多度大社・三重県桑名市多度町多度




多度大社・三重県桑名市多度町多度

多度大社は三重県桑名市多度町多度

神体山 多度山(403m)の南麓に鎮座

創建は雄略天皇の御代と言う

戦前は、神名帳同様「多度神社」と称していたが、

戦後の変革で、本宮を「多度神社」・別宮を「一目連神社」・摂社を「美御前社」

の三社に分ち、これを総合して「多度大社」と称していたが、

平成8年多度大社と社名を変更した。

桑名首の本拠地が現多度町一帯に当る地域であり、

その中心に開祖天津彦根命を奉齋した社が多度神社である。

古く「伊勢にまいらば多度をもかけよお多度まいらにや片まいり」と俗謡にあるように、

伊勢神宮に対して北伊勢大神宮と古くから尊崇されていた。

高名な多度祭の上げ馬神事、流鏑馬の神事は

南北朝時代の暦応年間に始まったと伝えられている。

鳥居横に多度祭の上げ馬神事が行われる「上げ坂」と

歴代の桑名藩主が神事を拝観した「多度祭御殿」

その間に御神木の楠が立つ

多度祭御殿

歴代の桑名藩主が上げ馬神事を拝観された場所であり、多度祭御殿と呼ばれております。多度祭の祭典警視場も併設されており、普段は祭の資料を展示し地域のまちかど博物館としても利用されています。

上げ坂

多度祭の上げ坂は、5月2日に新たに築かれ、5月4日に上げ坂が成功しやすいように築きなおされる。

御神木(楠)

その昔、滝川一益が長島城を修造する折、家臣の中江清十郎に当社の大楠を切り倒し城門を造り替えさせた。すると、完成の祝宴を催していた折に、暴風雨がおこり城門は流され、中江清十郎は溺死したそうです。村人は、大切な大楠を切られた事に嘆き悲しんだそうだ。その切り株から芽が出て生育した楠が現在の御神木である。

多度大社

御祭神
本宮 多度神杜 天津彦根命
(天照大御神の御子神)
別宮 一目連神社 天目一箇命
(天津彦根命の御子神)
例祭日 5月4日(前日祭)5日(本祭)

