高天彦神社(たかまひこじんじゃ) 高天原 伝説の地・奈良県御所市北窪




高天彦神社(たかまひこじんじゃ)

高天彦神社 – Wikipedia
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/高天彦神社

金剛山へ奈良側から登拝予定。

ここ高天彦神社からのは「郵便道(ゆうびんどう)」と呼ばれています。

高天原(たかまがはら)

日本神話における天上の国。

ここ金剛山は昔は高天原山と呼ばれ、

江戸時代まではこの地が高天原史跡と考えられていた。

杉が立ち並ぶ参道は神秘的です。

高天原

葛城・金剛山高天台 – 奈良県御所市高天
奈良県南部の御所市高天。

金剛山の麓に広がる台地上に位置する。
古くは葛城といわれた地域で、そこにそびえ立つ金剛山は、
古くは高天原山といわれていた。
付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地で、
ここに所在する高天彦神社は延喜式では最高の社格とされた
名神(みょうじん)大社で、祭神は葛城氏の祖神高皇産霊(たかみむすび)神。
社殿後方の白雲峯(694m)を御神体とする。
参道の両側には杉の古木が立ち並び、神さびた雰囲気を漂わせている。

古典作品では、『蜻蛉日記』にて
『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは』という和歌があり、
さらにこれに続く和歌として『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける』
とあることから、天岩戸が葛城山にあったとする理解は
遅くとも平安時代まで遡ることが解る。
鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、
また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、
中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。
最終的には江戸時代初頭まで、新井白石が常陸国説を唱えるまでは、
この地が高天原史跡だと考えられていたらしい。
なお、高天原の石碑はこの地区にある寺の駐車場のところにある


鳥居

早朝6時、朝日に照らされる境内

社務所らしき建物


休憩所

高天彦神社(たかまひこじんじゃ)

当神社は金剛山中腹の脱塵幽谷のこの勝地に鎮座し、
社殿が出来る以前より背後の円錐形の峰(白雲岳)を御神体とされて、
高天彦大神、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)始め
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、菅原道眞公を祀って御祭神と成っています。
本殿の高皇山霊神は、高御産巣日神とか高木神などと記され古事記の冒頭に登場しています。
「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、
次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
(岩波文庫)と記されて、高い位の神様とされています。
天孫降臨や神武神話の重要場面で高天原の指令者として大活躍をする
(日本書紀)神様とされています。

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

むすび・・天地万物を産(む)し成す霊妙な神霊、万物の生成、生育、発展
むす・・・(うむす)の約、生す、産す、発生する、生まれる、蒸す、苔むす、
むすこ、むすめ、契りをむすぶ等
人間初めて、全て生物は蒸(むす)されているから体温が有り、
生命がやどり維持されていると言われます。この様に万物の誕生、
育成、発展を司る神様として、古代より崇拝されている高天彦大神です。

当社は、金剛山の中腹、東に張り出したテラス状台地に鎮座する。
この台地には「史跡 高天原」の石碑が建っている。
「高天原」は、日本神話に出てくる重要な名だ。
鳥越憲三郎氏は『神々と天皇の間』の天孫降臨の条で以下の様に語る。
ここ高天は葛城族の本拠地であり、葛城王朝の発祥の地であった。
事代主神を奉斎する鴨族が農耕生活をしている地
(御所市の町の北はずれ、葛城川に沿う沃地)に、
高皇産霊神を奉斎する狩猟・畑作が中心だった葛城氏が下っていき
支配したことに由来する伝説が、天孫降臨神話の元になったのではないか。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は高天原側(征服者側)の司令官で
建御雷神(たけみかづちのかみ)を使者に立てる。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は、大己貴神(おおなむちのかみ)「大国主神」
の息子で、父から交渉をまかされた出雲側(被征服者側)の神とされているが、
記紀が編纂された時代の支配地を考慮して、
伝説地の規模を拡大したことによると考えられる。
国譲りは出雲で、降臨の地が南九州というちぐはぐも、それが理由ではないか。


拝殿

高天彦神社

御所市高天

御祭神
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)

由 緒
天照大神の子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に本社の御祭神の娘、
栲幡千々姫(たくはたちじひめ)が嫁ぎ、御子の瓊々杵尊(ににぎのみこと)が
高天原から降臨される。
その神話に言う高天原がこの台地である。
御祭神を祖神とした葛城族は、大和王朝に先行する葛城王朝を築き、
亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。
延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官弊に預かってきた神社である。

高天彦神社

「延喜式」に大和・葛上郡十七坐の一で高天彦(たかまひこ)神社とある
名神大社に列せられ・月次・相嘗・新嘗の祭がある
祭神は高見産霊尊(たかみむすびのみこと)別名高天彦神
現在は 市杵島姫 菅原道眞を併祀している
神体は 社殿の後方にそびえる白雲峯(六九四メートル)別名を高天山という
高見産霊尊は「天孫降臨」に深くかかわった高天原の神であるために
この地にいまも高天原伝説が伝承される
歴史学者のあいだでも日本民族の高天原の思想はこの地に育まれたという説がある
神域の前方に、老杉の参道、その先に鶯宿梅、の奥の杉や桧の林の中に、蜘蛛塚がある
現在の社殿は 三間社の神明造、明治10年の建築

春日神社

八幡神社

菅原神社

社殿の左脇には土蜘蛛を埋めた跡とされる蜘蛛塚があります。

『日本書紀』の神武天皇の条では「高尾張邑に土蜘蛛がいて、

その人態は、背丈が短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。

皇軍は葛の網を作って、覆い捕えてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。」

と書かれています。(紀元前662年)。

土蜘蛛とは日本の先住の人々のことです。

高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに

蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。

三十八社

左 稲荷神社・中央 市杵島神社・右 御霊神社

何か解りませんでしたが神社の端に石碑がありました。

帰りにご挨拶しました。

本当に素敵な参道です。

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