阿波国 一宮 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)・徳島県鳴門市大麻町
徳島県鳴門市大麻町板東広塚に鎮座する阿波国一宮「大麻比古神社」
阿波・淡路両国の総産土神として崇められてきた古社です。
標高538mの大麻山の南麓、四国八十八ヶ所の第一番に当たる
霊山寺の北側1kmに鎮座しています。
社伝では、天太玉命の子孫 天富命が勅命を奉じ、肥沃の地を求め阿波に到達。
麻・楮を栽培し麻布木綿を作り、殖産興業・国利民福を進め、
守護神として「天太玉命」を祭ったのが始まりとされます。
当地を支配した粟凡直(粟国造)により崇敬されたと考えられています。
祭神は現在、「大麻比古大神(=天太玉命)」と「猿田彦大神」とされていますが、
明治以前は猿田彦大神と阿波忌部の祖であり父神「天日鷲命」を祭神としていました。
一の鳥居
ちょうど四国88ヶ所の1番札所で有名な霊山寺から壁沿いに進んで行くと、
朱塗りの大鳥居(一の鳥居)が建ちます。
霊山寺は平安時代から鎌倉時代にかけて大麻比古神社の神宮寺であったとも云われています。
ここから始まる大麻比古神社の参道(約800メートル)の入り口に建つ大鳥居は
平成14年に鋼管製で再建されました。(高さは14.6メートル、柱間11メートル)
元の鳥居は同じ大きさで昭和33年に鉄筋コンクリートと鉄骨で建設されましたが
老朽化のため再建されました。
参道と石燈篭
参道両側には樹齢2~3百年の黒松が群生していましたが、
昭和50年代に松食い虫の被害に遭いすべて枯死してしまったため、
今は楠を中心とした緑の並木となったそうです。
両側の石燈篭は平成16年から17年にかけて氏子崇敬者の寄進によって建てられました。
祓川橋
参道を進むと赤い橋、この橋は「祓川(はらいがわ・はらえがわ)橋」と呼ばれ、
昔はこの川で禊をしてから参拝していたといいます。
祓川橋の手前には「阿波國一宮 大麻比古神社」の社号標、
奥に見える山が「大麻山(おおあさやま)」で、
この橋を渡ると大麻比古神社の神域となります。
二の鳥居
祓川橋を渡ると石の鳥居(二の鳥居)が見えてきます。
車で訪れた場合、二の鳥居の左右に駐車スペースがあります。
(祓川橋の手前にも広い駐車場があります。)
大麻比古神社案内図
名称 大麻比古神社 通称 大麻はん(おわさはん) 旧称 大麻彦権現 大麻彦大明神 御祭神 大麻比古大神〔おおあさひこのおおかみ〕
〈相殿〉
猿田彦大神〔さるたひこのおおかみ〕鎮座地 徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13番地 創建年代 伝・神武天皇の御代 社格等 式内社 阿波国一宮 旧国幣中社 別表神社 延喜式 阿波國板野郡
大麻比古神社 名神大
鹿江比賣神社(境内社 鹿江比売神社)
宇志比古神社(境外摂社 宇志比古宇志比売神社)例祭 11月1日 神事・行事 1月1日/歳旦祭
1月2日/氏子崇敬者隆昌・交通安全祈願祭
1月3日/元始祭
旧1月1日~3日/神迎祭
2月3日/神火大祭
2月11日/紀元祭
2月17日/祈年祭
旧3月12日/大御神楽祭・湯立神事
6月30日/夏越の祓
8月18日/奥宮峯神社例祭
11月23日/新嘗祭
12月31日/年越の祓文化財 〈県史跡〉ドイツ橋
社務所
御神木の楠
麻比古神社の御神木は樹齢1000年以上の「楠の大木」で、
鳴門市の天然記念物に指定されています。
御神木の幹にあいた大きな穴を見ると、「才能の扉が開かれる」と云われ、
以前は、幹の穴にお賽銭を投げ込んでいましたが、今は保護のため賽銭箱が置かれています。
阿波一宮 大麻比古神社御由緒
御祭神 大麻比古大神 猿田彦大神由緒
神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に至りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き、国利民福を進め給い、その守護神として太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。大麻比古神社は、太祖天太玉命と猿田彦大神の御神徳を称えて奉った御社名と伝えられる。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え、阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給う。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って社殿の造営を行い、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費をもって本殿以下の造営が行われた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
