秋葉山 秋葉寺 奥之院・静岡県浜松市天竜区佐久間町上平山




秋葉山 秋葉寺 奥之院・静岡県浜松市天竜区佐久間町上平山

静岡県浜松市天竜区佐久間町上平山

天神山 名古尾沢の上流部に「秋葉山 秋葉寺 奥の院」があります。

竜頭山

明治初頭まで、旧 秋葉寺 奥の院はスーパー林道天竜線沿い

現在の「竜頭山・天神山・ラクダ山」周辺、

戒光院跡」と表示されている場所にありました。

「戒光院」跡

長い間この地は秋葉奥の院の境内だったが、明治二十八年二月に「真言宗醍醐派、戒光院」として秋葉寺から独立し、その後大いなる隆盛を見た。しかし大正十四年春野町豊岡へ移転

八尺坊

古くより秋葉山奥の院の本尊だったが、正徳三(1713)年二月に田中藩主内藤信輝の宿願により焼津市花沢の法華寺へ移された。徳川信康が八尺坊であるとの言い伝えもあり、その旧跡に小祠が建つ。四月最終日曜が例祭日。

八尺坊

当初、旧 秋葉寺 奥の院に祀られた不動尊(八尺坊)は、

1713年に焼津高草山法華寺に移されました。

現在、その跡は ラクダ山 山頂下に残ります。

その後、春野町の勝坂不動尊が新たな本尊として遷座されました。

明治六年、神仏分離令で秋葉寺が廃寺になると奥の院も廃寺となりました

竜頭山にあった奥の院不動明王堂は仏像や仏具とともに

袋井の可睡斎奥の院として再構築されました。

廃仏毀釈により廃寺となった秋葉寺でしたが、

明治13年(1880年)に秋葉寺が復寺となりました。

その後、明治18年(1885年)に奥の院(竜頭山)も復興されました。

復興された奥の院には奥田義耕道者が入り

明治28年(1895年)に戒光院として秋葉寺から独立

独立してしまった戒光院に代わり、

秋葉寺は天神山中腹名古尾沢の上流に、新しく秋葉寺奥の院を設けました。

秋葉山 秋葉寺 奥の院

新しい秋葉寺奥の院は名古屋の柳田医師などの篤志を受け、

観音堂を明治33年に建設、千手観音・荒沢不動尊・琢道坊を祀り、

8月28日を大祭日と定めました。

観音境内に二間三間に堂建立。地頭大久保玄番殿へ御断り申し上げ、雄ねじ九月入仏、開帳仕り候。

一、享保元○申(一七一六)九月、行栄江戸より花沢へ帰る。

以上のことから、それまで本尊として祭られていら八尺坊が法華寺へ勧請されたので、任宗和尚(享保十一年十二月十三日寂)が勝坂不動尊を新たな本尊として御堂へ納めたことがわかる。しかし、なぜ八尺坊をこのようなかたちで焼津の地へ勧請せねばならなかったのか、信康伝説との絡みはあるが、縁起自体に年数が合わない矛盾があるなど、まだまだ多くの謎を秘めている八尺坊ではある。

可睡斎と戒光院

明治六年に秋葉寺が廃寺となった際、旧奥の院の仏像・仏具も可睡斎(秋葉寺の本寺・袋井市久能)へ移された。さらに不動明王堂も解体後可睡斎へ運び出され、大正二年に可睡斎奥の院として再構築された。そのお堂の精級で華麗なる建築様式を見るとき、また今は秋葉神社の隋神門となっている重厚壮大な旧仁王門を見る時、かつての奥の院を含めた秋葉寺がいかに人々を惹きつける権力を持っていたかが窺える。明治維新の神仏分離政策は、文化財としての寺院建築並びに仏教美術の多くを損失させた罪は大きい。政治権力が宗教に介入したり利用したりすることは慎むべきであるーということを如実に示す実例でもある。さて、明治十三年に復寺を遂げた秋葉寺ではあったが、明治十八年になって奥の院復興の声が高まり、牧泰禅住職が着手した。その時、たまたま大阪から来山していた奥田義耕道者は住職の指図によって奥の院の留守居をはじめたのだが、義耕道者の行場での修行はすさまじく、信者がたちまちにして増え、数年にして盛大となってきた。そして秋葉寺との斬○を距経て、明治二十八年三月、「京都、真言宗醍醐寺山内塔頭寺院、別格本山、院家塔、戒光院」を竜頭山へ移し義耕道者を僧籍に入り「真言宗、演習秋葉総根本道場、勝坂不動、龍頭山戒光院」の住職となって秋葉寺から独立した。

