第6代 孝安天皇(玉手丘上陵)・奈良県御所市大字玉手
奈良県御所市大字玉手
第6代 孝安天皇(こうあんてんのう)「日本書紀では日本足彦国押人天皇」
玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)
欠史八代の一人で実在性については諸説あり。
JR玉手駅より徒歩6分程(駐車場有り)
別に満願寺の境内を通過して訪問するルートもあります
玉石をコンクリートで固めた参道を登る
途中、神社への参道と二手に分かれる
金毘羅神社
丘陵中段に金毘羅宮、
向かい合わせて孝安天皇社が鎮座する
孝安天皇社
孝安天皇
観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の第二皇子。母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。父帝が崩御した翌年の1月に即位。即位2年、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)に都を移す。先帝の都からさほど離れていない。即位26年、天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇)らを得た。即位102年、崩御。
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第6代 孝安天皇
諱 日本足彦国押人天皇・大倭帯日子国押人命
誕生 孝昭天皇49年
崩御 孝安天皇102年1月9日 137歳
在位 孝安天皇元年1月7日 – 孝安天皇102年1月9日
続柄 (父)孝昭天皇(母)世襲足媛
「日本書紀」によれば、孝昭天皇の崩御後の翌年に即位して、都を秋津島宮に移したとある。
宮の所在地は諸説あって特定されていない。
皇后は兄の天足彦国押人命の娘である。
孝安天皇についても系譜のみ伝わり、その事績は伝わっていないので不明である。皇室系譜に第6代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。孝昭(こうしょう)天皇の第2子で、母は世襲足媛(よそたらしひめ)。孝安元年に即位、同2年に都を室(むろ)(奈良県御所(ごせ)市室)の秋津嶋宮(あきづしまのみや)に遷(うつ)し、同26年に姪(めい)の押媛(おしひめ)を皇后とし、同102年に没して玉手丘上陵(たまてのおかのかみのみさざき)に葬られたという。『古事記』は、母を余曽多本比売命(よそたほひめのみこと)、皇后を忍鹿比売命(おしかひめのみこと)とし、123歳で没したと伝える。
欠史八代の一人
第六代天皇。第五代・孝昭天皇の第二子。 母は『古事記』では尾張連の祖・奥津余曾の妹、余曾多本毘売命、 『日本書紀』では尾張連の祖・瀛津世襲の妹、世襲足媛。
葛城の室の秋津島宮にて統治された。
『古事記』では、孝安天皇は姪忍鹿比売命を娶って、 大吉備諸進命、大倭根子日子賦斗邇命(のちの第七代天皇・孝霊天皇)をもうけた。
『日本書紀』では、孝安天皇は姪押媛を皇后として、 大日本根子彦太瓊天皇(のちの第七代天皇・孝霊天皇)をもうけた。
御陵は、『古事記』では玉手岡の上。 『日本書紀』では玉手丘上陵。
孝安天皇(玉手丘上陵)
代数
第6代
天皇名
孝安天皇(こうあんてんのう)
御父
孝昭天皇
御母
皇后世襲足媛命
御陵名
玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県御所市大字玉手
御陵より望む金剛山 葛城山