伯耆大山(弥山)1709m




伯耆大山(弥山)1709m

中国地方最高峰で日本百名山の「大山(だいせん)」に登って来ました。

大山は鳥取県にある標高1729 mの山で、最高点は「剣ヶ峰」です。

現在は剣ヶ峰に至る縦走路が危険であることから立ち入りは禁止されており、

いにしえより「弥山(みせん)・標高 1709 m」で祭事が行われたことから、

一般に第二峰の弥山を頂上としています。

「角盤山(かくばんざん)」と呼ばれるほか、「伯耆大山(ほうきだいせん)」

見る方角によっては富士形に見えるその山容から、「伯耆富士」や「出雲富士」

とも呼ばれています。

大山の存在が初めて文字で記されるのは、733年「出雲国風土記」で、

その時代には「伯耆の国なる火神岳(ひのかみだけ)」の名で登場します。

古来より強力な神が住む地とされ、

仏教伝来後は、山腹に建立された大山寺は山岳信仰や道教も採り入れながら

真言宗の信仰の地として多くの修行者が訪れた霊山として知られています。

大山(だいせん)弥山

標高 1709m(弥山) 登山日 2024年9月6日
日本百名山 中国地方最高峰
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山

難易度 ★     オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 夏山登山口
スタート地点(4:12)→大山寺橋・南光河原駐車場(4:13)→夏山登山口(4:17)→三合目(4:45)→五合目(4:56)→行者谷分かれ(4:59)→六合目避難小屋(5:06)→八合目(5:29)→石室方面との分岐(5:35)→大山頂上避難小屋(5:43)→大山頂上碑(5:55)→大山頂上避難小屋(5:59)→石室方面との分岐(6:06)→八合目(6:11)→六合目避難小屋(6:25)→行者谷分かれ(6:30)→元谷堰堤右岸分岐(6:50)→元谷・下宝珠越分岐(6:50)→大神山神社(7:05)→大山寺(7:16)→ゴール地点(7:40) 所要時間 3時間26分 累積標高 944m / 940m 距離 6.9m

日本百名山』(にほんひゃくめいざん)は、小説家、随筆家の深田久弥の著した山岳随筆。文筆家で登山家でもあった本人が、実際に登頂した日本の各地の山から自身が定めた基準で、100座を選び主題とした随筆集。

大山夏山登山口

大山夏山登山口より

大山には「夏山登山コース(夏山登山道)」・「ユートピアコース」

大きく分けて2つのルートがあります。

夏山登山コースの方が初心者向きといわれています。

山頂の10合目まで、1合毎に案内板が建っているほか、

100m毎に標高を示す標識が設置されていて目印になります。

六合目避難小屋より

5合目まではひたすら階段の登山道が続きます。

行者登山口への分岐を過ぎ、6合目避難小屋で展望が開けます。

避難小屋周辺は少し開けた場所になっていて、休憩適地となります。

8合目案内板

6合目を過ぎたあたりから徐々に低木主体となり、

時折振り返ると、周囲の景色がよく見えるようになってきます。

日本海と左に孝霊山

剣ヶ峰から天狗ヶ峰 (現在は立入禁止区間となります)

8合目を過ぎたあたりでは、目の前に大きく山頂部が見えて来ます。

9合目の少し手前から日本最大広さ8ヘクタールのダイセンキャラボクの群生が見られます。

ダイセンキャラボクは国の天然記念物に指定されています。

保護のため木道で整備された道となります。

振り返ると日本海が広がる

大山頂上避難小屋

弥山直下にある「大山頂上避難小屋」は1985年(昭和60年)に整備され

2020年(令和2年)改築された新しい避難小屋です。(冬季間も避難可)

トイレと休憩スペースがあるほか、売店もあり、お土産や飲み物などの販売もあります。

(この日は9時~14時の販売でした)