新奥の院

佐久間町上平山大萩の増田貞重家(現当主は貞雄氏)は秋葉寺の大世話人をしていたこともあって、奥田義耕道者の山入りに際しては、生活物資面からも援助をしていたという。その義耕道者が戒光院の住職となって四年後、増田家を牧泰禅住職と名古屋在住の篤信

家・柳田医師が訪れ、「秋葉寺の奥の院を再興したいが、どこか適当な場所はないだろうか」と尋ねた。貞重氏は天神山中腹の三つの滝がある森に二人を案内した。泰禅住職は森厳な雰囲気をもつその場所が気にいり、観音堂の建設地が決まった。そして同行した柳田氏の「琢道坊も一緒に祀りたい」との願いも受け入れ、千手観音・荒沢不動尊・琢道坊を祀る御堂が翌年明治二十九年に落成した。院代に鈴木洞宗行者を置き大祭日も八月二十八日と定められた。以上が、新奥の院創設のかいつまんだ由来だが、「秋葉山由来和讃」の一節に当時の事情が述べられているので、紹介させていただく。

勝坂村の不動尊    奥の院をば転地して

山香村へぞ権健立す  天神山を開○し

不動明王遷座にて   住岡氏の秘蔵ある

尊像松本浅十が    送還在りし御供にて

奥の院へぞ祭祀なす  発起の施主は山香村

増田高木の両人は   安座の地をば寄付為て

開○ありし霊地なり  秋葉山奥の院とぞ

改正ありしと思ふべし

その後昭和五年に、村会議員・山崎笹司氏の主導のもと、御堂をはじめとした境内の大改修が行われた。この時は実に多くの賛同者を得たことが、堂内外に飾られている額などでわかる。縁者である江口家の巨額の寄付、地元上平山の住民の寄付、その他遠近の信者たちによる寄付……。現在も、八月二十八日には、七、八十名の方々が山道を1時間余りかけて登山し、大祭に参加されている。平成七年のお祭りには、地元上平山の世話役の皆様の準備のもと、秋葉寺住職。藍谷俊雄師、東福寺住職・荻田順師、永泉寺住職・山田法隆師が読経し、島田市や静岡市方面から見えた信者たちを含めた皆々が御本尊に手を合わせた。しかし自然環境が厳しいこともあって建物の老朽化がすすみ、座るにも危険な状態になりつつある。近い将来、林道が境内の下まで延びることになっているので、少なくとも観音堂だけでも建て直せないものかとー山歩きをしていて日が暮れ幾度かこの参ロウ籠所を利用させていただいた者としては願わずにはいられない。

なお、琢道坊権現の世にも不思議な話は「仙界真語ー柳田泰治著ー幽冥界研究資料・第一巻に記載されていて、「秋葉山三尺坊大権現ー野崎正幸著、秋葉山秋葉寺監修」でもその物語を採り上げているのでここでは増田家に伝わる「琢道坊由来」を要約して述べさせていただく。

名古屋宮町に柳田太助という医者がいた。妻と三人の息子のほかに、才亮(さいすけ)という弟子が同居していた。慶応三年、日本国にオカゲがあり、名古屋でも盛んに祝っていた。太助は、このことを非常に嫌った。しかに、息子たちと才亮は祭りが好きなので、これを極めて嘆いた。ある日、太助の妻が四人に向かって「お前たちは先生の嫌うのを嘆くけども、もしお札が家に降ったならば祝うことにしましょう。いったいお前たちにはお金がみなでいかほどあるのか」と問うた。四人は「二円あります」と答えた。母は「それならば私も二円出しましょう」と言った。当時酒一升二銭ぐらいで買えたので、四円あれば大祝いができるぞと、四人は非常に喜んだ。とりわけ才亮は喜び「明日の九つ頃、秋葉山の大札が降ってくる」と言った。他の者は「お前にそんなことが知れてたまるものか」と嘲笑した。翌日の十二時頃になると、才亮は「もう大札が降ってくる時刻である」と言って外へ出た。すると案の定、天から大札が降ってくるのが見えた。「あのお札が秋葉の札で、家へ降ってくるのだ」と才亮が言う通り、その札は、家の奥の間の神殿に舞い込んで納まってしまったこのことがあってから、母や子供や才亮がお金を出さなくても、大助が多大の金を出してお祝をしてくれた。名古屋地方のこの時の習慣に従い四斗の酒樽を幾本となく鏡を抜いて大通りへ出し、通る人に自由に飲ませ、また七夕の時のように竹を立てて祝った。しかし、どういうわけか、その竹が自然に折れてしまった。先生は大変気を悪くして、今度はいかなることをしても折れない名古屋第一という大きな竹を買い寄せて立てた。そうして祝っているうちに、群衆の中からだれ言うともなく「この竹に登れる人はあるだろうか」という声があがった。この時才亮が「私が登る」と言ってするすると登って行って、姿を消してしまった。太助先生をはじめ家内中大いに悲しんで「大災難であった」と言い合った。その後、一年半ばかりたったある夜半、太助の枕辺に来て「先生、先生」と起こす者があった。見ると才亮であった。「先生は三尺坊様が連れに来たから。暇を告げずに行った」と詫びるので、「ああ、そんなことはどうでもよい。帰りさえすればよい」と太助はいたわり、泊まって行けとすすめた。しかし、「私は秋葉奥の院天神山青木の御殿に住んでいるが、今日は三尺坊様にも暇乞いせずに出て来たから、どうしても帰らなくてはならない」と言って、行ってしまった。

