氷室神社・奈良県奈良市春日野町
奈良県奈良市春日野町に鎮座する「氷室神社」
和銅3年(710年)7月22日、元明天皇の勅命により、
吉城川上流の春日山にある月日磐に氷神を奉祀したことに起源するといいます。
御祭神は「闘鶏稲置大山主命」「大鷦鷯命」「額田大仲彦命」の三柱
現在でも製氷販売業や冷蔵冷凍業界の信仰が篤く、毎年5月1日には献氷祭が執り行われます。
献氷祭とは、奈良時代に氷室(氷の貯蔵所)を設けて神を祭ったことに由来する、
氷室神社最大の行事です。
毎年5月1日に行われ、当日は舞楽奉納の他、鯉や鯛を封じ込めた大型氷柱が神前に供えられ、
かき氷が無料で振る舞われます。
また、氷室神社では氷の神社ならではの「氷のおみくじ」も大変人気があります。
他の神社ではなかなか体験できないおみくじですので、参拝された際にはおすすめです。
御由緒
元明天皇の御世、和銅3年、
勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられました。
これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われます。
翌年初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上されました。
奈良朝七代七十余年間は継続されましたが、平安遷都後はこの制度も廃止され、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年に現在の地に奉遷され、左右二神を増して三座となりました。
以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われましたが、明治維新後はこの制度も廃され、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいます。
また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高宿禰の霊祀なる舞光社があります。 氷室神社H.Pより
氷室神社 四脚門
応永九年(1402年)禁裏造営の際、旧御所の日華門と御輿宿を当社に寄付され、
寛永十八年(1641年)の禁裏造営の時にも日華門の扉が下賜されました。
現在の四脚門の扉はこの時のものです。
切妻造、本瓦葺の四脚門に翼廊が接続した禁裏御所の遺構です。
奈良氷室神社の献氷祭
奈良時代、この春日野に氷池(新公会堂のあたり)や氷室(荒池・鷺池を望む浅茅ヶ原一帯を推定)を設け、氷室の守り神を祀り、春迎えの祭りを行い、順調な気候の推移と豊作を祈願する重要な祭祀が営まれたようです。
また、氷の朔日ということがあり、古来より旧暦6月1日に、宮中では氷の節会・氷室の節会があり、また民間ではこの日、歯固めと称して寒餅、凍餅を焼き、神仏に供えて食べるなどの風習があります。
寒餅とは小寒から節分までのおよそ30日の間に作られ、冷凍乾燥した餅のことで、寒さが厳しい年ほど保存度が良いといわれます。また、正月元日の節会に宮廷では氷様(ひのためし)という行事がありました。
前年(12月)の各地氷室の氷の厚薄を奏上するために、石や瓦でそのひな形を作ったといいます。その蔵氷の厚薄をもって今年の豊凶(厚きを豊年、薄きを凶年)を占ったのです。
自然現象に兆しを見ようとする慣習から派生している農耕文化の一端と見ることができます。今日、献氷祭は全国各地から製氷・販売業者が参列し今年の業績成就を祈願する祭りとなり、業界繁忙な6月を避けて5月1日に行われています。夏期の天候が勝負という業界の人々の願いは、日本の稲作成就の条件とも同じであります。
今日ほど、冷蔵冷凍技術の恩恵にあずかっている暮らしもかつてありません。
食品、冷暖房など日常生活から最先端技術に至るまで、あらゆるところに発達した冷の技術がありますが、人間は今も順調な天候の推移に恵まれなければなりません。この祭りの続く所以でもあります。
当日は鯛(海の幸の代表)や鯉(里の幸の代表)を封じ込めた二基の大型氷柱や花氷の奉納をはじめ、かき氷の頒布、舞楽奉納などの神賑行事が行われます。 氷室神社H.Pより
氷室神社 本殿
拝殿・舞殿 (奈良市指定有形民俗文化財)
氷室神社は江戸時代に朝廷や幕府の行事に参勤した三方楽所の一つ南都方の楽人が拠点とした神社で、神主も楽人が勤めていました。ここでは楽人による舞楽奉納を中心とする祭りが行われていました。拝殿は、舞楽を上演するための舞台で、四脚門両側の東西廊を楽所にして左方と右方の舞人が舞殿で舞を舞いました。奈良は古来雅楽の中心地の一つでありましたが、その楽人の拠点が氷室神社です。
拝殿・四脚門・東西御廊・末社舞光社は旧南都方楽所の遺構です。御本殿 (奈良市指定文化財)
御祭神
中央 / 闘鶏稲置大山主命・左 / 大鷦鷯命・右 / 額田大仲彦命