当社の歴史は古く、太古は標高403メートルの多度山全体を神体山として仰いでいましたが、五世紀の後半、雄略天皇の御代になって御社殿がはじめて現在のところに建てられました。
奈良時代末期には満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字7年(763)に我国で三番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余輩を数える大寺院となりました。
当社は『延喜式』巻九神名帳に桑名郡十五座のうち「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式内名神大社であり、後一条天皇の御代には東海道六社のうちの一社にも数えられました。また、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬の神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られています。
本宮『多度神社』の御祭神「天津彦根命」は、天照大御神と須佐之男命との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子です。御祭神の関係から「北伊勢大神宮」と称され、「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」とも謡われていて、庶民の伊勢参宮の折には当社へも必ず参拝したことがうかがわれます。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根の男、天久之比乃命の後なり」とあるように、北伊勢地方を支配した豪族が氏神としてお祀りした神様で、産業開発、商工業繁栄の神と仰がれています。
別宮『一目連神社』の御祭神「天目一箇命」は『古語拾遺』により伊勢忌部氏の祖神であることが知られ、天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際に刀、斧を作り活躍された神様で、日本金属工業(製鉄・金作り)の守護神です。さらに両宮親子の神々力を協せて雨や風を支配され、生きとし生けるものの命の源となる農業・水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就される神様です。又、一目連神社の神殿が御扉を設けない珍しい造りになっているのは当社の故実の上で見逃せない一例です。
明治6年には県社、大正4年には国幣大社という高い社格が授けられ、御社頭も益々栄え近年では健康で幸せな日々をお守り下さるとの信仰があり、近畿東海はもとより、東京、大阪方面からも多数参拝があります。
私たち日本人は、おまつりをとおして無意識のうちに神と人との接点を見出し、「神人一体」となって和み楽しみ、そこに神恩感謝の誠と確かな祈りを捧げるのです。
歳旦祭(元旦)、
「一年の計は元旦にあり」と、言われるように新しい年の新しい朝にまず大神様にお祭りをお仕えし、迎春を寿ぎ、清々しい気持で今年一年幸多かれと祈ります。
折年祭(2月7日)
「年」とはお米のことで、おまつりをする事によりほどほどに恵みの雨風をいただき、種々の災禍を免れ、豊かな収穫の秋を迎えられる様に祈る大変重要なおまつりです。
多度祭り(5月4日・5日)当杜の例祭神事で氏子の中より神占いによって選ばれた少年騎手六人が、武者姿にて3m余りの絶壁を人馬一体となって駆け上る古式上げ馬神事が、とり行なわれます。5日(本祭)には、早朝御本殿大前にて祭典が厳粛に斎行され勇壮な上げ馬の後、古代絵巻さながらの神輿の渡御があり、御旅所の馬場では、流鏑馬神事も行なわれます。
多度祭では古くから農作の時期や豊凶が占われてきましたが、近年は景気の好不況等が占われ、又、勇牡な神事にあやかって、商売繁昌、杜運隆昌、学力向上等を願う人々も参拝されます。
夏祭り(7月下旬)
ちょうちんまつりとも言われ、多度の夏の風物詩となっています。境内を隈なく照らす数千灯のちょうちんは我々を神秘的な幻想の世界へと誘います。千々の願いを御灯明に託し、心願成就を祈りましょう。又、境内ではさまざまな催物がとり行なわれます。
ふいご祭り(11月8日)
古くより鍛冶・鉄工業には「鞴」は欠くことのできない道具として使われ、年に一度感謝の意を込めてふいごを清め、縁の深い大神様に家業繁栄、作業安全をお祈りします。
流鏑馬祭り(11月23日)
上げ馬神平と並んで馬に関わる躍動的なおまつりで、古式に法り馬上の射手が三ヶ処の的を矢継早に射抜く妙技に人知れず感動の拍手が沸き起こります。
新嘗祭(11月23日)
祈年祭、例祭と共に三大祭の一つに数えられ、春に豊作を祈願して農作業に励み、実りの秋を迎え、新穀の初穂をまず大神様にお召上りいただく感謝のおまつりです。
芭蕉の句碑
芭蕉が貞享元年、当社へ参拝の折に詠んだ『宮人よ我が名を散らせ落葉川』と云う句が記されています。
第一・第二神楽殿・社務所
この御殿は神様にお神楽、舞楽をお仕えする為に建てられています。皆様の御祈祷や、結婚式などの儀式もここで厳粛にとり行なわれます。
一拳社
御祭神は一言主神と申し上げ、一言で願いをお聞き届け下さる神様です。
御社の傍らには年中清水が湧き出ていて、この神水で身体の一部を洗うと病気が治るといわれ、特に眼病に効験があると伝えられています。
美御前社
この御社は、市杵島姫命と申し上げる美しい姫神様をお祀りし、本宮・天津彦根命の御妹神です。古くから耳・鼻・口の病・帯下の煩い(婦人病〕の治癒を祈る人々の信仰があり、丹塗の御殿の前には病気平癒を願って、穴のあいた石がたくさん奉納されています。
宝物殿
奈良時代の多度神宮寺伽藍縁起並資財帳一巻・平安時代の銅鏡三十面・金銅五鈷鈴一口(重要文化財〕その他、数多くの宝物が展示収蔵されています。
新宮社
階段を昇った正面に位置するお社で多度両宮の幸魂をお祀りしています。11月1日の発向祭には神事のあと餅まきが行なわれています。
神馬舎
当社の大神様は特に馬との御縁故が深く、社頭では人気者の神馬が毎日元気に大神様にお仕えしています。
社宝
神宮寺伽藍縁起並資財帳一巻 延暦7年(788〕(重要文化財〉
多度神宮寺の僧が、当時の役所に提出した文書で、由来・建物、宝物、所領等の財産を記したものです。奈良時代からの神仏習合のきざしを示す重要な史料で、写経体の書風で記されています。
金銅五鈷鈴 平安時代後期(重要文化財〉
密教法具の一つで、平安時代の五鈷鈴としては多度神宮寺跡から日本で初めて発見されました。鍍金も清淡で典雅、且つ重厚な感じを保つ逸品です。
銅鏡三十面平安時代後期(重要文化財〉
明和7年(1770)七月、この地方一帯を襲った集中豪雨の際、山崩れにより多度山中の経塚跡から鉄弓・古鈴(平安時代)と共に出土したもので、いずれも精妙な花鳥の文様が刻まれています。
白馬伝説
多度山は昔から神が在わします山と信じられ、人々は、農耕に恵みの雨を乞い出生に安産を祈るというように、日々の暮らしの平穏や家族のしあわせを祈り続けてきました。その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、ここ多度大社に1500年前から棲むといわれる白馬なのです。
古来より神は馬に乗って降臨するといわれるように、神と馬との関係は深く、馬の行動を神意の現われと判断することから、多度大社でもその年の豊作、凶作を占う「上げ馬神事」を毎年五月四日・五日の多度祭〈三重県無形民俗文化財〉で行っています。
かつて、多度山の小高い丘の上には、遠くに広がる街並を見はるかせ、人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめている白馬の姿がとらえられたと聞きます。天翔る馬には翼を与えられたように、その姿を変えて神の懐へと走り去ると、人々の幸せや出会い、喜びを乗せて、再びこの地へ舞降りてくると語り伝えもれているのです。

