神道修成派(しんとうしゅうせいは)神道修成派大元祠




神道修成派(しんとうしゅうせいは)神道修成派大元祠

神道修成派 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/神道修成派

静岡県磐田市大平にある獅子ヶ鼻公園の公園上第2駐車場から少し進んだ先に

神道修成派(しんとうしゅうせいは)本部教会の大元祠があります。

明治時代、教派神道として認められた教団は
基本的に「神道○○派」という名前で独立している。
明治15年には「自分達は分派では無いので”派名”を”教名”に変更したい」と
当時独立していた神道神宮派、神道大社派、神道扶桑派、神道実行派、神道大成派、
神道神習派、神道御嶽派、神道黒住派が連名で内務省に出願した。
明治15年11月6日に内務省が許可を出し、こうして神宮教、大社教、扶桑教、実行教、
大成教、神習教、御嶽教、黒住教という現在使われている教名になった。
そしてこの署名に唯一参加しなかったのが神道修成派で、
「あくまでも自分たちは神道である」との立場で現在でもその名を守り抜いている。
新田邦光によって創設された神道修成派は明治9年10月23日に”別派差許”された、
黒住教と共に最も早く独立した教派神道だった。

新田邦光は文政12年(1829)12月5日、阿波徳島藩の士族に生まれる。
先祖は南北朝時代に後醍醐天皇を支えた新田義貞の弟、新田義助で、
この事が後に邦光を尊皇思想へと向かわせる。
幼いころから聡明で書を好んだらしく記憶力が良く七歳で論語を読んだらしい。
勉学を好み、弘化4年に19歳になった邦光は中国地方を巡り旧跡などを訪れている。
そして幕末動乱が始まる直前の嘉永元年、邦光はある志を立てた。
「我国は神国たり、民は神孫たり、奉戴する所は萬世一系の 天皇即ち現御神なり」
「神道を興起し人民を教導啓発し之を涵養するの急にして
一日も忽諸に附すべからざるを認め、布教伝道の志を立て」るというものだった。
神道修成派ではこの年を立教元年としている。
天啓や神の声が聞こえて立教というケースが目立つ教派神道の中で、
神道修成派の立教起源は邦光の勉学の中での立志なのが特徴的である。
その後の邦光の活動も宗教家というよりも典型的な尊皇志士で、
京都や江戸など各地を周って同志らと語り合っている。
嘉永六年、浦賀にペリーが再来航した時は自ら警備に向かった。
「京都を護るは大阪を衛るにあり、大阪を衛るは紀淡藩の沿海を守るにあり」と
思い立って大阪湾内に外国艦を入れないための策を徳島藩に建言したり、
岩倉具視や木戸孝允、梅田雲浜、橋本左内らとも交流した。
国事に奔走する合間にも各地で遊説を行い門人を獲得していく。
「皇国の礎を樹て外夷を攘うは神道を布き人心を固結するにあり」
と、この頃から邦光は説いていた。
門人たちには兵学や儒学と共に神道を説いていて、
後にこの門人たちが信者という形になる。
やがて明治維新・王政復古となり、戊辰戦争が始まると
邦光は岩倉具視に美濃飛騨の攻略を建言、門弟と共に官軍に加わり
高山藩に対して王政復古を説いて無血平定する。これにより、
邦光は飛州高山取締になった。取締として政務を執行した際、
善政として領民たちからは信頼されていたという。
ところが数日後、再び国事に奔走しようと京都に向かう準備をしていると
東山道総督府に呼び出された。美濃から武蔵国にある東山道総督府出張所に出頭した
邦光を待っていたのは「御疑の筋之有、取調中、
暫くの間忍藩に御預」という処分であった。
どうやら高山藩の引き渡しについてあらぬ嫌疑がかかったらしく、
赦免される10月まで忍藩での幽閉生活を余儀なくされた。
この幽閉生活をきっかけに新田邦光は政治活動や官界での活躍を断念し、
教化活動へと身を投じていくことになる。
赦免後は農業をする傍らで幕末期と同じく門人達の教育に当たったが、
明治四年になって政府が国民教化を行う教導職制度が始まると、
すぐに教導職となり教化活動を活発に行った。
明治6年には門人達をまとめて修成講社を結成している。
明治9年にはこの講社を基に『神道修成派』として特立を許可され、
黒住派と共に最も早い独立を得た。
このようにとんとん拍子に独立まで運んだのは門人の増加もさることながら、
邦光が幕末期から作り上げてきた岩倉や有栖川宮などの人脈が影響している。
儒教と神道を組み合わせた教義や、出来るだけ国産品を使うことを推奨する教えなどが
明治という時代にマッチし、信者は増加し続けた。
また富士信仰や御嶽信仰など他信仰の教会を傘下に組み入れたことによって
その教勢は大きく伸びている。
四国では陰陽道の一派とされている「いざなぎ流」の人々も傘下教会に入っていたそうだ。
明治35年に新田邦光は亡くなるが、以降は徐々に教勢は衰えていった。
大正・昭和と時代が移りにつれ、
明治時代にマッチしていた教義が仇となったとも言われている。

