井伊谷城跡(城山公園)・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷




井伊谷城跡(城山公園)・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)

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「おんな城主 直虎」推進協議会

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷

平成29年 大河ドラマ「おんな城主 直虎」井伊氏の城としても有名な

井伊谷城跡(城山公園)へ

この日はこの辺の井伊直虎 ゆかりの地を巡ってみました。

それまでとその後の記事はこちら

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引佐多目的研修センター駐車場より

近くの「引佐協働センター」には青葉の笛・複製展示がされている。

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青葉の笛・複製展示

引佐協働センター2階ギャラリーに、井伊直親(亀之丞)が、
信州から井伊谷へ帰還する道筋で、寄進したと伝えられる「青葉の笛」が展示されている。
(全長33cm黒漆仕上げ)。

引佐協働センターギャラリー 浜松市北区引佐町井伊谷616-5
☎053-542-3660 開/8:30~17:15 休館:土・日・祝日

引佐協働センター

引佐協働センター裏に登城口があります

入口には案内板

伊谷城跡(城山公園)

伊谷城跡(城山公園)

井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、
浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。
南北朝の動乱期(1336~1392)には、この地に宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を迎え、
南朝方の活動拠点としました。
戦国時代には当地の支配権を巡って、今川、武田、徳川の各勢力が争い、
当主である井伊氏は大きく翻弄されました。
とくに、永禄5年(1562)に井伊直親が謀殺された後には適齢の男子がなく、
井伊氏は存亡の危機を迎えました。
この時に、城主としてふるまったのが、女性領主、井伊直虎です。
天正3年(1576)直虎は直親の子である虎松(のちの井伊直政)を徳川家康に引き合わせ、
井伊氏再興の道を開きました。
平成28年3月 北区まちずくり推進課

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途中に城山稲荷があります。

その手前には見晴らしポイントと休憩所が置かれている。

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城山稲荷

ゆっくり登り15分程度で山頂へ(標高114.8m)

遠江 井伊谷城 市指定史跡

遺 構 曲輪、土塁
形 式 山城(114.8m)
築城者 井伊道政
築城年代 南北朝時代
所在地 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字城山

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井伊谷城跡(城山公園)

井伊谷城跡(城山公園)

井伊谷城はこの地の領主である井伊氏が築いた山城です。
標高約115mの山に、単郭式の曲輪が築かれています。
山頂の半北半分は自然の地形を残し、南半分は平に均されています。
曲輪の周りには土塁がめぐり、南側と西側に出入り口をもちます。
南側の出入り口は大手に西側の出入り口は搦め手に相当します。
大手口の両側には土塁が高く築かれており、防御を固めています。
井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその麓にあった城館に加え、
最終的な詰め城である三岳城(井伊谷城の北東2kmに所在)で構成されていました。
江戸時代の記録によると、井伊谷城は「御所の丸」と呼ばれていました。
南北朝の動乱期(1336~1392)に、南朝方の拠点として宗良親王(後醍醐天皇の皇子)
を擁した場所と関連づけられていたことがうかがえます。
平成28年3月 北区まちずくり推進課

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井伊谷城と城山

井伊谷城と城山

井伊城はこの城山の南麓にあり本丸、二の丸、三の丸に分かれ井伊家の居城であった。

延元元年(1337年)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子 宗良親王
をお迎えしてより、元中二年(1385年)八月十日宗良親王この地で薨去し給うまで約五十年、
親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊谷城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、
上野の国々を転戦された。

平時にこの城山の御所の丸に居られ

夕暮れは湊もそことしらすげの 入海かけてかすむ松原

はるばると朝みつしおの湊船 こぎ出るかなたは猶かすみつつ

の御歌がのこされている。

この城山の一番高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、
宮入御表門跡、からめ手門跡等がある。
又東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂がある。

井伊谷城跡に残る遺構

井伊谷城跡に残る遺構

井伊谷城は、山頂に土塁を巡らせるだけの単純な構造です。城の南方は方形を意識して平坦に造成されていますが、北側は自然地形が残った状態です。
大手口は南東に向けられ、その延長方向の山麓には井伊氏居館跡が位置し、城と居館が密接な関係をもつことがうかがえます。
徳川家康や武田信玄が遠江の派遣を争う頃になると、斜面に曲輪を設けたり、堀を備えたりするようになりますが、井伊谷城にはそうした施設がみられません。井伊谷城は古い時代の方形居館の特徴を残したまま、廃城になったとみられます。

四等三角点(114.89m)「北神宮寺」

丘の周りに土塁のみ、城としての機能は無いようです

詰城の三岳山(三岳城跡)

三岳城跡

当城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城のうちの本城である。
南北朝時代、延元3年(1338)秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、
この城を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点となされた。

足利尊氏勢の高師康・高師冬。高師兼・仁木義長の大軍に攻められ、
ついに興国元年(1340)正月落城し同年八月二十四日夜、
詰城大平城も追い落とされて南朝の拠点は失われた。

宗良親王は駿河の安倍城に移られたものと推定されている。
その後戦国期元駿河守護であった美濃の斯波義達が井伊谷に入り、
引馬城大河内貞綱と井伊氏がこれにくみした。

今川氏親は細江町刑部城・堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地として三岳城を攻めた。
永正10年(1513)に掛川城・城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城した。

この城は山頂から尾根に沿って細長く築かれ、一の城,二の城。三の城と分かれ、
深い谷や急な斜面など峻険な自然地形を巧みに利用し、中世城郭の典型的な形態を有している。

一の城

山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾重にも巡らせ、
谷下・兎荷方面からの攻撃を防ぐ。

二の城
一の城より東の高地一帯にあって、川名・滝沢方面よりの敵を防ぐ。

三の城

現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵を阻止し、
山城で一番重要な水を確保する役割を果たした。

宗良親王の庵室もこの地にあったと伝えている。
籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、親王は城の紅葉を折ってこれに
「おもふにもなほ色浅き紅葉かな、そなたの山はいかが時雨るる」
の一首を添えて吉野に届けられた。
井の国 引佐町散策 浜松市より

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南側は開け展望台がある。

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まほろばの“井のクニ”

まほろばの“井のクニ”

まほろばとは、「素晴らしい場所 」「住みやすい場所」を意味する古語

奈良・平安時代は、遠江国引佐郡渭伊郷に行政区画された地で、

その郷名は現在の井伊谷という地名に受けつがれています。

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左端に見えるのが、

三岳山の登山口周辺にある「一ノ沢古墳群」

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中央の盛り上がった部分が龍潭寺と井伊谷宮

右端(木の枝部分)が渭伊神社・天白磐座遺跡がある薬師山

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