金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)・静岡県浜松市浜北区尾野
静岡県浜松市浜北区尾野にある「金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)」へ
金刀比羅神社は元々、高根山の麓にある大宝寺境内で
金毘羅大権現としてお祀りされていましたが、安永6年(1777)火災で焼失したため、
江戸時代に高根山の東隅である現在地に移されたそうです。
境内には貴重な江戸時代の社殿建築が数多く残っています。
金刀比羅神社 一の鳥居・二の鳥居
家内安全 心願成就
金刀比羅神社
現在の金刀比羅神社は江戸時代末期にかけて完成され、長い石段を始め本殿・祓殿・多賀神社・寄宮・神楽殿・社務所・水屋・或いは数多くの常夜燈があります。その昔は根方参りの中枢であり、現在でも御利益があると地元ばかりではなく、遠方より定期的に大勢の方がご参拝にお出でになります。近隣でも江戸時代の神社建築がこのよ様にまとまって残っているのは他になく、貴重なものです。春、秋の大祭に行われる奉納神楽は百有余年来伝承されています。
年間祭式
一月一日 元旦祭り
一月中旬(日曜日) 鎮火祭
二月十一日 建国祭(赤佐地区の三社輪番による)
三月十日(直前の土・日曜日)春の大祭
五月中旬(日曜日)鎮火祭・霊人祭
九月上旬(日曜日)鎮火祭
十月体育の日(直前の土・日曜日)例大祭
十一月上旬(日曜日)七五三祝
十二月上旬(日曜日)新穀感謝祭
式内社 高根神社(一五〇二年造営)
金刀比羅神社より徒歩で約六分
御祭神 保食神(うけもちのかみ)
二月上旬(初午の日)大祭
十二月上旬(日曜日)新穀感謝祭
両脇に常夜燈が立ち並ぶ172段の石段を登る
金刀比羅神社
神社はもとは大宝寺の境内にありましたが火災の後、今の場所に建てられました。浜北で江戸時代の神社建築がこのようにまとまっているのは他になく貴重なものです。また春祭りと秋の例大祭に奉納される巫女神楽は、安政3年(1856年)から始められました。
江戸時代の建物
祓殿 天保十三年(1842年)
神楽殿 安政四年(1857年)
拝殿 文久三年(1863年)
多賀神社 元治一年(1864年)
神楽殿
金刀比羅神社巫女神楽
浜松地域遺産 認定文化財
金刀比羅神社巫女神楽
番号・種類 224 無形民俗文化財
認定年月日 平成31年2月18日
安政3年(1856年)3月始めて御神楽を21日間奉納したところ参拝者が後を絶たず、村人が喜んでこれ以来村人たちで奉納することにしてきた。そこで井伊谷領主(近藤家)の許可や中泉の代官所の了承を得ていよいよ本格的に実施しようとした矢先、突然家元である小川村の市川豊後守から苦情が出て、実施することができなくなってしまいました。当時の世話人達は、市川豊後守へ再三再四の陳情や誓約書を差出すなど苦労と努力の結果、漸く免許を得ることができ、公然と実施する事が出来る様になりました。その後絶える事もなく現在も小学生の舞子と、奉仕の楽人によって3月の春祭と10月の例大祭には奉納されています。(遠州山辺の道の会)
金刀比羅神社 お神楽の由来と神楽殿
いまから百五十五年前に安政三年(1856年)三月、初めてお神楽を二十一日間、奏進したところ、連日参拝する人々が絶えず、村の人たちも、これから、お神楽を奏進することに賛同した。そこで井伊谷の領主(近藤家)の許可や、中泉の代官所の承認を得て、いよいよ本格的に実施することになった。ところが、突然、家元から苦情が出て、神楽の免許が無くては実施することができなくなった。当時、家元は小川村(現在の天竜区小川)の市川豊後守で、秋葉神社。光明寺の神楽を司ると共に、当地方の神楽の取締りしていた。