神道修成派

神道修成派(しんとうしゅうせいは)は、
東京都杉並区松庵に法人本部(教庁)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。
天之御中主神・高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐大神、天照大御神、天神地祇
八百万神を総称した修成大神を祭神としている。
教義は儒教の影響を受けている。信者数は約1万1千人。
Wikipedia

神道修成派(しんとうしゅうせいは)

御祭神
造化三神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)
伊邪那岐神 天照大御神 天神地祇八百万神
以上の神々を総稱して、修成大神と奉稱する。

教主
管長 新田邦夫
教典
「修道溯源」「修成道教典」「顕幽略説」

創始者
新田邦光(1829~1902)
儀式・行事
大祭(4月4、5日)
教祖教霊祭(11月24、25日)
星祭大祈祷(2月5日)
月次祭(毎月第1日曜日)
月次霊祭(毎月25日)

後継者
二代 新田邦貞
三代 新田邦達
四代 新田邦夫

教 史
教祖・新田邦光は、徳島県美馬郡脇町拝原で誕生。
もと竹沢寛三郎といい、幼少より文武両道を研鑽し、
脇屋義助(新田邦貞の弟)の子孫であるとの自覚のもとに、
19歳頃より諸国を巡遊し、勤王の志士として、
粟田宮、岩倉具視、梅田雲浜、橋本左内らと交遊し、
嘉永6年には大森の海岸警備に参加している。
神道家としては、嘉永元年(1848)20歳の時、
布教伝道の志を立て(立教元年)、安政年間には
京都聖護院村で門人の教化を開始した。
明治維新に際しては濃飛鎮撫の大命を拝し、門人を率い、
王政復古の主旨を説き、戦わずして鎮撫し、飛州高山取締となったが、
年貢半減問題などの政治の渦中に巻き込まれ、武州忍城に幽閉された。
その半年間の幽閉中、大病に罹るなどの困難も加わったが、
神の御加護により生死の境を越えたことにより宗教的回心に達した。
そして、赦免されてからは、修成道の教法によって教導に専念することになり、
明治二年(1869)、古事記、日本書紀の神道聖典に源由した哲理であり
神道神学の神髄である「修理固成光華明彩」の教法によって
開教することになった(開教元年)。
明治6年8月に「修成講社」の創立が教部省より許可され、
さらに明治9年(1876)10月23日に一派特立が許可され、
以来「神道修成派」の教団名を一貫して用いている。
昭和28年4月、本部教会「大元祠」を静岡県磐田郡豊岡村に遷座。
昭和51年に御神殿、開教120年にあたる平成元年に大拝殿が
大元祠山上祠に造営され、平成8年10月23日に特立120年を迎えることになる。

教 義
神道修成派では、「修理固成光華明彩」を八字の御称号と申し、
常に心に念じ口に唱えている。造化三神の御神勅「修理固成」は、
森羅万象を立派に完成するのみならず、とくに、
天神の分霊である自己の心魂を正しくすることであり、
さらに天照大御神の公明正大な御神徳「光華明彩」を体して
修成道に励み、幸福な人生、社会を築くことを目指している。
より磨き、神に習いながら生きることを良しとする。

祭式と祈り
教義のところで述べたように、神道修成派では、
「修理固成光華明彩」の八字の御称号を常に心に念じ口に唱えているのであるが、
祭式および祈りにおいても、八字の御称号を全員で奉唱するとともに、
「修成道教典」も奏上して、雑々の思慮を洗除し至誠の心を固め、
神人合一の境に達することを目指している。
その他は、おおむね神社神道の儀式を基本としている。

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