宇利城跡(163m)・愛知県新城市中宇利仁田




宇利城跡(163m)・愛知県新城市中宇利仁田

愛知県新城市中宇利仁田にある愛知県指定史跡「宇利城跡」(163m)へ

愛知県道81号「豊橋下吉田線」沿いに専用駐車場があり、

ここから登山道が整備されています。

宇利城跡駐車場より

愛知県道81号「豊橋下吉田線」中宇利信号交差点の場所に宇利城跡の専用駐車場があり、

ここから20〜30分程度歩きます。

宇利城跡 案内図

当時、東三河は今川氏に組みしていましたが、

松平清康(家康の祖父)が東三河に攻め入ってくると、周辺の武将は

清康に従うようになりました。

しかし、宇利城主の熊谷実長は今川氏への忠節を守り松平に反抗していたため、

享禄2年(1529年)「宇利の戦い」において清康は3千余りの軍勢を率いて、

宇利城を攻め落としました。

愛知県指定文化財 (史跡) 宇利城跡

昭和32年(1957年)9月6日指定 新城市中宇利字仁田 宇利城は連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~1487年)に今川方の熊谷重実が築城し、松平清康の侵攻によって享禄2年(1529年)に落城した。その後、天文14年(1545年)に今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城した。永禄11年(1568年)家康側に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといい、その後の宇利城の状況は定かではない。 家康期に城郭の改修があったと考えられるが詳細は不明であり、現在は山上に主郭(本丸)、姫御殿と呼ばれる二ノ丸などの曲輪、土塁、堀(横堀、堀切)などの遺構が残る。

「宇利の戦い」(概略)

東三河は今川市の勢力範囲であったが氏輝の代になるとその力も失われ、清康はこの機に東三河を手に入れようとした。 享禄2年(1529年)11月4日、三河平定を目指す松平清康は三千余りの軍勢を率いて、宇利城を攻めた。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などをそれぞれ従えたが、宇利城主の熊谷実長は今川氏との盟約を固守したためであった。 城郭の前面や側面が沼田で、裏手を山で囲まれた天然の要塞であった宇利城での戦況は熾烈を極めた。この時、城の大手で松平右京亮親盛(清康の叔父)が討死した。 清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城にひをつけたので城主実長は裏山伝いに落ちのび、ついに落城した。

―新城市教育委員会―

凄い数吊るされた空き缶にビックリ

畑の側道より山道へ

100m程登ると本丸へ

金山〜雨生山が望めます

愛知県指定史跡 宇利城跡

宇利の戦い

享禄3年(1530年)11月4日、松平清康は3千余りの軍勢を率いて、東三河をめざし岡崎を出発した。東三河は今川市の勢力範囲であったが、氏輝の代になるとその力も失われてきた。 清康はこの機に東三河を手に入れようとした。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などの城主は清康に従ったが、宇利城主熊谷重実はなかなか従わないので、宇利城へ向けて攻撃をはじめた。 野田城主菅沼定則を案内として、東上(一宮町)で豊川を渡り、八名井の今水寺で休息し、宇利に向かった。城の大手には松平右京亮親盛(清康の叔父)、松平内膳正定信(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の奥平貞勝が先導した。この戦いで城方370名、松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮が討死した。 宇利城は三方を山に囲まれた天然の要害で清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いにおちのびていった。 平成7年1月 ―新城市教育委員会― (「宇利城」跡解説板より)

城山(宇利城跡) 163m

熊谷備中守實長碑

宇利城主 熊谷実長の碑

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