夜が明けて太助が昨夜のことを皆に話すと、「家から出たり入ったりした跡もないのに、あんなことを言うのは気が触れたからだ」と、悪い評判が広まる結果となってしまった。それからまた一年半ばかりたったある夜半、前のように才亮が枕元にやって来た。太助が今度はやるものかと度胸を決めている、「今日は先生にいろいろは話がある。しかし私には三尺坊様の弟子となって和計持威徳尊という名前をもらったから、先生と同席では話すことができない。神殿を片づけ座敷を清めて神酒○米をたててそこで話す」と言うのでそのようにした。神殿で才亮が言うには、「先生に七日厄介になってから、親類縁者や心安い者と別れえおして行く。生身があると大天狗との付き合いの邪魔になるから、この生身を先生どうかよろしく処理して下さい。私は七日目に奥の院へ帰るが、先生には願いを晴らせんため一度お目にかかるから、どこでもよいから身を清めて柏手を打って下さい」と。それから七日目の午後三時頃、親類縁者や懇意者など数十人がいる所で、どんどん話をしていながら、座禅を組んだまま首を傾げた限り、この世を引き取ってしまった。(この時、木とも金とも、石ともつかぬものを持って来て、八所坊様として祀れと言って逝ってしまったので、今でも柳田家で祀っているとのことである。)葬式後八日目に、太助が裏庭へ出て水を浴び拍手を打つと、才亮が土蔵の屋根の上に現れて「疑いを晴らさんために、お約束通りお目にかかるが、今後はこれ限りお目にかからないから、何事によらずオミクジで乞うてください」と言い置いて行ってしまった。太助は不思議でならぬため、秋葉奥の院を訪ね、どうか会ってくれと願ってもなかなか出てこなかったが、1週目の午後五時頃、元の姿で現れて「先生があまりに度胸を据えているので仕方がなく会いに来たが、私はもの三尺坊様の弟子となったゆえ、もう先生に再びお目にかかることはできないから、けして私を恋してくれるな。いかなることでもオミクジで乞うてくれれば御指図します。と言って姿を消してしまった。(秋葉寺に伝わる話としては、琢道坊と柳田医師はボボ岩で出会ったことになっている。)その後、太助のオミクジが評判となり、医師は繁盛し陸軍の三師団長の瘰癧を治した縁故により、三男の柳田三郎は軍医正となったという。琢道坊は、本名を澤井才一郎と言い、国学者鈴木明(本居宣長の高弟で、わが国の語学史に大きな足跡を残した)の孫にあたる。医師の多い家系だったから、才一郎少年も柳田家に弟子入りしたのだろう。

「琢道坊由来」には、さらに、「天狗となった琢道坊が、尾張大納言様の大阪京都大乱の節にお助けいたし、また越後の合戦でもお助けいたしたことを大納言様へ申し上げたら、お城のお庭に御社を祀られ、御信心に相成られたことは、実正である。琢道坊がお山へ御去り遊ばされ候節に御誓いには、まず物覚えを良くし、難病・難産の人を救い、火難水難は申すまでもなく除く」とあり、拝み方として「『南無琢道坊和計持威徳尊』を唱えたあと『オンビラビラケンビラケンノウソワカ』の真言を繰り返し、自分の願いを述べる」とある。

秋葉寺世代一覧

世代 住職名

開基 大僧正行基大菩薩 (養老二年二月五日 寂)

二  白竜円明律師

三  照山覚仁律師

四  法山義仁律師

五  崇運道信律師

六  白道冥明律師

七  冥誉明仁律師

八  円覚明融律師

九  義岳法仁律師

十  證覚大仁法印

御神木

増田貞重家代々の霊社

琢心館

江口家御霊社

奥の院の一番奥には10mほどの高さの滝が祀られているます

古代より禊の滝として知られていたそうで上には不動明王の石像が祀られています。


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