大山(弥山)1709m

最高峰は剣ヶ峰(現在は立入禁止)ですが、

古来 弥山にて神事を行ってきたことから、こちらを山頂とするようです。

この日は、山頂からでの日を狙って山頂に至りました。

朝もやの中、周囲の景色ははっきりとしませんが、次第に色付いてきます。

大山 剣ヶ峰より日の出

大山の影

下山し始めると多くの登山者とすれ違います。

5合目~6合目間の分岐より、行者登山口へと下りました。

こちらのルートは木道が整備され、

登山者も少く静かに歩ける好みのルートでした。

木々越しに北壁

元谷

元谷は、北壁から崩落してきた土砂がたまり広大な川原状となった場所です。

眼前に屏風のように広がる大山北壁は、圧巻の大迫力です。

大山寺方面へ

元谷より大山寺方面へ下ると、広い大神山神社の境内に出ます。

社殿は「国内最大の権現造り」で、国の重要文化財にも指定されている荘厳なものでした。

大神山神社奥宮

大神山神社

伯耆大山は、天平5年(733年)に成立した「出雲國風土記」に火神岳(ほのかみのたけ:大神岳)として見え、平安時代の「続日本後記」や「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」にも「伯耆國大山神」と記録されていることからも、大山が古代から神坐す山として信仰されてきたことがうかがえます。
「大山寺縁起」によれば、修験の地として始まった大山の山腹に金蓮上人(きんれんしょうにん)によって寺が建てられるようになったのは、奈良時代の頃とされます。その後、天台宗の影響を受けて天台寺院となりました。また、中門院(ちゅうもんいん)、南光院(なんこういん)、西明院(さいみょういん)の三院が12世紀までに成立しました。伯耆大山寺として、この三院を総称して呼ぶようになったのは室町時代以降のことです。各院は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来を信仰し、三院の中心理念として地蔵菩薩が祀られました。その地蔵菩薩が大智明権現(だいちみょうごんげん)という称号を受け祀られた社が大智明権現社であり、現在の大神山神社奥宮です。
伯耆大山寺が、寺と神社に分かれるようになったのは、明治8年の神仏分離政策による大山寺号の廃絶によるもので、この時に伯耆大山寺から大神山神社へと名称が変えられることになりました。明治36年には大山寺号の復興が認められましたが、大智明権現社(奥宮)と下山社(しもやましゃ:下山神社)が神社名義のまま残ることとなり、現在に至っています。
大神山神社奥宮は、承応2年(1653年)に建立されましたが、寛政8年(1796年)に火災で焼失し、文化2年(1805年)に京都の大工、三輪平太によって社殿再建がなされました。壮大な権現造で、拝殿・本殿二棟の建造物を幣殿で結び、拝殿の両側に長い翼廊を設け、屋根は柿葺、入母屋造です。また、拝殿は壮大な唐破風をつけ、柱間は三つあり、中央入口の柱間は内側より広く、柱は円柱で50cm近くあります。幣殿内の格天井には美しく彩色された234枚もの花鳥人物が描かれ豪華を極めており、国の重要文化財に指定されております。

神門をくぐり参道へ、この大神山神社 奥宮へと続く参道は全て自然石で造られており、

「日本一長い石畳の道」なのだそうです。

大山寺

大山寺(だいせんじ)

鳥取県西伯郡大山町大山9

山号 角磐山(かくばんざん)

宗派 天台宗

寺格 別格本山

創建 養老2年(718年)

開基 金蓮

本尊 地蔵菩薩

大山寺の由緒

大山は、『出雲風土記』に火神岳あるいは大神岳と記された古くからの信仰の山で、約1300年以上も前から修験道の荒修行の場所として崇敬され、奈良時代となる養老2年(718年)、出雲国造俊方(金蓮上人)によって「大山寺」が開創・創建されたことに始まります。開山時は真言宗の寺院でした。

平安時代の貞観7年(865年)に天台宗となり、天台宗別格本山角磐山大山寺として指定されました。寺には地蔵菩薩の顕現として大智明権現が祀られました。

鎌倉時代から室町時代にかけての大山寺は尼子氏や毛利氏などの戦国武将からも崇敬され、盛んに寄進や造営がなされ隆盛を極めました。その後は、高野山金剛峯寺や比叡山延暦寺と並ぶ大寺となり、「大山僧兵3000人」と言われるほどの勢力になりました。

江戸時代に入ると幕府から3000石の寺領が安堵され、西明院谷、南光院谷、中門院谷の三院谷の上に本坊である西楽院が支配する一山三院四十二坊の体制がとられました。

明治時代に入ると神仏分離と廃仏毀釈が起こり、明治8年(1875年)に大山寺の寺号も廃絶され寺領の多くも没収となりました。

本尊であった大智明権現が大神山神社奥宮に移され、本堂には従来の本尊に代わって米子市内の大神山神社の御祭神が祀られました。

明治36年(1903年)に大山寺の寺号は復活したものの、42あった子院は現在10を残すのみとなりました。

大山寺山門

大神山神社・大山寺へ参拝、駐車場に戻り終了です。

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