中央群として区別すべきかもしれない。西群は前期末葉を中心とし、瓢箪山古墳前方の丸山塚古墳からは鏡14面、琴柱(ことじ)形石製品3個、銅鏃(どうぞく)19個、刀剣180が出土している。東群と中央群は中期中葉を中心とし、ウワナベ古墳の陪冢(ばいちょう)(大和(やまと)6号墳)からは1000枚余の鉄鋌(ねりがね)(鉄素材)をはじめ多量の斧(おの)、鎌(かま)、刀子(とうす)などが検出された。文献史学の成果によると、本古墳群は和邇(わに)氏ならびに息長(おきなが)氏との関連が指摘されている。

佐紀瓢箪山古墳

本古墳は1971年(昭和46年)に、国の史跡に指定されており、そのおりに測量調査と小範囲の発掘調査が実施されている。墳丘の全長は96メートル、後円部径60メートル、同高さ10メートル、前方部の幅45メートル、同高さ7メートルである。古墳の周濠は普通、墳丘の周りをぐるりと回るが、発掘調査の結果、この古墳の場合は前方部の正面から西側隅にかけての部分には濠が造られていなかったことが判明した。その理由は、この古墳の西南に接して存在する丸塚古墳という円墳に求められる。すなわち、佐紀瓢箪山古墳の築造以前に丸塚古墳があったので、その部分には濠を造らず共存をはかったようである。丸塚古墳は大正3年に採土のため破壊されて、墳丘の半分を失っているが元々は佐紀瓢箪山古墳に、ほとんど接するように存在していたのが分かっている。しかし、このように接近して古墳を築かねばならなかった理由は不明である。古墳を北に少しずらして築造すれば、濠を完全にめぐらすことも可能であったと考えられるが、このように築造することに意味があったとも考えられる。また濠の調査から、墳丘には葺石がふかれ、埴輪もあったことが分かっており、また、濠には平常は水を貯めていなかった可能性が強いという。 Wikipedia

跡瓢箪山古墳

昭和四十六年五月二十七日指定

瓢箪山古墳は、前方部を南にむける前方後円墳で、墳丘の全長九六メートル、後円部径六○メートル、同高さ一〇メートル、前方部幅四五メートル、同高さ七メートルである。前方部の西南隅で大正年間に土砂採取が行なわれ、一部原形をそこなっていた。墳丘の周囲には前方部の西南をのぞいて周濠がめぐらされている。周濠が全周しないのは本古墳の西南に隣接する丸塚古墳をさけたためと考えられ、丸塚古墳が本古墳に先だって築造されていたことを想定させる。その他の外部施設としては、墳丘の一部と周濠に葺石が、また墳丘で円筒埴輪の遺存が確認されたが、量は少ない 。後円部の埋葬施設や副葬遺物については明らかでないが、大正年間の採土の際、前方部から粘土槨が発見され、碧玉製琴柱形石製品三点が出土したと伝えらている。古墳の築造年代については、墳丘の形態などから古墳時代前末期から中期初頭(四世紀末~五世紀初頭)と推定されている。

本古墳を含む佐紀盾列古墳群は、わが国でも有数の大古墳群であり、天皇、皇后陵の伝承をもつ古墳が数多くみられるところなどからも、日本古代史研究上きわめて貴重な古墳群とされている。

瓢箪山古墳は、この古墳群を構成する前方後円墳の一基として学術的に貴重な古墳であるところから、昭和四十六年史跡に指定され、昭和四十八、四十九年度に奈良県教育委員会が環境整備を実施し、前方部の復元や周濠の一部復元的地上表示を行った。  平成三年三月 奈良県教育委員会

  • このエントリーをはてなブックマークに追加