多度祭

多度祭(三重県無形民俗文化財)

多度大社の例祭は、五月四日、五日の両日行なわれる。
上げ馬神事、やぶぎめ神事は、多度祭の花形であり、その起源は南北朝の頃に始り、武家豪族ならびに、氏子達が古式のまま神様に奉納する行事として行なっていたが、織田信長の兵火にかかり、約三十年余の間中断をしている。徳川家の時代となって本多忠勝公が、桑名城主となり神社の再興をなし、三基の神輿を奉納し、第二代城主、本多忠政公により祭事が復興され、多額の費用を出して多度祭を復活し、更に御厨(神饌を供える地区)組織による広大な祭事となって今日に至っております。
多度祭の上げ馬神事は、人馬一体となり躍動的な祭ですが、その反面危険が伴なうことから、昔ながら精進が行なわれ、怪我のないようにつとのている。四月一日の神占いにより騎手と定められた者は、家族共々別火の生活に入り、心身を清め、乗馬の練習をなし、祭一週間も前となれば、なお一層清浄なる生活に入り大祭に奉仕する。
上げ馬、やぶさのの神事は、御厨の七地区により、神児一名騎手六名が選定され騎手を出す六地区から、祭馬(各三頭)十八頭が準備されて祭事が行なわれる。祭事は『はな馬」(上げ馬をする順序は毎年交替するが、その年の最初に上け馬をする地区を言う)の指示により進められる。騎手の衣裳は四日には陣笠裃姿、五日には花笠武者姿にて乗馬する。
四日の行事は、乗込み、馬場乗り、坂こわし、十二頭の上げ馬、須賀での馬場乗りが行なわれる。その晩騎手は神社に於いて宮籠し、五日朝六時の大祭に参列する。
五日には乗込み、馬場乗りが所定の回数行な吾、神児『七度半の迎え』(神様のお出迎え)を終了直後、はな馬から順次六頭の上げ馬を行う。楠廻り、神輿の渡御のあと須賀の馬場にてやぶさめの神事があり、神輿が再び本社に帰られて終了する。
多度祭では古くから農作の時季や豊凶を占ってきたが、近年は景気の好不況など色々なことを占う。又、勇壮な神事、祭馬にあやかり、健康長寿、商売繁昌、社運隆盛、学力向上等を願う人々も多い。

摂社 新宮社(しんぐうしゃ) 

摂社 新宮社(しんぐうしゃ) 

御祭神

天津彦根命幸魂 (あまつひこねのみことさきみたま)

天目一箇命幸魂 (あめのまひとつのみことさきみたま)

御例祭 十一月一日

江戸時代、多度大社が復興される際、両宮の御祭神は美濃国赤坂山より、まず当社に還御になられた。
その還御の様子を偲ぶのが、十一月一日の御例祭(発向祭)である。当日は御神前に轡型の御餅を奉り往時を偲びつつ、還御の喜びを伝える餅撒き行事が執り行われる。

神馬舎(じんめしゃ)

神馬舎(じんめしゃ)

参拝に来られて、先ず出迎えれくれるのが、神馬舎に勤める神馬『錦山』号です。生きた神馬がいる神社は全国的にも珍しい中、当社では神様のお使いとして、大切に飼育されています。

白馬伝説

多度山は昔から神が在わします山と信じられ、人々は、農耕に恵みの雨を乞い、 出生に安産を祈るというように、日々の暮らしの平穏や家族のしあわせを祈り続けてきました。その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、多度大社に1500年前から棲むといわれる白馬です。
古来より神は馬に乗って降臨するといわれるように、神と馬との関係は深く、馬の行動を神意のあらわれと判断するところから、多度大社でもその年の豊作、凶作を占う「上げ馬神事」を毎年5月4日5日の多度祭で行っています。
かつて、多度山の小高い丘の上には、遠くに広がる街並みを見はるかせ、人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめている白馬の姿がとらえられたと聞きます。
天翔る馬には翼を与えたように、その姿を変えて神の懐へと走り去ると、人々の幸せや出会い、喜びを乗せて、再びこの地へ舞降りてくると語り伝えられています。