この免許を得る為、当時の世話人(青島弁吉氏、藤本千代蔵氏、野中平左衛門、竹内竹次郎氏、小野田亀吉氏、青島七之助氏、鈴木久蔵氏、野中清兵衛氏、町田八蔵氏、竹内逸蔵氏など)の努力は並々ならぬものであった、特に町田八蔵氏は市川豊後守と親交があった小松村の竹内太郎吉氏と通じて了解を得るよう努めると共に、竹内逸蔵氏は全責任を負う旨の誓書を、市川豊後守に差し出すなどの苦心と努力の結果、漸く免許を得て、公然と実施することができるようになった。村の人達も大いに喜び、氏子の中から選ばれた楽人や、舞子達が家元から神楽を伝授をうけると共に、神楽殿を建築することになり、当時、この地方唯一の名工ちいわれた、上島村の渥美長吉氏にお願いした。翌安政四年(1857年)神楽殿が落成したのを祝って、晴れてお神楽の奏進をした。この儀式には、領主の代参として小松村の大京院を始め、市川豊後守、大宝寺方丈なでの参列があった。その後、大京院は指導者として、小松村の竹内太郎吉氏や中瀬村の河合重三郎氏は世話人として、神楽の充実に尽くした。神楽殿は、はじめ瓦ぶきであったが大正十二年銅ぶきに改め、その後、小修理を加えながら現在に至っている。
祓戸社(祓殿)
天保十三年(1842年)造営
祓戸社(祓殿)
祓戸社は、世の人達が、日常の生活の中で知らず知らずのうちに犯す罪や穢れを祓い清めて下さる四柱の神様をお祭りしてあります。
ご祭神は、
瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
気吹主神(いぶきどぬしのかみ)
速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)
この四柱の神様あ伊弉諾尊が、お亡くなりになった伊弉冉尊を黄泉の国を訪れ、お帰りになってその穢れを祓う為に「筑紫の日向の橘小戸の阿波技原」の水の流れの中で禊をされた時、始めにお生まれになった神様です。
尚、この社殿には中央に祓戸四神を祭り。更に、向かって右側に天照大神(伊勢内宮、天照皇大神宮)左側に、豊受大神(伊勢外宮、豊受大神宮)がお祭りしてあります。 静岡県下において祓戸社があるのは尾野の金比羅神社と、三島の三嶋大社を含めて数社しか在りません。
金鳴石(きんめいせき)
岩石名 輝緑石(火成岩)
この石を叩くと金属のような澄んだ音がします。神社鈴と同じように石を叩くことによって、神を敬い神に感謝を表します。かねのなる石とも云われ御利益が有るそうです。この石は、今から2億5〜8千万年前も昔の古生代二畳紀(ベルム紀)から中生代白亜紀にかけて、今の日本から数千km離れた海洋底を構成していた玄武岩質に地層内の割れ目などに沿って地下深くから貫入してきた塩基性(石英文が少ない)のマグマがゆっくりと冷えてできた岩石です。三波川帯と言われている動力変成でできた結晶片岩帯の中に分布しており、長野県の下伊那地方から静岡県内天竜川流域のお佐久間町や龍山町など天竜区北部に分布しています。
金刀比羅神社 拝殿
金刀比羅神社 本殿
文久三年(1863年)造営
金刀比羅神社
金刀比羅神社は延宝五年(1677年)頃より大宝寺の守護神として大黒天を金刀比羅大権現と称して祭ったが、安永六年(1777年)に火災にあってから、今の場所に移した。その後、幾多の変遷を経て、明治八年(1875年)本殿の落成と共に、改めて四国の隠岐の国(香川県)の金毘羅宮より迎えしたもので、御祭神は、大物主命、白峯大神、金山彦命の三柱である。
大物主命は、大国主命の和魂ちも、または別名とも言われている。天孫降臨の国譲りや出雲の白兎などの神話の多い神様である。このような神話が示すように、大変情深い神様で御神徳の巾広く、家業、繁栄、航路、交通安全、医薬、学問、技芸上達、縁結びなど、世の総ての人達に、幸福をさずける神として知られている。
金山彦命は、鉱山や金属類を司る神様で、鉱山及び鉄鋼関係者や、金属で作られたもの、例えば金銭、自動車初め各交通機関、各種機械類、各種道具、刃物などを扱ったり、使ったりする人達の守り神であると共に、火を防ぐ神様でもある。
白峯大神とは、第七十五代の崇徳天皇のことで、四国の讃岐の国(香川県)でお亡くなりになり、その後、金比羅宮に合祀された。
寄せ宮(左) 多賀神社(右)
