高天神城 – Wikipedia
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静岡県掛川市にある高天神城跡へ(たかてんじんじょう)
高天神山の山頂付近にあり標高200m以下ながらも
両端が崖の尾根上、まさに天然要塞の城です。
高天神城の歴史
築城年代は定かではない。
永正10年(1513年)頃に今川氏親の重臣福島正成が城将として
高天神城に入城したことが初見とされる。
『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど重要な城であり、
武田氏と今川・徳川氏によって攻防が繰り広げられた。
今川氏没落後、高天神城主小笠原長忠は徳川氏に属していた。
元亀2年(1571年)武田信玄は二万越える大軍で高天神城を包囲したが、
これを落とすことができず撤退した。
天正2年(1574年)信玄の跡を相続した武田勝頼は二万余の軍勢を率いて再び高天神城を包囲、
力攻めと降伏勧告を繰り返し、小笠原長忠はついに支えきれず降伏開城した。
高天神城を手に入れた勝頼は岡部真幸(元信)、横田甚五郎尹松らを城将として守らせた。
天正3年(1575年)武田勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。
好機と見た家康は諏訪原城を攻略し、
天正6年(1578年)横須賀城を築いて高天神城への備えとする。
高天神城を攻略できない家康は小笠山砦など六つの砦を築いて付城としこれを包囲した。
籠城する岡部氏らは武田勝頼に援軍を求めたものの、
北条氏と対峙していた勝頼は援軍を送ることができず、
天正9年(1581年)にはついに兵糧が尽きた。
城将岡部真幸は籠城兵を従えて打って出ると大久保忠教によって討ち取られ、
ついに高天神城は落城した。
このとき横田甚五郎は秘かに城を脱して甲斐へ戻った。
家康は高天神城を焼き払って廃城とし、以後は横須賀城を拠点とした。
北口・南口それぞれに駐車場があります。
山頂付近にある高天神社の参道も兼ねています。
入り口には鳥居。
国指定史跡
高天神城跡この城は一城別郭式の城と言われている。
城の構造が東と西に曲輪(くるわ)が2つある。
東の曲輪方向には大河内氏の石窟。
模擬天宗、本宮(天神社)がある。
西曲輪方面には(天神社)武田氏特有の横掘、切割が確認できる。
高天神近くには、町指定天然記念物の「高天神追手門跡杉」
追手門跡(大手門ノ址)
追手門跡(大手門ノ址)
元亀2年3月武田信玄二万五千騎を率いて来攻、
城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。
天正2年5月武田勝頼二万騎を以って来攻包囲猛攻、
6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、
城兵必死の防戦、大石久未、川田眞勝以下城兵死傷75名武田勢死傷253名に及んだ。
天正8年10月徳川家康一万騎を以って当城包囲猛撃、
23日本多忠勝城門に追ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。
天正9年3月22日夜半城兵総突出に際し、
徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手櫓門を焼き落とした」
到着櫓跡
武田方が攻めてきた時にここに櫓があり
鐘を付き知らせたそうです。
三の丸跡
一番南側に位置する三の丸跡、絶景が広がります。
小笠山が見えます。
御前曲輪跡
御前曲輪跡から城下を望む
元天神社
御前曲輪跡の前に元天神社。
この場所が高天神山( 221m)の山頂に当る。
本丸跡
本丸跡
元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以って籠城、
本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。
天正2年5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦7月2日休戦9日開城、
城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、
武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。
天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として
一千騎を率いて入城した。
天正9年3月徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢えに瀕し
22日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて
城外に総突し激闘全滅した。
23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃城となる」
本丸北部に残る土塁の跡。
土塁跡
曲輪の入り口を虎口(小口)と言いその残部である。
近世の城と言われているように、
この場所を枡形(クランク)状にして敵の侵入を防御している。
的場曲輪跡
的場曲輪跡
この場所は、表示から想像すると、
弓矢等の練習をしていた場所と言われている。
数年前に発掘した時は、砂利がひきつめてあった事が確認されている。
これは、重い物を置いても沈まないようにする為、
あるいは鉄砲の弾薬を置いた場所で、
湿気防止の為ではないかと言われている。
袖曲輪跡
高天神歌碑(松本亀次郎作)
かな井戸
「かな井戸」周辺は井戸曲輪跡となっている。
鳥居
「かな井戸」前の石段を上がると高天神社へ至る。
高天神社
高天神社(たかてんじんじゃ)の記事は別にまとめてあります。
高天神城の合戦での戦没追悼碑
ニの丸跡
本間・丸尾兄弟 戦死の址
天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、
武田軍の銃弾に当たり討死にした。
堀切跡
隍掘跡(からぼり)
この城は、北・南・東は断崖絶壁となっている。
西側だけが緩斜面のため、武田氏によってこの方面から攻められた。
武田氏が墜してから弱点である。
この方面を補強するため武田氏が、得意とする長大な横掘を作った
神社裏から馬場平へと続く道、
切割を越えていく。
馬場平からの眺めは素晴らしい。
この先、甚五郎抜け道と呼ばれる険しい尾根道が続く。
甚五郎抜け道
転生九年三月落城の時、
二十三日早朝、軍監横田甚五郎伊馬松は
本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、
馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を
辿って脱出し、信州を経て甲州へと続け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
尾根道沿いを歩きます。
両端は切立った崖、標高以上に高さを感じます。
小笠山の雰囲気に似ています。
ここから尾根分かれに楞厳地山(220.6m)の頂上があります。
下調をしないで行ったため辿り着けませんでした。
(後日、一等三角点のある楞厳地山へ)