大麻比古神社は、古来方除、厄除、交通安全の神として霊験を授け給い県内外の氏子崇敬者から「大麻さま」「大麻さん」「大麻はん」と親しみをこめた御名で崇められ、厚い信仰が寄せられている。
祭礼及び特殊神事
例祭 十一月一日 氏子崇敬者の奉仕によって神輿の渡御及び獅子舞の奉納などの神賑がある。 奥宮例祭 旧七月十八日 大麻山頂に鎮座する奥宮峯神社の例祭が行われ、氏子崇敬者の奉仕によって神幸祭が行われる。旧七月十七日宵宮から十八日早暁にかけて三回氏子崇敬者の安全を祈念する大祈祷祭が行われる。 神迎祭 旧正月元旦、二日、三日、本殿於て旧正月の神事が行われる。 湯立神楽 旧三月十二日 社務所前庭に湯竃を築き、忌火によって湯を立て、湯花を本殿に奉り、無病息災と五穀豊穣を祈念する。 神火大祭 二月節分当日 氏子崇敬者が願旨を記して奉納した祈祷木を神火によって焚き上げ、除災招福を祈願する。
社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命の御孫の天富命が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。
『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条によれば、当社は従五位下から従五位上へ神階が陞叙されている。『日本三代実録』の記事によれば、さらに当社は貞観9年(867年)4月23日の条で正五位上、元慶2年(878年)4月14日の条で従四位下、元慶7年(883年)11月1日の条で従四位上に神階を進めている。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社へ列格された。
平安時代から鎌倉時代にかけて、神仏習合思想に基づき神社を実質的に運営する神宮寺が各地で置かれたが、『諸国一の宮』では四国八十八箇所の第一番札所霊山寺が当社の神宮寺であったと述べている。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、別当寺は不詳であるとしている。
『朝野群載 巻6』には、神事に過穢があったことにより阿波国の大麻神が祟り給うたので、使者を遣わし中祓いを科して祓い清めるべしとの承暦4年(1080年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されている。
室町時代に成立したとされる『大日本国一宮記』には当社が阿波国一宮として記載されているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、南北朝時代に、伝統的な社格を誇り細川氏の守護所にも近かった当社が、敵対勢力であった一宮氏が神主を世襲していた一宮神社に代わる新たな阿波国一宮としての地位を得ることになった、と考察している。
『全国一の宮めぐり』によれば室町時代には細川氏や三好氏、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の庇護を受けたとしている。また、享保4年(1719年)には最高位の正一位の神階が陞叙されている。
明治6年(1873年)に国幣中社へ列格し、明治13年(1880年)に本殿以下が国費を持って造営された。
大正8年(1919年)、本殿の裏に石築アーチ橋が竣工した。この橋は第一次世界大戦の捕虜として板東俘虜収容所に収監されていたドイツ兵が帰国の際に彼らの提案と工事により建設されたことから、ドイツ橋と呼ばれている。
第2次世界大戦後に旧社格が廃止された後は神社本庁が包括する別表神社となり、昭和45年(1970年)には氏子崇敬者の寄進により祝詞殿・内拝殿・外拝殿が築造された。(Wikipedia大麻比古神社より引用)
大麻比古神社 由緒
神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合わせ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
御祭神
