登呂遺跡・静岡県静岡市駿河区登呂
静岡県静岡市駿河区登呂、JR静岡駅南口から南東約2km、
約2000年前の弥生時代の遺跡「登呂遺跡」は国の特別史跡に指定されています。
昭和18年(1943年)に住友金属が軍需工業用地として埋立工事中に
弥生時代 後期のものと思われる「水田跡・住居跡・丸木舟」などを偶然発見しました。
戦後、4年近くに渡り考古学や地理学の専門家を中心に本格的な発掘作業の結果、
住居跡12棟・倉庫跡2棟の他、日本で初めて約1万2000坪の水田跡の存在が明らかにされ、
数多くの土器・木器類も発見されました。
登呂遺跡で初めて弥生時代の水田跡が発見されたことで
「弥生時代=稲作」というイメージが日本に浸透されることになります。
さらこの発掘調査をきっかけにして、日本考古学協会という組織が新たに発足するなど、
歴史を覆す大事件となりました。
現在は住居や倉庫が復元され、史跡公園となっています。
登呂遺跡内にある登呂博物館には、縄文時代から弥生時代を経て
近代に至るまでの農業や生活の移りかわりを伝える資料が展示されている。
特別史跡 登呂遺跡
所在地 〒422-8033 静岡県静岡市駿河区登呂5-10-5
問合わせ先 登呂博物館 TEL 054-285-0476
開館時間 9:00〜16:30
休館日 月曜日 祝日・振替休日の翌日・年末年始は休館
料金
・大人 300 円・ (中学生・小学生 50円)・ (高校生・大学生 200円)
(屋外展示および博物館1Fの展示は無料、特別展開催期間は特別料金)
アクセス 静岡駅からバスで20分
公園内には無料で入場でき、
地元の人の憩いの場として親しまれています。
国特別史跡 登呂遺跡
登呂遺跡は今から約12900年前の弥生時代後期の集落遺跡です。太平洋戦争中の昭和18年(1943)に発見され、昭和22年から25年(1947~1950)に行われた学際的な発掘調査により、弥生時代の人々の暮らしと米づくりの様子が日本で初めて明らかとなり、昭和27年(1952)に「特別史跡」に指定されました。
平成11年から平成15年度に行われた再発掘調査では、遺跡は洪水により2度埋没し、その度に復興された変遷が確認されるなど、集落の様子が細部にわたり明らかになりました。
特に、最初の洪水前の集落の姿が最も良好に保存されていたため、再整備では、その姿を復元しました。「案内板より」
日本考古学の金字塔 特別史跡 登呂遺跡
登呂遺跡は、第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に軍需工場建設の際に発見されました。学界の注目度は高く、また、弥生時代の水田跡の遺構が確認されたのは日本で初めてのことでした。
大量の土器・木製品などの出土品とともに、住居跡・倉庫跡などの居住域と水田域が一体となって確認され、「弥生時代といえば水田稲作」というイメージが定着する契機となったことに加え、この登呂遺跡の発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足されるなど、戦後の日本考古学の出発点としても記念すべき遺跡です。
こうした登呂遺跡の歴史的価値が認められ、昭和27年(1952年)には、弥生時代の遺跡としては初めて「特別史跡」に指定されました。
登呂遺跡H.Pより
登呂遺跡のあゆみ
日本考古学の新たな一歩が、ここから始まった。
国の特別史跡「登呂遺跡」。それは、日本の考古学にとって、また戦後の日本にとって、まさに「特別」な遺跡でした。登呂遺跡の発掘は、日本の歴史を神話から科学的な根拠に基づく史実で書き換え、戦後日本に新しい歴史観をもたらしました。また、弥生時代の稲作文化を証明し、敗戦に傷ついた日本人の文化的なアイデンティティの源泉ともなりました。それは、日本の考古学にとって新たな第一歩であるとともに、戦後日本の再生に向けた第一歩であったと言っても過言ではありません。
昭和18年(1943)軍需工場の建設中、弥生の集落跡を発見
登呂遺跡が発見されたのは、太平洋戦争が行われていた昭和18年(1943)のことです。戦闘機のプロペラをつくるための軍需工場を建設する時に、土の中から土器や木製品などが偶然に見つかりました。戦争中だったため、短期間の簡単な発掘調査しか行われませんでしたが、住居や倉庫、水田の跡が土の跡に残っていることが分かり、土器、石器、木製品などが発掘されました。
昭和22年(1947)から、本格的な発掘調査がスタート
