藤ノ木古墳(ふじのきこふん)・奈良県生駒郡斑鳩町




藤ノ木古墳(ふじのきこふん)・奈良県生駒郡斑鳩町

藤ノ木古墳 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤ノ木古墳

世界遺産・法隆寺から西へ徒歩10分、

西里と呼ばれる昔ながらの集落を歩いていくと

国指定史跡 藤ノ木古墳(ふじのきこふん)があります。

金銅製の馬具や装身具類、刀剣類など、

現在国宝に指定されている副葬品が多数く出土したことで

全国的に知られることとなりました。

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳は、奈良県斑鳩町の法隆寺西方に位置する
直径40数mの古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳で、
その内部の横穴式石室内に家形石棺があり、二人の成年男子が合葬されていた。
東アジアで発見されている古代の馬具の中で、
工芸的にも最高レベルの見事な金銅製馬具、豪華な倭風の大刀、冠、沓くつなどの
金銅製装身具類、鏡、鉄製武器、鉄製農工具、土器などの
豪華で多様な副葬品が発見されている。
この時代は、まだ前方後円墳が作られている時代であるにもかかわらず、
この古墳が中規模の円墳であること、
それにもかかわらず超一級の豪華な副葬品をもつことから、
被葬者は大王家の大王以外の人物、
すなわち皇子みこクラスの人物ではないかと考えられている。

ドアに近づくとセンサーが感知

ライトが点灯し内部の石棺をガラス越しに見ることができます。

埋葬施設は、南東方向に開口する両袖式の横穴式石室です。
全長13.95m、玄室長5.67m、玄室奥壁幅2.43m、玄室最大幅2.67m、
玄室最大高さ4.41m、羨道全長8.28m、羨道幅2.08m、
羨道中央部での高さ2.38mを測ります。
石積みについては、側壁はほぼ垂直に積み上げており、
奥壁は大型の石材を3段に積み上げ、側壁は4~5段に積み上げられています。
ただし、東側側壁は比較的小型の自然石を下部に用いて、
その上部に大型の石材を用いることから、石材の割れなどが生じ、
少しバランスの悪い積み方となっています。
天井石には、2~3mの大型の石材を用いています。
石室の床面には10cm前後の礫が敷かれ、その下には幅約50cm、
深さ25~40cmの排水溝が設けられており、
集水施設を含めた全長は約14mとなっています。

墳丘

円墳
直径50m、高さ:9m

年代・埋葬者

被葬者は揺れ動く政権の中枢部に身を置いていた
大王家の一族の人物であったと推定されている。
『日本書紀』の死亡年と遺構、遺物の年代、2人とも男性であるという推定から
北側被葬者 : 物部守屋の推した皇位継承者候補の穴穂部皇子
南側被葬者 : 翌日に暗殺された宅部皇子
穴穂部皇子は、聖徳太子の叔父である。蘇我馬子に暗殺された。
石室内に残されていた土器の年代から古墳時代後期、
6世紀後半の造営と推定されている。

埋設施設

横穴式石室、両袖式(南東に開口する)、全長:14.2m
床面には礫を厚く敷き、その下には玄室内から羨道を通り、
墳丘の裾まで続く排水溝を設けている。

玄室
長さ:6.14m、幅:2.73m、高さ:4.32m
石室の壁面の石材はほぼ垂直に積み上げられ、天井は高い。
玄室奥壁に近接して奥壁と並行する形で、
全面に朱が塗布された家形石棺が安置されていた。

羨道

長さ:8.06m、幅:1.78m、高さ:2.5m
入口付近には、須恵器・土師器が多量に置かれ、
玄室奥壁と石棺の間からは、馬具や挂甲札(けいこうざね)鉄鏃が出土した。

石棺

刳抜式、凝灰岩(二上山・白色)
長さ:約2.3m、幅:最大部1.3m、高さ:最大部1.54m
蓋の傾斜面の長辺両側に縄掛突起が2個ずつ付く

国宝 藤ノ木古墳出土品

[石棺外] 金銅鞍金具 1背
[石棺外] 鉄地金銅張鞍金具 2背分
[石棺外] 金属製品 一括(馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)
[石棺外] 土師器(9箇)・須恵器(37箇:蓋3箇共)
[石棺内] 銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)
[石棺内] 金属製品 一括(金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)
[石棺内] ガラス製品 一括(ガラス玉類)
[石棺内] 附 繊維類 一括

宝積寺
藤ノ木古墳周辺に寺院が存在したことは、古くは法隆寺に伝わる平安時代の文書に見られ、
宝永2(1705)年には、法隆寺末寺の宗源寺の管理となり
「陵山王女院宝積寺(みささぎやまおうにょいんほうしゃくじ)」
といった呼び方で記されており、この陵山とは「宝積寺境内図」の
崇峻天皇御廟のことを示しています。
また「宗源寺過去帳」によりますと、安政元(1854)年に宝積寺が焼失し、
その後現地を訪れた伴林光平の「巡陵記事」では、
焼失後に田となっていることが記されています。
第5次調査において、宝積寺境内図にある大日堂の推定地からは
建物遺構が検出されませんでしたが、第6次調査では、
大日堂推定地より北側の墳丘裾部からは、江戸時代末頃の陶磁器などの
土器や瓦とともに焼けた壁土等が出土し、
安政元年の焼失記事を裏付ける結果となりました。
このように、宝積寺は藤ノ木古墳が約1400年の間未踏掘であったという歴史の中で、
特に江戸時代において藤ノ木古墳の保護に重要な役割を果たしたといえるでしょう。

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