大麻比古大神(おおあさひこおおかみ)
猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
阿波の国を開拓した忌部氏の祖神が「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」で、
御神徳を讃えて麻植の神として敬われていました。
天日鷲命の御先祖である「天太玉命(あめのふとたまのみこと)= 大麻比古大神」
としてお祀りしているそうです。
猿田彦大神は元々大麻比古神社の奥にある大麻山の峯にお祀りされていたそうで、
後に大麻比古神社へ合祀されたそうです。
大麻比古神社 拝殿
麻比古神社の社殿は、2022年2月から「令和の大改修」として
約50年ぶりに屋根の銅板が葺き替えらえ新しくなりました。
大麻比古神社 本殿
こちらの本殿は1880年(明治13年)に国費によって再建されたそうです。
授与所
峯神社 登拝口
本殿裏手にある大麻山(538m)を登った山頂に奥宮「峯神社(弥山神社)」があります。
登拝口は拝殿横にあり、遙拝所は本殿の裏手にあります。
ここから約1~1.5時間(片道)ほどで登れます。
豊受社
境内社の豊受社(とようけしゃ)は御本殿のすぐ後ろにあります。
御祭神は豊受大神(トヨウケノオオカミ)、食物を司る神様で、
伊勢神宮の外宮にお祀りされていることで知られています。
山神社
境内社 山神社(やまじんじゃ)は豊受社の隣にあります。
御祭神は大山祇神(オオヤマヅミノカミ)、全国の山を管理する神さまです。
天神社近くにお祀りされている鹿江比賣命(カエヒメノミコト)の夫
中宮社
境内社 中宮社(ちゅうぐうしゃ)御祭神は不明です。
お宮は伊勢神宮の式年遷宮での古材を拝領して昭和49年(1974年)に造営されました。
奥宮遥拝所
山の方角に向いて立つお社は「奥宮遥拝所」
大麻山(538m)の頂上にある大麻比古神社の奥宮「峯神社(弥山神社)」の遥拝所です。
心願の鏡池とメガネ橋
第一次世界大戦の際に捕虜として板東俘虜収容所に収監されたドイツ人達が作った池と橋。
「ドイツ橋」とは違い、この橋は今も渡ることができます。
心願の鏡池
第一次世界大戦のさなか、中国青島(チンタオ)の戦いで捕虜になったドイツ兵士約千人が大正六年から九年にかけて、異郷の地板東俘虜収容所に過ごした。
ドイツ兵士達が、遠い祖国を偲びながら一日も早く故国に帰れることを願いつゝ、当神域を散策し、記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。板東の地で、日々を送った兵士たちは、地元の人々と国境を越えた暖かい友情で結ばれ今も尚、日独友好の灯をともし続けている。
以来七十有余年を経て、この度当神社では神池を拡張し、メガネ橋の周辺を整備して、「心願の鏡池」と命名した。
めがね橋
ドイツ橋と共に現存する一つで、本殿裏の心願の鏡池に架けられている。完成はドイツ橋より少し前の大正八年四月(1919)である。全長4.3メートル、全横1.2メートル、撫養石製、石積二重橋。
ドイツ橋
メガネ橋と同じくドイツ人捕虜が作った石橋。(徳島県の文化財史跡)
こちらは現在、文化財保存のため渡ることはできません。
ドイツ橋
第1次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となったドイツ兵953人が、大正6年から9年までの間、大麻町桧の板東捕虜収容所に収容されていました。この間地元住民との間に”国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い水準のドイツ文化が伝えられました。バターやチーズの製法、博覧会の開催、楽団による演奏会等地元の発展に大きく貢献しました。
帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られました。
ドイツ橋
第一次世界大戦当時、近隣の板東俘虜収容所で捕虜生活を過ごしたドイツ兵士が、地域との自由な交流の中で地元への感謝の気持ちを込め、母国の優れた土木技術を生かし、大正六年六月から大正八年六月までに十の橋を造った。
木橋が六橋、石橋が四橋で、現存するドイツ橋は同八年六月に神社境内の丸山公園に造った最後の石橋である。今では日独両国の友情の架け橋とされている。
県の史跡(平成十六年一月)に指定されている。全長九メートル、全横二・一メートル、高さ三・二メートル、撫養石(和泉砂岩)製、総重量約一九五トンの石積アーチ橋。
御朱印