松平城跡(松平氏遺跡)・愛知県豊田市松平町三斗蒔




松平城跡(松平氏遺跡)・愛知県豊田市松平町三斗蒔

松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301号線沿いの山村にあります。

東に炮烙山(684m)や六所山(606m )を有し、

西に行くに従ってなだらかな丘陵地となっています。

徳川300年の礎となった松平八代の歴史は、ここ松平郷から始まりました。

平成6年には松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、

「松平城跡」「大給城跡」「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えている

ということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

松平城は家康公の先祖にあたる松平親氏によって築かれた城です。

城には、本丸と二の丸があったと言われ、山腹には山を包む様に

約400mの空堀の跡が残っています。

城跡は室町時代の典型的な山城であったと推測され詰城でありました。

松平城址へは、国道301号T字型交差点(松平郷の看板があり)’入るとすぐに右側に

「松平城入口駐車場」(トイレ有り)があります。

標識に沿って5分程歩くと松平城址入口が見えてきます

国指定遺跡 松平氏遺跡

(松平氏居館跡・松平城跡・大給城跡・高月院)

松平氏は江戸幕府の創始者である徳川家康の祖で、ここ松平町が発祥の地です。

伝承によれば時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、土豪在原信重の婿となり松平親氏を名乗り松平城を本拠としたのが始まりといわれています。三代信光の時、後の徳川将軍家となる松平宗家と幕末まで松平郷に住した旗本・交代寄合松平太郎左衛門家に分かれました。信光は松平郷から岩津・大給・安城・岡崎城へと侵攻し西三河一帯に進出、一族発展の基礎を築き、松平氏九代目家康が徳川に改姓して天下統一を果たしました。家康の死後、太郎左衛門家九代尚栄の時に東照宮が駿河から当地に勧請され、「ご称号の地」として松平郷は幕府から敬まれてきました。

平成六年、松平氏の居館(東照宮境内)を「松平氏館跡」とし、「松平城跡」、「大給城跡」、「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の状況をよく伝えているということから、一括して松平氏遺跡として国の指定史跡となりました。

「松平氏館跡」(現松平東照宮」は、三時期の歴史的な段階がありました。初めは、親氏の居館としての松平氏館、つぎに松平信光以後、宗家と分かれた旗本松平太郎左衛門の居館、そして、居館廃絶後、今日みるような元和年間に勧請されていた東照宮を前面に祭祀した松平東照宮の段階です。境内には「産湯の井戸」と呼ばれる井戸があります。松平家では三代松平信光が当館で出生した際、この清水を用いたことから松平家代々の「産湯の祝泉」となったといわれています。天文十一年(1542)に家康が岡崎城で誕生した際には竹筒につめて早馬で届けたといわれています。また、館跡正面から西側に巡る水掘の石垣は江戸時代初期に整備されたといわれています。

ここ松平城跡と、松平氏館跡(松平東照宮)、高月院と大給城の四ヶ所を合わせて

「松平氏遺跡」として国の指定史跡となっています。

豊田市指定史跡 松平城址

豊田市松平町三斗蒔一七

郷敷城と称する。応永(一三九四~一四二七)のころ松平(徳川)氏の始祖親氏の築城と伝わる。松平氏館跡の南東五百メートル、お城山と呼ばれている標高ニ九八メートルの山頂に位置し、本丸は約六アール、西北部山腹に二の丸、その下段に三の丸跡がみられる。西部の他は総て急峻な斜面で、本丸跡の下方約一五メートルの山腹に南、東、北の三方にわたり幅三~五メートルの空堀が約二百メートル残っていて、不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城である。文禄(一五九ニ~一五九五)のころに破却といわれているが明らかではない。 昭和六一年三月 松平親氏公顕彰会

松平城跡縄張図

松平城址(まつだいらじょうし)

郷敷(ごうしき)城とも呼ばれる。応永の頃(一三九四〜一四二七)松平氏の始祖親氏(ちかうじ)が築いたと言われる。跡を継いだ二代泰親(やすちか)(親氏の弟。一説に子。)が三男信光(松平宗家三代)とともに岩津(いわづ)(岡崎市)に進出してからは、次男信広の居城となったと伝えられる。(信広、信光は親氏の子との説もある。)信広は松平郷松平家(松平太郎左衛門家(たろうざえもんけ))の祖となり、子孫はその後も松平郷にとどまって四四二石取りの交代寄合旗本(こうたいよりあいはたもと)となった。城の南東直下を新城街道(国道三〇一号)が通る。
城は標高三〇〇メートルの1が主郭(しゅかく)で、その西に三段の細長い曲輪(くるわ)(2〜4)が配置されている。これらの曲輪を南、東、北の三方向から囲むように横堀Aが巡らされており、途中数ヶ所で竪堀(たてぼり)となって斜面を下っている、そのほかに櫓台と思われる遺構Bや井戸跡Cなどが残っている。

廃城の時期については諸説があり定かではない。 豊田市教育委員会

二の曲輪

山頂の主郭跡まで辿り着くと巨石があり

その上に愛知県が設置した松平城の標石が建っている。

主郭

三の曲輪

主郭部を後にして二の曲輪を超えて三の曲輪まできました。

三の曲輪跡には、十一面観音像が奉安されている観音堂があります。

四の曲輪

櫓跡

観音堂が建つ場所から西に四の曲輪と続き、

その先に櫓跡があります。

櫓跡の前にはヤマモモの巨木

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