昭和20年(1945)に戦争が終わると、昭和22年(1947)~25年(1950)にかけて、本格的な調査が開始されました。この発掘調査は、それまでの神話を元にした日本の歴史「皇国史観」を、科学的な方法で書き換えることでもありました。発掘調査には、考古学だけでなく、地理学、動植物学、建築学などの各分野の専門家が参加しました。また作業には研究者だけでなく、多くの学生や市民が参加し、「開放的な発掘調査」の手法がとられました。
調査の結果、12棟の住居、2棟の高床倉庫、8ヘクタールの水田跡が発見され、弥生時代後期(約2000年前)の稲作を中心とした集落(登呂ムラ)の姿が明らかになりました。住居や高床倉庫の形については、銅鐸や土器に描かれた絵などをもとに議論が重ねられ、昭和26年(1951年)に最初の復元住居が作られました。
昭和27年(1952)、日本の稲作文化が初めて証明された遺跡であり、戦後考古学の先駆けとなる遺跡であることが評価され、弥生時代の遺跡としては初めて、国の「特別史跡」に指定されました。昭和40年(1965)には、登呂遺跡の南側に東名高速道路が建設されることにともない、発掘調査を実施しました。これにより遺跡から南側のこの位置まで水田が広がっていることが分かりました。
平成11年(1999)からの再発掘調査で新たな発見が相次ぐ
昭和の終わり頃から、九州・近畿・東北などの全国各地で弥生時代の遺跡の発掘調査がすすみ、その研究成果から弥生時代のムラの様子が明らかになってきました。そこで、平成11年(1999)~15年(2003)の5年間にわたり、登呂遺跡の再発掘調査が行われることとなりました。
調査の結果から、登呂遺跡は洪水による被害を受けながらも、弥生時代後期から古墳時代(1世紀~5世紀)まで続いた遺跡だったこと、住居や高床倉庫の他に祭殿が建てられていたこと、住まいの区域と水田の区域の境に水路がつくられていたこと、水田の大区画の中を小区画に分けていたことなど、新しい事実が明らかになりました。こうした発見に基づき遺跡の再整備や登呂博物館の建て替えが行われ、平成22年(2010)に現在の登呂博物館がリニューアルオープンすることとなりました。
登呂遺跡H.Pより
復元水田
太い畦で大きく区分した中を手畦で小さく区画してあります。
水を均等に貯める工夫がされています。
手前に見る区画溝は居住域と水田域を分ける水路、
住居からの排水と水田への給排水の機能があります。
高床倉庫と竪穴住居復元
周囲に周堤(土手)があるのが登呂遺跡独特の作り方で、
外周には排水用の溝がありました。
高床式倉庫は収穫した稲を保管する際に使用していた建物で、
弥生時代の代名詞として有名です。
祭殿 復元
両側から屋根の棟木を支えるの斜めの柱(棟特柱)が特徴、
これは伊勢神宮にも残る様式です。
周りには建物がなく特別な空間となっています。
平成11年度の発掘調査で見つかりました。
住居
遺跡周辺は、地面を掘るとすぐに水が染みだしてくる土地のため、地面を掘って床や壁をつくる「竪穴式住居」を建てる場所としては不向きでした。そのため登呂遺跡では、床を地面と同じ高さにして、周りにドーナッツのような盛土で壁をつくり、さらに住居の外周に排水溝を掘りめぐらせて水の侵入を防ぐ「平地式住居」がつくられました。遺跡内には、現在までに19棟以上の住居があったことが分かっています。
高床倉庫
高床倉庫は、収穫した稲などを保管しておくために建てられました。湿気を防ぐために、地面から1.3mの高さに床を上げ、床と柱の間にはネズミ等の侵入を防止するための板「ネズミ返し」が挟み込まれています。遺跡内には、現在までに9棟以上の高床倉庫があったことが分かっています。
祭殿
祭殿は平成11年(1999)からの再発掘調査の際に発見されました。倉庫と同じ高床の建物ですが、大きさが7.2m×4mもあり、登呂遺跡では一番大きな建物です。周囲からは占いで使われる「卜骨」が見つかっていることから、この場所では祭祀が行われたものと考えられます。
復元水田
居住域の南東部に広がる低い場所に水田がつくられました。太い畔で区切られた大きな区画を、細い畔で小さく区切ることで、区間一面に水が行きわたるように工夫されています。大きな区画の畔や水路は、1回目の洪水の後、杭と矢板で補強されました。遺跡内には、現在までに大きな区画が約50区画見つかっています。
登呂遺跡H.Pより
登呂博物館
公園・遺跡・博物館が一体となった史跡公園を目指し、
昭和47年に登呂博物館が開館しました。
1階は農具などの民俗資料、2階には登呂遺跡出土品などの考古資料が展示されました。
平成6年には博物館1階を参加体験ミュージアムに改装、
これは、ただ資料を見るのではなく、来館者の自発的な「体験」を通して、
弥生時代や稲作についての理解を深めるという考えに基づくもので、
当時としては先進的な例として注目されました。