宮道天神社(みやじてんじんじゃ) 豊川市赤坂町宮路




宮道天神社(みやじてんじんじゃ) 豊川市赤坂町宮路

豊川市 宮道天神社 – 豊川市観光協会
http://www.toyokawa-map.net/kanko/miyamichi.php

宮路山(みやじさん)の麓にある宮道天神社(みやじてんじんじゃ)へ参拝しました。

山岳信仰の残る山と、その麓の神社は漢字の読みを変えてある場合が多いですが、

こちらも神社も同じく、また天神社であることから菅原道真公を祀ります。

しめ縄の感じが素敵。

一度参道を通りもう一度境内へ


御神木


手水舎


二の鳥居


拝殿

宮 道 天 神 社

鎮座地
豊川市赤坂町宮路1,120番地番
例祭日
8月20日
祭 神
建具児王・大山咋命・草壁皇子
由 緒
国内神名帳」に正五位下宮道天神とあり、
日本武命の皇子建具児王が宮道別の祖で宮道の別宮道君という宮道を氏とする。
一條天皇の時、大江定基、三河国司に任ぜられた際、
赤坂の長者宮道弥太次部長富の娘刀寿をめとる。(今、長福寺の山頂に基がある)
この弥太次郎、日吉大社を勧請大山咋命を合祀する。
文治6年(1190)12月、源頼朝上洛の帰途安達盛長に代参させ、
鞍馬の装束を奉納し、武運を祈る。
元亀2年(1572)領主松平左京亮盛次社殿を嶽の社地に、拝殿を麓に造営する。
元禄8年(1695)再建にあたり徳川幕府代官太田弥太郎金参拾両を献進した。
明治13年3月23日、宮道天神社と改め、同年8月村社に列し、
同40年10月26日、供進指定をうけ、大正14年10月9日、郷杜に昇格した。
神徳〝雨乞い。


境内社


社務所


宮道天神社 本殿(奥の院)

宮路山の山頂付近に宮道天神社の本殿(奥の院)があります。

今は通称(奥の院)とされていますが、正式には本殿

少し違和感を感じますが、東海道以前はこちらがメインの街道だったと聞いて納得。

訪れた際も地域の方が持ち回りで境内を清掃されていました。

おかげで本殿内も拝見できました!!

宮道天神社 本殿(奥の院)

第12代景行天皇(71-130年在位)の時、穂の国(東三河)の県主として
この地を宮道別(みやじわけ)としました。
王子となって治めたのは景行天皇の子、
日本武尊の息子である建貝児王(たてがいこのおおきみ)といわれています。
さらに建貝児王の子、宮道宿禰速麿が「穂」の県主を継いだ。
その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある
宮道天神社の起源といわれています。
(また、穂の王子となったのは、景行天皇の子、宮道別王子だったという説もあるようです)
宮路山の名が歴史に出てくるのは大宝2年(702年)。
このころ、持統上皇が三河を巡行。その最中(701年)に大宝律令が公布され、
穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。
壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、
皇子は宮道天神社の祭神となっています。
今となっては、宮路山山頂付近に本殿があるのは不自然にも思えますが、
東海道ができる以前は、むしろこちらがメイン道路であったと思われます。
鎌倉街道も宮路山山頂を通過していました。

浅間神社(大峯山)

一の鳥居を抜け、二の鳥居がある境内に入るとすぐ右側に

大峯山、浅間神社10分とあったので登ってみました。

大峯・役行者、修験道の雰囲気がします。

少し登ると獣除けの柵があります。

よく地形を見ると宮道天神社の横から尾根が始まっていて

その一番高い所まで上がるようです。

数百メートル置きに像があります。

鳥居には大正とあります。

そこまで古いものではないですが、損傷が激しいです。

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