鳶ヶ巣山砦 乗本万灯・愛知県新城市乗本神出




鳶ヶ巣山砦 乗本万灯・愛知県新城市乗本神出

愛知県新城市乗本神出、鳶ヶ巣山砦(とびがすやま)

長篠・設楽原の戦いの際、武田軍が長篠城を包囲・監視するために作った

5つの砦 (他に、君ヶ臥床砦・姥ヶ懐砦・中山砦・久間山砦)のうちの一つです。

天正三年五月二十日の夜、徳川の家臣 酒井忠次が四千の兵と五百丁の鉄砲隊を引き連れ

ひそかに五砦の背後に迫り、翌二十一日 武田軍とこの地で激闘を繰り広げます。

この「鳶ヶ巣の戦い」での銃声を期に長篠の戦いは開戦を迎えることとなります。

また鳶ヶ巣山砦の近くには万灯山と呼ばれる小山があり、

毎年お盆の8月15日の晩には鉦・太鼓・笛の囃子とともに、縄のついた麦稈製の万灯に

火をつけて頭上で振り回す「乗本万灯」という盆行事が執り行われます。

これは長篠・設楽原決戦場跡において行われる「信玄原の火おんどり」と並び、

精霊送りや悪霊鎮魂、または戦没者供養などの意味を持つとも言われています。

鳶ヶ巣山(鳶ヶ巣砦跡へ)

先程、常寒山付近で見たルートを通り、織田徳川連合軍の奇襲隊は

この地で武田軍と激闘を繰り広げます。

鳶ヶ巣山 案内図

鳶ヶ巣山 案内図

五月二十日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の武将を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の五つの砦を奇襲した。
この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣砦方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を使令した。
五つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ちとられ、残兵は「長走り」と瀬を渡って本体に合流しようとした。
その前夜、酒井忠次たち武将は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり五つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。
新城市

林道本久線を歩き向かいます

大日堂(大日山安居院)

鳶ヶ巣山砦に向かって行く途中に大日山安居院がります。

長篠の戦の時、この地に武田軍 武田信実の2000の軍勢が布陣した所だといいます。

愛知県指定無形民俗文化財に指定されている「乗本万灯」では、

村内の秋葉神社で熾された聖火は一旦、ここ「大日堂」に運ばれ、

この地より出発して万燈山にて万灯を振り奉納します。

金刀比羅神社

主郭跡はここから少し先の場所だったといいます。

鳶ヶ巣山(150m) 「鳶ヶ巣山砦」

長篠城監視の為に築いた5つの砦の一つ

「鳶ヶ巣山砦」には武田信玄の異母弟である武田信実が1千の兵で守備しました。

戦没将士の墓

鳶ヶ巣の戦い

鳶ヶ巣の戦い

天正三年五月八日、武田勝頼は一万五千の大軍を以って長篠城を包囲した。その時乗本側に五つの砦を築き(上図参照)守兵一千を配して周囲の一環とした。君ヶ伏床には和田兵部・姥ヶ懐には三枝勘解由兄弟・鳶ヶ巣には主将武田兵庫頭信実、中山には名和無理之助並びに五味予惣之助・久間山には浪合民部等がこれにより堂々陣を張っていた。
二十日の夜、徳川の臣酒井忠次は四千の兵と五百丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を超えひそかに五砦の背後に迫っていた。
二十一日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に、鬨の声を挙げ一斉に攻め込んで来た、武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、時に鳶ヶ巣では壮絶な争奪戦を三度も繰り返したが、ついに衆寡敵せずして、信実以下ことごとくここに戦死を遂げたのである。

鳶ヶ巣山陣地

鳶ヶ巣山陣地

天正3年(1575)長篠合戦において武田軍は長篠城包囲態勢の一環として乗本側の鳶ヶ巣を主軸に久間山・中山・姥ヶ懐・君が臥床の五陣地を築き武田信実兵一千を擁して守っていた。織田・徳川の連合軍は5月20日の夜、酒井忠次が四千の兵を率い密かに松山峠の嶮を越え背後を突く奇襲作戦に出た。両軍激闘の末信実は戦死し五陣地ことごとく壊滅した。鳳来町観光課

天正の杉

天正の杉

この枯木は、明治七年の台風によって倒れた杉の木の残がいである。倒れても暫く余命を保っていたが、昭和二十年頃遂に枯死してしまった。樹齢は不明であるが、三百年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから「天正の杉」と呼ばれている。

乗本万灯(乗本万灯山)

乗本万灯(乗本万灯山)

昭和51年7月14日指定
愛知県指定民俗文化財

盆の夜、万灯山と呼ぶこの小山で、鉦、太鼓、笛の囃子とともに、若者らが縄のついた小麦稈で作った万灯(シャトルコック状)に火をつけ「マンド、マンド、ヨーイヨイ」のかけ声と共に、頭上高く振り回す勇壮な火祭りです。
長篠の戦いで戦死した人々を弔うという伝承をもち、竹広の「信玄原の火おんどり」と共通していまう。この奇祭を村人達は、昔から伝えられた通りの作法を守って今も続けています。
(祭日8月15日:午前7時30分)

中央に長篠城跡・新東名高速道路と本宮山

乗本万燈

乗本万燈(のりもとまんどう)は、毎年8月15日の夜に愛知県新城市乗本本久地区にある万灯山で行われる火祭りである。1965年(昭和40年)に愛知県の無形民俗文化財に指定されている

本久地区に住む男子が、8月15日夜に万灯山にのぼり、麦わらでできた万灯に火をつけて、笛や鉦のお囃子にのせて振り回すことで、盆の精霊を送る。民に災いをもたらす悪霊を鎮めるとも、長篠の戦いの戦没者を供養するとも言われる。

行事

万灯の作成、お囃子の稽古などの準備と当日の行事は、全て乗本本久地区に住む青年期から壮年期の男子の手によって行われる。

準備

万灯はその年にとれた麦わらで作成する。万灯は振り手の体格や経験に応じ、大きさを変えて作る。数10cmに束ねたわら束の片端を編んでまとめ、わら縄をつなげる。万灯は前日までに作成して塩で清める。 お囃子の稽古は1ヶ月程前から行う。

当日

万灯を振る男子は万灯山の向かいの尾根にある大日堂に集まり、白いパンツとさらし姿に装束を整えて、日没後に万灯山に向かう。 万灯山では、たいまつの火をつけた万灯を振り回す。重さにして5-10kgほどある万灯は、始めは縄を短く持って加速をつけ、角速度が出始めたら次第に縄を長く持ち直し、最終的に2-3m程度の長さで振り回す。縄を長くすると速度が遅くなるため、火のついた万灯を地面に落とさないように振り回すには技量が必要である。

万灯山

万灯山のある新城市乗本本久地区は長篠合戦の舞台となった長篠城の対岸にある。万灯山は武田軍が長篠城を監視した鳶ヶ巣砦へ至る稜線の中腹、鳶ヶ巣砦址からおよそ300mほど北西側の尾根にあり、設楽原決戦前夜に起こった鳶ヶ巣山攻防戦では、万灯山を含むこの一帯で河窪信実らを含む武田方の武将・兵士が命を落とした。このため地元では乗本万灯は長篠合戦の戦没者を弔う行事だと伝承されている。

鳥居強右衛門がノロシを上げた雁峰山

右の大通寺山陣地跡と、その背後には武田勝頼の本陣 医王寺山陣地跡がありました。

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