神楽殿

手水舎

白馬舎

招魂社

招魂社

御祭神 西南の役以降の国内外の出征、戦歿された桑名郡市・員弁郡市・四日市市・三重郡・岐阜県下ご出身の御英霊を奉斎。
御創立は、昭和二十七年サンフランシスコ条約発効後で御例祭は春秋二度、ご遺族の方々が参列され厳粛裡に斎行される。

御例祭
四月三日
十月三日

摂社 美御前社(うつくしごぜんしゃ)

摂社 美御前社(うつくしごぜんしゃ) 

御祭神

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

御例祭   六月十七日

御本宮天津彦根命の御妹神であり、天照皇大御神と須佐之男命の誓約の際にお生まれになった。社殿は丹塗りも鮮やかな御殿である。古来、耳・鼻・口の病気や女性特有の病に御加護を下さるとの信仰がある。
その信仰に基づき、御前には穴のあいた石をお供えし、病気の快癒を願う方々が多く参拝され、奉献台には石の奉納があとを絶たない。

末社 神明社(しんめいしゃ)

末社 神明社(しんめいしゃ)

御祭神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)

御例祭  十月十七日

於葺門(おぶきもん)

於葺門を境にして、ご本殿の神域に入ります

門をくぐるとこれまでとは全く異なる、荘厳な雰囲気に包まれます。

本殿

多度大社 由緒

◆祭神
本宮 多度神社 天津彦根命
別宮 一目連神社 天目一箇命
御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子であらせられる。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり」とあり、北伊勢地方を支配した豪族が氏神として奉斎した神で国土開拓・産業開発・商工業繁栄の守護神である。
天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖であることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。
◆由緒
古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。
『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字7年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。
明治6年に県社、大正4年には国幣大社に列格し、天皇・皇后両陛下よりもたびたび幣饌料が供せられ御神威はいよいよ高くなり、全国より多くの参拝者がある。

於葺門をくぐると神明社(天照大御神)その先に神橋がある

本宮(多度神社)の横、神橋の下を流れる川の上流部は滝になっており

心地良い水の音が絶えない

本宮 多度神社

本宮 多度神社

御祭神

天津彦根命(あまつひこねのみこと)

相 殿

面足命(おもだるのみこと) 惶根命(かしこねのみこと)

天津彦根命は、『古事記』では天津日子根命と表記されるが、共に天照皇大御神と建速須佐之男命の誓約の際に、皇大御神が須佐之男命に授けられた物からお生まれになった五柱の男神の内の一柱であり、皇大御神の御子神である。

その御縁故により、当大社を「北伊勢大神宮」とも申し上げる。
 また『新撰姓氏録』には、犬上県主・蒲生稲置・菅田首・額田部連・額田部湯坐連・三枝部造・高市県主・奄智造・凡河内国造・凡河内直・津国造・山背国造・山背直・磐城国造・磐瀬国造・菊多国造・周淮国造・馬来田国造・師長国造・茨城国造・周防国造らの祖神とされる。
 その中にあって、桑名周辺に本拠を置く桑名首の斎き奉る御祖神と記載され、この『新撰姓氏録』が編纂された平安時代初期には、既に桑名周辺の人々の総氏神と崇められていたと思われる。
 また、相殿に奉斎の面足尊、惶根尊は、共に天地開闢の際にお生まれになられた神世七代の第六代目の神であり、面足尊は男神、惶根尊は女神と見なされる。

御供石

別宮一目連神社

別宮一目連神社

御祭神

天目一箇命(あめのまひとつのみこと)

別宮御祭神、天目一箇神は、天之麻比止都禰命、天久斯麻比止都命とも申し上げ、御本宮主祭神天津彦根命の御子神である。
『古語拾遺』によれば、天目一箇神は、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖であり、岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造られたと記されている。
また、大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ)として祭祀に用いる物をお造りになられたとも伝えられ、日本書紀の一書(傍説)では、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとも記されている。
また、天目一箇神は御父神である天津彦根命と共に、天候を司る神とも仰がれ、古来より伝えられる雨乞祈祷では、御本宮と並び、別宮においても祭典が執り行われ、近世では伊勢湾での海難防止の祈願も多く捧げられた。
また、当地方一円では、天目一箇神が御稜威を発揚される際、時に臨んで御殿をお出ましになると言い伝えられ、古来御社殿には御扉の御設けが無い。

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