多賀神社
元治一年(1864年)造営
多賀神社
多賀神社は伊邪那岐命(男神)伊邪那美命(女神)のご夫婦の神様を、お祭りしてある。この神様は日本で初めてのご夫婦の神様と言われ、日本の国土をお生みになり、更に大勢の神様をお生みになったなどの神話で有名です。また皇室のご先祖と言われているい伊勢神宮(皇大神宮)のご祭神、天照大御神の御両親である。この為に「お伊勢に参らば、お多賀へ参れ。お伊勢はお多賀の子でござる」と歌われています。当社は元治元年(1864年)三月、江州(近江の国、今の滋賀県)の多賀大社より御神霊をお迎えしてお祭りしたもので、古来より、延命長寿。病気平癒、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄、良縁結婚、などの神様として敬われています。
寄せ宮
寄せ宮
「昔より尾野の各所にお祭りされていましたが、明治十四年(1881年)にこの地に集められたのもです」
1北野天満宮 慶応三年 一八六一年 菅原道真公 天神様。学業の神として名高い・
2春埜神社 慶応元年 一八六五年 春埜山太白坊(天狗)春埜講。家業繁栄・病気除けなど祈願。
3尺地宮 正保四年 一六四七年 猿田彦命 交通安全・厄除・商売繁盛など祈願。
4諏訪神社 不明 建御名方命 武道の神。風、雨、水の守護神。
5若宮八幡宮 天正十五年 一五八七年 品陀別命(第十五代応神天皇)武道の神。開運、勝運受験合格なで祈願。
6東西水神社 慶長十二年 一六〇七年 速秋津日子神・速秋津比売神。港や海、川、灌漑用水などの神。
7六所神社 明治十四年 一八八一年 底棉津見神・底筒之男命・上筒之男命。海の神。航海の神。
8多度神社 嘉永五年 一八五一年 天津子根命・天目一箇命。鍛治の神様。暴風雨の神。
9八面荒神社 寛永十七年 一六四〇年 奥津島比売命・市寸島比売命・多岐島比売命・天之忍穂耳命・天之菩碑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命。大勢の神様のため御神徳の幅は広い。
10八雲神社 天明元年 一七一八年 素佐之命(昔は牛頭天王と呼ばれた)伝染病除け・厄除けの神・植林・農業の神
11雷宮 不明 豊雷比売命 雷の神。農業の神。
12山王神社 不明 大山津見神・大山 神。山の神。酒造りの神、商売繁盛・開運など祈願。
13天王社 不明 平成三十年十二月町内から遷鎮座された。天王様とよばれているが、大正時代に八雲神社より分社になったものである。
木之葉神社
木之葉神社
御祭神 木之葉神社天狗
木之葉天狗さまは、昔からこの高根山に棲んでおられたといわれています。そこへ、四国の金刀比羅宮より大物主命と白峰大神をお迎えしたのを始め、祓戸社や多賀神社に祭られた神々、更に寄せ宮へ尾野の各地から寄せられた神々もこの高根の山へお集まりになりました、其の後、神社に功労があり霊人祭に祀られる五霊人の一人野中平左衛門の子孫に様々の形の支障がありました。不審に思って修験者にお伺いを立てたところ。「我は木之葉天狗である。境内の大木を棲家にしていたが多くの神々が集まり我の居場所が無くなった。大木のもとに我を祭れば永遠にこの地を守護するであろう」とのお告げがあり、木之葉神社として建立したものです。これは大正元年(1912年)のことですが、惜しいことにこの大木は、松くい虫によって枯死してしまいました。願い事がよく成就し、霊験あらたかとして多くに人々から崇敬されています。奉納されている天狗の面は、願い事がかなった人が上げたものです。祭典は金刀比羅神社の祭典と同じ日に春秋二回行われ三件の氏子によって維持運営されています。
遠州山辺の道
遠州山辺の道とは、三方原大地東縁から浜北北部丘稜南麓にかけての古い道筋をたどりながら歴史・文化・自然などに親しめる散策ルートです。緑や水などの豊かな自然環境と、岩水寺や秋葉山などへ向かう人々が通った古い道が残り、その沿線では遠州路ならではの名所・旧跡に出会えます。